エヴィルダース皇子


           *


 夜中。平民の装いをしたエヴィルダース皇子が到着したのは、帝都の貧民地区だった。


「……っ」


 若干の腐臭と濡れた獣の臭いに、思わず鼻を抑えるが、付き人ルッサールは気にせず歩いて行く。


「帝都に、こんな場所があるのだな」

「帝国の3割……いや、半分はこのような感じですよ」

「……」


 あたりを見渡すと、生活環境が劣悪な光景が続いている。


「民は、あの茶色の水を飲むのか?」


 エヴィルダース皇子は井戸の水を汲んでいる男を指差しながら質問する。


「いえ。汚れを取り除き、煮沸しないと飲めません。衣類にその汚れた水を使うので茶、色く黄ばんでいるのが普通なのです」

「……酷いものだな。あそこに倒れている者たちは?」

「食べるものがなく、動く気力もない者。もしくは、薬漬けになり廃人になった者でしょう」

「……」

「ここは、帝都平民地区の中でも最下層の者が集まる場所です。自力で生活できず、ほとんどの人が住む家もない」

「……」


 エヴィルダース皇子はジッと遠くを見つめた。


「知らなかった。帝国のすべてが、素晴らしい景色だと思っていたな」


 皮肉でもなんでもなく、それは、紛れもなく彼の本気だった。誰もが彼の治世を褒め称え、帝国国民に一切の不満がないかの如く、大臣がもてはやしていた。


「エヴィルダース皇子が政治を主導するようになって、領土は大きく拡大しました。一方で、貧民の数は倍ほどに膨れ上がってます」

「……報告にはなかったぞ?」

「それは、わかりません。実際にそうだったのかもしれない。報告を受けたのに、聞き流していたのかもしれません」

「……」


 エヴィルダース皇子自身もわからなかった。覚えていないのだ。気にしてもいなかった。


 ただ、ひたすらに、上ばかりを目指していた。


「万人を豊かにする政治などあり得ません。誰が評価するかによって見え方も変わってくる。ただ、願わくば、この景色を忘れないでいて欲しいですね」

「……」


 付き人ルッサールは淡々とつぶやく。


「確か、そなたは平民出身だったな」

「はい」

「なぜ、帝国将官になったのだ?」

「……私は、この貧民地区出身です。このような光景を少しでも減らしたくて帝国将官を志しました」

「……ヘーゼン=ハイムもそうなのかな?」


 エヴィルダース皇子は尋ねた。


「……恐らくですが、あの方は違うように思います。もちろん、有能な方ですので、彼の派遣された地域や、治める領土に貧民はほとんどいません」

「……」

「ですが、思想はエヴィルダース皇子と同じく強力な軍事力を形成することに寄っていると感じています」

「……そうか」


 富国強兵。あくまで強い兵を育てるために、そこに民への慈しみなどはない。


 大陸で最も憎しみを抱く者と同じ思考であることが、エヴィルダース皇子にはこれ以上ない皮肉に聞こえた。


「では、水を汲んであの長屋まで持って来てください」

「……わかった」


 付き人ルッサールがその場を去る一方で、エヴィルダース皇子は最寄りの井戸の方に行き、水を汲み始める。


 その時。


「おい、テメェ! 誰が使っていいって許可した!」

「……」


 ガラの悪そうな男が、エヴィルダース皇子を怒鳴り胸ぐらを掴む。


「そなたの許可がいるのか?」

「当たり前だろう! ここは、俺が仕切ってる場所だ」

「そうか……では、水を汲ませてくれないか?」

「言い訳ねぇだろう! もらいたきゃ金を出せ!」

「……ふぅ」


 エヴィルダース皇子は、小さく息を吐いて、つぶやく。


「金はない」

「ふざけんじゃねぇ! だったら、この場から去って飢え死にでもなんでもするんだな! ここは、俺らの井戸だ」

「……井戸は民の共用物のはずだが」

「ああ? んなもん関係ねぇ! 俺たちのもんだから、俺たちのもんっつってんだ! いい加減にしないとイッちまうぞコラァ!」

「……ふぅ、わかった」


 エヴィルダース皇子は、小さくため息をついてその場を去ろうとする。だが、ガラの悪そうな男は、ニヤニヤした表情を浮かべながら進路を阻む。


「おっと、どこへ行く?」

「……この井戸を使ってはダメなのだろう? それならば、別のところで汲むだけだ」

「待ちな! 俺に手間かけさせた駄賃をまだもらってないぜ?」

「……手間?」

「ああ。ありったけの金を置いてけや!」


 ガラの悪そうな男は、バキボキっと拳を鳴らして近づいてくる。


「……金はない」

「ふざけんな! なけりゃ、人でも殺して他から取ってこいや!」


 エヴィルダース皇子はグイッと胸ぐらを掴まれるが、表情を変えない。


「……別には、そなたから何かを奪った訳ではない。それにも関わらず、から奪うのか?」

「うるせぇ!」


 バキッ。


 ガラの悪い男は拳を振い、エヴィルダース皇子の頬が横に弾かれる。瞬間、鮮やかな血が舞う。


「痛い想いをしたくなきゃ、早く金を出せコラァ!」

「ないものは出せない。持ち合わせがないのだ」

「なら、ぶんどってでも、人殺してでも作ってこいや!」

「……」

「んだその目は!」


 ガラの悪い男は、そのままエヴィルダース皇子を引き倒して、殴り倒す。


「へっ……根性なしが」

「……」


 そう吐き捨てて。


 何度も何度も殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。






























「もっと……もっと、を殴ってくれ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る