不測の事態


           *


 イリス連合国がヘーゼンを魔杖を封じ、捕捉していた時点。この黒髪の魔法使いは、瞬時に別の行動へと移っていた。


 ヘーゼンにとって、戦場における『不測の事態』と言うのは限りなく起こりにくいものだ。ある行動を行うとしても、結果として起こりうる事象を想定する。


 100年以上を及ぶ膨大な戦闘の経験則。最強を冠する敵との死闘で得た思考的反射力。加え、若き肉体を得ることで、その反応は全盛期の速度を凌駕していた。


 夜叉累々やしゃるいるいが発動しなかったことも、想定し得る可能性の中の一つだった。コンマ秒に満たないその時間で、ヘーゼンは次の魔杖を発動させる。


 幽幻燈日ゆうげんとうじつ


 この魔杖は、自身の幻影を映し出すことができ、その間、自身の姿を消すこともできる。加えて、その精緻な幻影から氷雹障壁ひょうびょうしょうへきの能力すら騙すことができる。


 当然、写し出す自身の幻影は長くはもたない。しかし、いずれ魔法の弾幕で、周囲から視認できなくなることはわかっていた。


 その時点で氷雹障壁ひょうびょうしょうへきを解除し、ヘーゼンは魔杖を持ち替え別の場所へと移動した。


 その間、ゴメス中佐も適応する。この柔軟な副官は、ヘーゼンが使う魔杖は頭に入れているので戸惑うことはない。


 イリス連合国の魔法使いたちに対し、あたかもヘーゼンがその場所にいるかのように攻撃に移った。


 この時点でイリス連合国の魔法使いたちは、完全に騙され、標的なき地点に、大量の魔法弾を投じることになった。


 一方で、単騎となった黒髪の青年は落ち着き払った様子で、長物の魔杖を地面につけながら走る。その先端はジジジジジジジジジ……と奇妙な音を打ち鳴らす。


 到達目標は、魔法の溜めができる適度な距離を取れる場所。ヘーゼンは、瞬時に見える光景や膨大に刻み込まれた戦況、周囲の雰囲気、地形、気候、あらゆる条件を考慮に入れながら馬を走らせる。


「ひっ……ヘーゼン=ハイム!?」

「……」


 すでに、イリス連合国の兵はこちらの顔を認識している。ある程度の武名で恐怖は刻まれていると言っていい。だが、足りない。現れただけで、逃げ出すほどの……戦場における大将軍ほどの武名が必要だ。


 戸惑いながらも襲いかかってくる兵たちに対し、氷雹障壁ひょうびょうしょうへきがことごとく防ぐ。ヘーゼンの行動は止まらない。


 目指すのは、第7軍軍長……そして、


「ひっ」


 歯牙にすらかからずに過ぎ去った兵たちの、固まった表情が見える。いつも見ているような光景。思考が停止し、ただ唖然としているような顔だ。


 だが、足りない。


 その黒髪の魔法使いの背中を見るだけで。


 ジジジジジジジ……


 そのまとわりつくような奇妙な異音を聞くだけで。


 ジジジジジジジジジジ……


 死を覚悟するほどの恐怖が必要だ。


 ジジジジジジジジジジジジジジ……


 先端で擦れている魔杖の音が長く大きく響き渡る。


 やがて。


 遠くに第7軍軍長の姿が見える。彼も驚愕な表情を浮かべていたが、すぐさま平静を取り戻し、叫ぶ。


「だ……第7軍軍長ザッステ=ボドマン! ぜ、全軍突撃ーーーーー!」


 慌てる軍長の言葉に、兵たちは一斉に向かってくる。彼らはみな、どこか青ざめた表情をしている。敵軍の大将が突然単騎で現れて戸惑っているのか……


 だが。


「……


 ヘーゼンはそうつぶやく。


 その場に現れただけで。


 蜘蛛の子を散らしたように。


 一斉に逃げ去って行くようでないと。


 恐怖が足りない。


 ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ……


 ザッステ軍長は、思い切って近づいてくる。逃げれないと悟ったのか、自身の身を持って兵を逃がそうと思ったのか。


 だが、もう遅い。


地空烈断じくうれつだん


 ヘーゼンがつぶやき。


 大地につけていた魔杖の先端を押し上げ、水平方向へずらす。


「……は?」


 ザッステ軍長は魔杖を披露する暇もなく。胴体が真っ二つになったことにも気づくこともなく。ただ、疑問符を口にして落馬した。


 それは、集まってきた兵たちも同じだった。その斬撃波の前に、胴体を両断された屍が累々と散らばっている。


 超広範囲の横列攻撃魔法。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息を切らしながら。


 眼前には、鮮血の道。胴体がことごとく散らばった、不可思議な光景。


 後方には、ガチガチと口を震わせながら怯える兵。体内のあらゆる液体を撒き散らした兵。その場で動くこともできずに、ただ泡を吹いている兵。死を悟り神に祈っている兵。夢であることを何度も連呼し、現実逃避を、測っている兵。


 そして。


 事態を把握できていない、ラグドン将軍、クドカン軍長……そして、


「足りないな……全てがね」


 黒髪魔法使いは、そう笑い。


 再び大地に手に収まった魔杖を地面に深々と突き刺した。























 夜叉累々やしゃるいるい





 

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