目覚めれば夕闇の街 ~転生した私の(霊に)愛され生活~
扇智史
1 目覚め
不思議な夢から目覚めるみたいに、ぼんやりと目を開ける。
寝ている私の顔の真ん前を、火の玉が漂っていた。
「ひゃっ」
声を上げて、私は両手で顔を覆った。
おそるおそる、指の隙間から外をのぞくと、火の玉はすぐそこで左右に揺れている。まるで、向こうも私の顔をのぞき込もうとしているみたいだ。
何これ?
目も耳もない、ただ青白い炎を発して、うっすらと光るだけの火の玉。
追い払おうにも、うっかり触れたら熱くて痛そう。かといって、起きあがろうにも、頭上をふさがれている状態。
私は、横になって顔を覆った姿勢のまま硬直してしまう。はて、どうしたものか……
「おっ、目ぇ覚めた?」
のんびりとした女性の声がした。それから、床をきぃきぃと鳴らして、足音が近づいてくる。
「ほら、しっしっ。邪魔になってるじゃない」
声に追われて、私の目の前に浮いていた火の玉の気配が遠ざかっていく。
私はおそるおそる、顔から手をのけて、声のしたほうを振り返った。
白衣を着た、長身の女性がベッドのそばでこちらを見下ろしている。
床まで届くようなものすごく長い黒髪。首には赤いチョーカー。たわわな胸元が、白衣と、その下の紺色のセーターを盛り上げている。
その胸の前で、右手をひらひらと揺らしている。指がやけに白い……違う。指一本一本の根元から指先まで、白い包帯に覆われているのだ。
彼女は、包帯を巻いた人差し指をおとがいの先に当てて、微笑した。
「おはよう」
「……おはようございます」
挨拶には挨拶を返すのは当たり前のことだ。
私はゆっくりと上半身を持ち上げ、女性に向けて一礼した。何が何だかよくわからないけれど、とにかく、やるべきことはする。
ベッドの上に座る姿勢で、女性に目を向ける。女性は私を一瞥して、かすかに笑う。
「なんだかわからない、って顔してる」
見透かされた。
胸の奥がすっと冷えるような気分で、思わず私は顔を両手で覆って、うつむく。
「……すみません」
「謝ることないのに。だって、わからないのは事実でしょ?」
そうだけど。
でも、自分がどうしてここにいるのかもわからない、なんて、とっても恥ずかしいことじゃない?
ますます、私はうつむいてしまう。
白衣の女性が、ふたたび、ふうん、と息を吐いた。
「たぶん、何から訊けばいいかもわからないよね」
「……すみません」
「とりあえず、一から説明するわ」
私の言葉には取り合わず、女性は告げた。
「あなたは死んだの」
「……そうなんですか?」
「うん。そして生まれ変わって、ここに現れたの。
夕闇の街。
「まあ、異世界ってやつ? なのかな。死んだ人ばっかりじゃなくて、人間じゃないもの……妖怪とか霊とか妖精とか、そういうたぐいのものがいろいろ棲んでる街」
そう言って、彼女はちらりと目線を動かす。私は何となく、その視線を追った。
部屋の窓が、真っ赤に染まっている。
木枠に磨り硝子をはめ込んだ、ひどく古色を帯びた窓だ。外の風景はうかがえなくて、ただ、不安な夕暮れめいた影を混ぜた紅色が、硝子一面を覆い尽くしている。
これが、この外の世界の色なのだろうか。それで、夕闇?
「人間の世界でも、黄昏時には、妖怪とかいろいろ奇妙なものが現れたりするっていうでしょ? ここはいつまでも夕闇。だから、いつも空は真っ赤で、あやかしの類がずっと棲んでいる、ってわけ」
「はあ……」
私は何となく、ぼんやりとうなずく。
女性は、軽く首をかしげた。ざわっ、と黒髪と白衣の裾がいっしょになって、ひとつの生き物みたいに波打つ。
「何も訊かないのね」
え?
きょとんとする私を、彼女は微笑しながら見つめる。
淡い色の唇が、やけに鮮やかにその場に浮かび上がっている。
「もっといろいろ知りたがるんだよ。初めてここに来た子は」
「……すみません」
しくじってしまった気がして、また頭を下げる。もっと、最初からどんどん訊いていくべきだったのだろうか? 何か、質問は……
女性は唇を薄く広げて、かすかな笑い声をこぼした。唇の奥にのぞく歯は、真っ白。
「いいの、いいの。何でも受け入れるぐらいの方が、この街には合ってるからね。あなた、夕闇に棲むのに向いてるよ」
向いてる、なんて。
そんなこと言われるの、やけにくすぐったい。
落ち着かなくて、もじもじと、私は腰を左右に揺らす。
そんな私をしばらく見つめて、彼女は軽く自分のあごをなでた。
「……
「え?」
「私の名前。
唐突な名乗りの後、女性――小雪は、くすくすと笑う。
「名前も訊いてくれないからさ。つい、自分から言っちゃった」
「あ、すみません!」
「だからいいってば。名前なんて、たいして意味のあるものじゃないし」
ぱたぱたと、包帯を巻いた指を左右に振って、小雪はいっそう面白そうに笑う。私はますます恥ずかしくて、肩を縮こめる。
名前も知らないまま、図々しく部屋に居座って、いろいろ教えてもらって。
図々しいなあ、私ってば……
「だいたいこっちだって、あなたの名前も訊いてないもの。おあいこでしょ」
小雪にそう言われて、そういえば私も名乗ってないな、と気づいた。
名前、名前……
「……名前?」
ぽかん、と私は疑問の声だけを漏らした。
私の頭の中に、ぽっかりと隙間が広がっているような感覚がある。どこを探せば目的のものが見つかるのか、分からなくて、途方に暮れる。しかも、それは本当ならかんたんに手に取れるはずのものだ。
呆然とする私に、小雪はかるくうなずいて見せる。
「ああ、忘れちゃったのね。うん、よくあること。死んだ人、生前の名前はだいたい覚えてないもんよ。私もちょいちょいそういう子に会うし、そういうときは私が名前を付けることにしてる」
小雪は、私のベッドに歩み寄ってくる。足が長くて、すらっとして、裾長の白衣がとってもよく似合っているのに、改めて気づく。ついでに、歩みにあわせて胸が上下するのもわかる。すごい……
小雪は、私の目の前で、不意にしゃがみ込んだ。
目線がまっすぐ合う。
じっ、と、私の頭の奥までのぞき込むみたいな、漆黒で、透明な瞳。
まつげが濃くて、その目はまるで、秘密を抱えた深い湖のよう。
吸い込まれそうな、一瞬。
「きれいな
「縹?」
「鏡、見てみる?」
白衣の内側に左手を差し込んで、小雪は手鏡を取り出してこちらに向ける。
鏡の中の私の瞳は、あざやかな緑色に光っていた。
鏡の枠に彫り込まれた流線の模様は、額縁みたいに私のきょとんとした顔を飾っている。
見慣れない自分の顔が、やけに遠く思える。
この世のものではないような……
……ああ、そっか。この世じゃないんだから。当たり前か。
私、ほんとに一度死んだんだ。
小雪は、くるり、と手首をひねって、手品みたいに鏡を懐にしまう。それからもう一度、私の目を直視して告げた。
「縹、ってのはどう? あなたの新しい名前」
縹。
胸の奥で繰り返してみると、しっくりと馴染んだ。
空っぽだった私の一部分に、その響きがぴったりとおさまるのが感じられた。
私は一度死んだ。それはどうやら確かなことらしい。今ここにいる私は、かつての私とは違う別人……あるいは、人間ですらない何かだ。
その私に、小雪が名前をつけてくれた。
「いいと思います」
「じゃあ決まりね。ハナちゃんと呼ぼう」
あだ名にされると、いきなり安っぽくなる。
でも、そのギャップが面白くて、私はちょっと受けてしまう。くっ、と笑うと、緊張していた胸の奥がびくんと震えた。
「いいですね」
「お、ようやく笑ったねハナちゃん」
そう言う小雪も、蕾のほころぶような笑顔。
それを見たとき、私は何だか、この見知らぬ世界でもやっていけそうな気がした。
目を見交わして、くすくすと笑いあう私たち。
その視界の間に、さっきの火の玉がふわふわと割り込んできた。
私の額あたりに接近して、触れる。
意外と熱くなかった。むしろ、ぴりぴりするような、くすぐったいような、あったかいような、いろんな感覚がいっぺんに襲ってくる。
「ふふ」
思わず私が笑いをこぼすと、いっそう火の玉は私のおでこに自分をこすりつけてくる。くすぐったくて、私は笑いが止まらなくなる。
「ちょ、ちょっと、ふふ、や、あはは、な、何、何?」
「ずいぶん懐いたもんね。珍しいんだよ、
私と火の玉のじゃれ合いを見て、小雪が面白そうに言う。
「オタマ?」
「低級霊の一種ね。何の霊だか謎だし、どういう行動原理なのかもよくわかんないけど、とりあえず霊だから御霊」
「……それも小雪さんが名付けたんですか?」
「うん」
それにしても、これも霊なのか。
私は、御霊の端を指で触ってみる。青白い炎は、私の指先にほのあたたかい感触を残す。やっぱりすこしくすぐったいけど、慣れたら気持ちいい。
猫の毛をなでるみたいに、私はしばらく御霊の先っちょを指でもてあそぶ。御霊の方も、喜んでるみたいにぴょんぴょんと宙を飛び跳ねる。
「ひょっとしたら、霊に好かれる体質かもね、ハナちゃん。そうだ、ちょっと調べてみようか。ちょい待ってね」
小雪はそう言って、立ち上がった。
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