マリンフォーゼ


           *


「……っ」


 見知らぬ黒髪の女が、イルナス皇太子の額にピタッと触れている。マリンフォーゼは、その衝撃に、思わず立ち尽くした。


 なんだ、あのキチ小娘は。


 イルナス皇太子に雑な扱いで、スルーされた後、思わず足が追いかけていた。


 何やら、切羽詰まられたご様子だった。もしかしたら、困った事態に陥ったのかもしれない。エヴィルダース皇子から、なんらかの圧力があったのかもしれない。


 もし……私に……こんな、私なんかに力になれることがあれば。


 だが、追いかけた先は、悪夢のような光景だった。イルナス皇太子が、目の前の黒髪少女に、デレている。デレ散らかしている。


 いや……うんデレと言っても、過言ではない。


「誰なの!? あのチンチクリンは?」


 遠くでガン見するマリンフォーゼは、隣の筆頭執事カスター=ムティンコに尋ねる。


「んー、お答え申し上げますぅ……ヤン=リン。ヘーゼン=ハイムの義妹で平民出身の帝国将官ですね」


 眼鏡を上下に下げながら執事は答える。


「へ、平民出身? 下賎の出じゃないの!」

「んー、そこはかとなく、はぃ」

「……っ」


 あり得ない。いや、ありべきじゃない。マリンフォーゼは、欠けんばかりに歯を食いしばった。そもそも、上級貴族でも限られた上位の者しか皇族と話すことは許されない。


 それを……下賎な平民出身のゴミ風情が。


 だが、そんな彼女の視線など関係なく、黒髪の女とイルナス皇太子はイチャイチャしている。


「んー、やっぱり、お熱がありますね。少し、いや、かなり熱いですよ」

「それは……だから、ヤン……が……いるから……で」

「ん? なんで、私がいると熱くなっちゃうんですか?」

「……っ」


 マリンフォーゼの口が開いたまま塞がらない。なんというクソ毒婦。なんたるクソビッチ。何もわからない無垢な顔をして、イルナス皇太子を手玉に撮ろうとしている。


 だが、そんな彼女の視線など気にもしないで、黒髪の小娘は至極マイペースに振る舞う。


「っと、時間だ! じゃ、私、そろそろ行きますね」

「えっ、もう!?」

「私は、そろそろ一回戦なんです。シードでもないですからね」

「……心配だな。ヤン、僕は観客席にいるから、少しでも君を傷つける者がいれば即飛び出して一刀両断するから」

「……っ」


 マリンフォーゼは愕然とした。好き過ぎて、好きがだだ漏れ過ぎて、めちゃくちゃ不穏な発言をしている。


「い、いや。それじゃ反則負けになっちゃうじゃないですか」

「全然、構わないよ」

「……っ」


 恐ろしまでの躊躇のなさ。


「もー、そんなことしちゃ絶対にダメですよ。イルナス様が皇太子の地位を剥奪されちゃうじゃないですか」

「全然、まったく、一向に構わないよ」

「……っ」


 少しの迷いすら見せない。帝国の皇太子と言えば、もはや、大陸で2番目の実力者だ。そんな誰しもが羨む地位を、なんの躊躇いもなく投げ捨てようとしている。


「……」


 あんなに凛々しい表情をしておられたイルナス皇太子が、あんなにデレデレして。


 思えば、子どもの頃でもイルナス皇太子は冷静だった。常に、優しく、自信なさげな儚い笑顔が特徴的で、あんな風に情熱的な表情を浮かべたことなどなかった。あんな風に熱狂的な言葉を紡がれたことなどなかった。


 あんな風に、見られたことなど、なかった。


「……」


 それが……猛烈に憎々しい。


「では、行きますね。キチッと、ご飯食べて、よく寝て安静にしてくださいね」

「だ、だから風邪じゃないって」

「風邪じゃなくても心配なんです」

「……っ……ズルいよ」

「……はっ……くっ」


 思わず、マリンフォーゼは唸った。イルナス皇太子が心臓を撃ち抜かれたような表情を浮かべ悶えている。あんな平民出身のクソ女に。


 そんな中。


「……イルナス様。お知り合いですか?」


 黒髪の女が、こちらに視線を向かわせる。


「えっ? ああ、マリンフォーゼ。

「……っ」


 いたのか? だと!? まるで、自分の存在などなかったかのように、イルナスは無機質な瞳をマリンフォーゼに向ける。


「マリンフォーゼ様……あっ、確かイルナス様の婚約者の?」


 !?


「違う! い、いや違うよ! 断じて違うよ! すでに、婚約は解消してて、今はエヴィルダース皇子の婚約者フィアンセで、僕とはまったく、毛ほども、1ミリも関係ないんだ」

「……っ」


 めちゃくちゃ酷い言い訳してるー。


「……イルナス様。そんな言い訳はマリンフォーゼ様に失礼じゃないですか?」

「だ、だって事実だから。事実は失礼じゃないよ」

「また、そんなすーの真似して……マリンフォーゼ様、申し訳ありません」

「……っ」


 この女。まるで、イルナス皇太子の婚約者フィアンセのように振る舞ってくる。殺意。明確な、絶対的に、本能的な殺意が、マリンフォーゼに湧き上がってくる。


 そして。


「……っ」


 当然のように一瞥もせずに、子犬のようにヤンの後をついてスルーしてくるイルナス。


「……」


 マリンフォーゼはしばらく、その場で立ち尽くし。


 ボソッと、一言、つぶやいた。 

































「ヤン=リン……」

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