脱出


           *


 その頃、ヤンとイルナスは暗闇の帝都を馬で駆け抜けていた。やがて陽が差し込み、ちらほら農村なども見えてきた時、イルナスが眠気に襲われて落馬しそうになった。


 慌ててヤンが童子の脇腹を支えて体勢を戻し、ことなきを得るが、もう体力が限界なのだろう。


 ヤンは馬から降り、イルナスをおぶって歩き出す。


「ヤン、すまぬ。は大丈夫だ」

「いえ。もうそろそろ馬から降りないといけないと思っていたので、ちょうどよいです」


 黒髪の少女はそう答え、馬房を持つ農家を訪ねた。さすがに馬を野に放すと即バレしてしまうが、馬房の中で一頭増えたところで気にする者は少ない。


 『理由は聞かない』という条件で、無償で渡すことにした。代わりに、貧民から農民用の服を得て、食事もわけてもらう。


「イルナス様は、そろそろ平民口調の練習をしなくてはいけませんね」


 蒸した大根のかじり方を教えながら、ヤンが優しく頭をなでる。『そなた』や『』など皇族言葉は非常にまずい。人を呼ぶ時は『君』、そして自分のことは『僕』と言うことにした。


「……平民は『俺』とか『お前』の方が一般的でだと教わったが?」

「平民でも童子には、割と綺麗な言葉を覚えさせる家も多いのです。行儀良く育ってほしいですからね。かと言って『私』のような気取った言葉は男の童子では使いません」


 そう説明しながら、非常に頭のよい子だとヤンは感心する。皇族教育が厳しいことは知っているが、培った知識を踏まえた上で、疑問を投げかけてくる。


 好奇心も旺盛だし、気質も素直だ。賢帝の素質は十分にあると黒髪の少女は密かに思う。


 20分ほど休憩した後、すぐさま農村を出発した。帝都を抜けるにはこの森を通り、さらに10時間ほど歩かなくてはいけない。天空宮殿を出発してから1日ほどで、ここまで来られるとは予想していなかった。


「しかし、ここからはより慎重さを求められます。すでに、イルナス様に懸賞金がかけられている可能性も考えて行動しないと。まあ、いざと言えば魔法を使いますが」


 ヤンは自身の魔杖を見つめながらつぶやく。牙影がえい。主に闇の力を引き出す魔杖まじょうである。


 ヘーゼンの教育(?)によって、ヤンはどんな種類の魔杖でも扱える。そこそこの出力も出せる。だが、それでも修練してないことに不安を覚える。


「……ヤン。やはり、戦わねばいけないのか?」

「どうでしょうかね。しかし、さすがに、犬狢ケバク蛇封ダオフォン古虎ジェガン相手では勝算は薄いでしょう。それはスーもわかっていると思います」


 派手な老害グライド将軍は、使えないし。


 彼ら暗部は集団戦・暗殺を得意とする単騎で相手ができるのは、四伯くらいだろうとヘーゼンは言っていた。


 四伯は帝国で最も武功をあげた4人の敬称である。それぞれ、数国を従属させた莫大な功績と周囲を圧倒するほどの強大な魔力を併せ持つ怪物たちだ。


「……」


 ヘーゼンが潜伏中のヤンに表だった支援はできない。と言うことをを考えると、単独でヤンが味方を囲っていく必要がある。


 有能な仲間が欲しい。


 1時間ほど山道を歩くと、さすがにイルナスの息が上がってきた。2日前から不眠不休なのだから仕方がない。


 そろそろ体力の限界だとわかったヤンは、大きな木の幹にもたれかかって座りこみ、イルナスを優しく抱きかかえる。


「少し休んでください。昼間の森は危険が少ないので、数時間ほど睡眠をとりましょう」

「い、いや、わ……僕はまだ大丈夫だ」

「……」


 イルナスから、足手まといになるわけにはいかないという強い思いが伝わってきた。この童子は5歳の割に身体が小さい。


 肉体的にも精神的にも疲労が限界を超えているというのに、その気丈さは驚愕に値するものだとヤンは思う。


「それでは、『休憩』ではなく『準備』とお考えくださいませ。申し訳ありませんが、もうこの森では休めません。より早く帝都を抜けるために、より過酷な道を行かねばなりません。そのために、今は少しでも睡眠をとってください」


 そう諭すと、やっとイルナスの肩から力が抜ける。堅かった筋肉が柔らかく崩れ落ち、寝息がスーッ、スーッと音を立て始めた。


 そんな童子を微笑ましく思いながら、うつ伏せの体勢から仰向けにする。多少体勢は悪いが、子どもは関節が柔らかいので、腰を痛める心配は少ないだろう。


 ヤンはなるべく力をかけぬようにイルナスを優しく抱きしめた。昼間とはいえ、森の中は少し冷える。少しでも温もりを感じ、安心して眠って欲しかった。


 決して、自分が抱きしめたいだけじゃない。決して、自分がイルナスのツルツルの頬をスリスリしたいだけじゃない。誰もいない森の中で、ヤンは自分自身に弁明をした。


 スヴァン領のザ・マン候の城までは、まだ4分の1にも到達できていない。無事につくことができたとしても、彼が力になってくれる保証もない。


「……」


 考えれば考えるほどイルナスの周囲は敵だらけだ。こんな小さな子どもに。こんな聡明な皇位継承者候補に、本当の味方が母だけだなんて。ヤンはその現状を省み、感情がこぼれる。


「イルナス皇太子殿下……絶対に私がお守りしますから」


 ヤンは、童子の頭をなでながらつぶやいた。

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