逃亡


           *


 イルナスとヤンが通過しようとしていたのは、帝都の貧民地区だった。ここはヘーゼンとヤンが短い時間で打ち合わせた逃走経路である。


「……っ」


 元童皇子は思わず鼻を抑えるが、ヤンはケロッとした様子で歩いていく。


「若干の腐臭と濡れた獣の臭いがしますが、すぐに慣れます」

「そ、そうか。それにしても……」


 あたりを見渡すと、生活環境が劣悪な光景が続いている。天空宮殿から一歩も出ていないイルナスにとっては、非常にショッキングな光景だった。


「まずは、その格好をなんとかしなくちゃいけませんね」

「格好? この衣服は、ヘーゼンが用意してくれたとのだが」

スーは生粋の平民の生活をわかっていないんですよ」

「ん? 平民出身の帝国将官だと聞いたが」

「……そのはずなんですけどね」


 ヤンは少し考えるような仕草を見せるが、やがて、あきらめたようにため息をつく。


「まあ、あの人のことは考えても仕方がないです。とにかく、ここ、貧民地区ではイルナス皇……様のお姿は綺麗過ぎます。いや、むしろ、可愛すぎる」

「あ、あの。あまり頭をなでるのは。こう見えても16歳だし」

「……はっ!? し、失礼しました」


 黒髪少女は正気に戻り、コホンと小さく咳払いをして仕切り直す。


「……見ててください。こうやって、ゴロゴロするんです」

「そ、そなた豪快だな」


 イルナスは、躊躇なく地面に転がる黒髪少女を、マジマジと見つめる。汚れることにまったく抵抗がない。いや、むしろ楽しんでいるようすら見える。


 これが……平民か、と元童皇子はよくわからない感心をした。


 だが、もたもたする訳にはいかない。イルナスも真似をして、地面にゴロゴロと転がった。


「……」


 その姿を、ヤンがジーッと観察するが、やがて、ブンブンと首を横に振って答える。


「まだ、駄目ですね。イルナス様の高貴さが全然隠れてないですよ。髪だって、ほら。こんなにサラサラだし……なんて柔らかい髪の毛でしょう」

「そ、そなた。なで過ぎではないか?」


 イルナスは照れながらもがき、その細い指から逃れる。年齢で言えば、同じくらいの歳の女の子になでられているので、なんだかおかしな気分になる。


 そんな童皇子の複雑な男心をよそに、ヤンは指で残った感触を確かめ、シミジミとつぶやく。


「ふーむ。生まれた時から最高の手入れを受けてきたなめらかな髪。太陽にも当たってないから、平民特有の癖っ毛、獣感がまったくない。末恐ろしく、お素晴らしい」

「そ、そなたもではないか」


 ヤンの髪もすごく柔らかくなめらかだ。女の子を口説いているようで、変な気持ちになるが、なんとか反論したくて、反射的に言い放つ。


「まあ、私の生まれた北方カリナ地区の修道院では、雪が多かったですからね。あまり太陽に当たるということはありませんでしたし、その後も、室内で本を読むことが多かったので、陽でチリチリになることはなかったかな」

「だっ、だったらだけ言われるのはおかしいではないか!?」

「ふふ……お可愛い」

「会話になっていない!?」


 元童皇子は、思わず、ガビーンとする。


 しかし、黒髪少女は、そんな動揺にも構わずに力説する。「私の髪は元々黒いから目立たないし、頭もキチンと汚しています」と。


「なるほど……では、こんなものでどうだ?」

「全然駄目ですね」

「くっ……そなた、厳しいな」


 イルナスは悔しそうにつぶやく。


「ここは、帝都平民地区の中でも最下層の者が集まる場所です。自力で生活できず、洗濯もしない。ほとんどの人が住む家もない。そんな極貧平民たちの彼らとイルナス様を比べてしまうと、どれだけ汚しても汚し足りないですね」

「……」


 ヤンの言葉に、イルナスは少しだけ肩を落とす。皇帝のレイバースは賢帝だ。誰もがその治世を褒め称え、帝国国民に一切の不満がないかの如く、大臣がもてはやしていた。


「まさか、こんな光景が広がっているなんて、思わなかったな」

「万人を豊かにする政治などあり得ません。天秤のようなものです。少数の者の富が多ければ多いほど、多数の貧しき者が存在する」

「……」

「っと、話がそれましたね。今は、イルナス様のお姿をどうするか、です」


 ヤンが再び仕切り直して、童皇子をジーッと見つめる。

 

「イルナス様がかわ……綺麗過ぎるんですよね。普通に汚したって、その整った輪郭や、真っ白に輝く歯などは隠せませんからね。むしろ、やりすぎなくらいじゃないと」

「……なるほど。平民とは、このような厳しい生活をしているのだな」


 イルナスは、自分がどれだけ豊かな生活をしていたのかを反省する。やはり、現地はひと味違うと思い知らされた。


「そうですね……類稀なき高貴さ、史上稀に見る清廉さ、とめどない可愛さを打ち消すにはためには……イルナス様、どこかに犬の糞落ちてませんかね?」


 !?


 元童皇子は、我が耳を疑った。平民出身のスーであるヤンの言葉が、あまりに衝撃的過ぎて、全く意味がわからなかったからだ。


 そんな彼の衝撃など知る由もなく、黒髪の少女は、もしかしたら最悪『口に入れろ』と指示する可能性すらある不敬物を捜索すべく地面を見渡す。


「あっ、ありましたありました!」

「……っ」


 そんな彼女をよそに、イルナスはその不敬物でなにをされるのか怯える。そして、その中でも最悪の選択肢でないことだけが気に掛かった。


「まさか……そなた、口に入れろと言うんじゃなかろうな?」

「……なるほど」

「て、提案じゃないぞ!?」


 お、恐ろしい。平民というのは、かくも恐ろしい生態をしているのかと恐怖を覚える元童皇子。


 しかし、ヤンの黒い瞳は真剣そのものである。当然だ。すでに、誘拐犯となっている彼女は捕まれば死罪。何より、自分の身を守るために、必死で考えてくれているだろうことは伝わってくる。


 ……しかし、しかし、さすがに口に入れるのはと、イルナスは心の葛藤を繰り返す。


「私が提案しようと思っていたのは、髪の毛に擦りつけるぐらいのライトなやつです。さすがに、口の中に入れるというのは不敬かなと」

「う、うーむ……髪でも十分に不敬だと思うが」


 恐るべし平民感覚。いずれにせよ、時は待ってくれない。これから、本格的に貧民街をうろつこうと言うのに、貴族とバレる事態は絶対に避けなくてはいけない。


 そもそも、糞なんて所詮は排泄物だ。考えを切り替えれば、別にそう騒ぎ立てることでもない。『汚くない、汚くない』、イルナスはそう心の中で連呼する。


「まあ、口に入れるのは、皇族にはハードルが高いでしょう」

「そ、そなたは口に入れたことがあるのか?」

「そんな訳ないじゃないですか」

「……っ」


 ニパーっと、満面な笑みで、そんな訳ない体験を勧めてくる黒髪少女。


「まあ、その綺麗な髪に塗りたくるくらいで。あっ……ここにも。イルナス様、大漁です。さあ、握ってください。ギュッと」

「ヤン……そなた、手本を見せてくれ」

「わ、私は髪黒いですから。イルナス様はキラキラと輝いてらっしゃるから」

「くっ……し、しかし……いや……そうか」


 覚悟を決めるしかない。追っ手からできるだけ逃げるために、最初の一歩でつまずく訳にはいかない。


 元童皇子は恐る恐る近づき、わりかし大きなサイズのやつに両手を伸ばす。手のひらを、不敬物のすぐ側まで移動し、後は握りつぶすだけ。


 だが、それができない。どうしても、触れて握りつぶすための力を込めることができない。





























「……お前ら、さっきから糞の前でなにやってんだ? 臭えだろ」


 通りがかりのボロボロの衣服の青年につぶやかれ、2人は正気に戻った。

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