隷書

愛川きむら

隷書

 わたしの腕のなかには、わたしにとって命と対等の価値を得るモノがいる。

「うう……ぼくなんか、ぼくなんか……」

 情けなく大粒のなみだをこぼす彼の名はビーン。現世を生きるキョンシー。性質は古来のものとさほど変わりはないのだが、顔に札が張り付いていないのが大きな異なる点だろうか。髪の色は茶髪のくせっ毛で、瞳は女々しく垂れている。彼のせいで部屋には死臭が充満しているが、わたしにはそんなことどうだっていい。

 小柄な彼は、自分よりも目上の場所に置いてあった本を取る拍子に滑らせ落としてしまった挙句、中途半端に開いて床に落下したためにページの端が歪んでしまっている。そして彼はこうして涙している。

(泣いたって事は進まない。泣いたって誰も手を差し伸べてくれない。でもわたしはちがう)

 虚ろとした眼差しを落とし、浅い呼吸で思考を巡らせる。

「ビーンにはわたしがいるよ」

「ヒナ……ヒナぁ……。うう、ごめんなさい……」

 わたしの名前はヒナ。生まれていちばんその名を呼んでくれているのはビーンだけだろう。それくらい、わたしたちは長いあいだ時間をともにしている。ビーンはわたしから離れられない。自分を受け入れてくれるのはわたしだけだと思い込んでいるから。そうやって自ら視野を狭くしているのは現実逃避の一種だろう。しかしわたしもそうだ。わたしもビーンからはとても離れることはできない。こんな生まれたての赤ん坊みたいな子、ひとりにさせるわけにはいかない。腐った大人たちの餌にさせるわけにはいかない。

(わたしが守らなきゃ。世間から、人の目から、数多なる苦痛から)

 本に囲まれた陰湿な一室で、わたしたちだけの世界を創り上げる。わたしとビーンにしかわからない言葉、気持ち、愛すべてをさらけ出す舞台がこの部屋だ。俗に言う文学少女のわたしは書籍が家族であり友人であり恋人なのだ。それをビーンは理解している。だからこそ彼もそれと同じ立ち場になりたく思い、今こうやってぐずぐず泣きながらも這い上がってきているはずだ。しかしそんなことしなくともビーンはもうわたしにとってかけがえのない存在になっている。でもまだ彼は求める。わたしを求める。わたしを貪ろうとしている。

 わたしはヒナという名前だけど、わたしの親鳥はどこへと行ってしまったのだろう。わからない。思い出せない。思い出したくない? 思い出そうとしない? 怖がっている? わからない。もうそういった感覚が麻痺しつつある。それもこれも、全部ビーンが発する臭いのせいだろう。くらくらする。

(酔っているのはわたしのほう――)

 そう理解しつつも彼に手を差し伸べてしまう。本当は知っている。彼はわたしよりもはるかに強く、たくましい。ビーンだってそうだ。わかっているはずだ。自立できるはずだ。それなのにいつまでもお互いよりかかったままなのは、知らない何かや新しい何かに触れることに怯えているから。

 わたしたちは未完成なんだ。


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隷書 愛川きむら @soraga35

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