妥結


 ダゴルは理解できなかった。妥結した? そんなバカな。あの、ヘーゼンが譲った? あの、ビガーヌルが譲った? そんなことは絶対にあり得ない。


 87.6倍?


 嘘だ。だって、ヘーゼンにはそれよりも遙かに高い額でお願いした。何度も何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も。


「嘘だ……嘘だ―――――――!?」

「本当です。ここに、契約書があります」


 ダゴルは、ひったくるように書類を奪い、穴が空くほどに読み込む。それは、確かに方筆で書かれた公式の文書だった。思わず、檻越しからクレリックの胸ぐらを掴む。


「なんで? なんで? なんでえええええ――――!?」

「……逆に私がわからないですな。なぜ、内政長官のあなたがわからないということが」

「私は! 300倍の提案をしたんだ! それでも、ダメだったんだ!」


 そんな中、ダゴルの脳内に、あるヘーゼンの言葉が浮かぶ


 ――例えば、私がクレリック次長に相場で譲ったらどうします?


 瞬間、老人は毛髪をかきむしりながら泡を吹く。


「さ、最初から私をはめる気で――あんの外道」

「違います。ヘーゼン内政官は、この87.6倍という数字を引き出したかったんですよ。この価格よりだったんです」

「ど、どういう意味だ?」


 ダゴルには、まったくわからなかった。いや、コイツは嘘をついている。自分が有能で、こちらが無能。そう言うレッテル張りをしたがっているだけだ。卑怯にも出来レースを画策しただけの、こざかしい男が、なにをエラそうに。


「……この数字がなにを意味するか、本当にわかりませんか? あなたや、ビガーヌル代行ならば、本来、わかるべき数字だ」

「ふざけるな! こんなものは出来レースだ! 出来レース! 出来レース! 出来レース!」


 何度も何度もそう喚いていると、クレリックは失望したようなため息をつく。 


「この額は、以前、ヘーゼン内政官が提出した献策を実施するのに必要な額です」

「……っ」

「内政官というのは、自身の導き出した数字に、それなりの想いを込めるものです。彼はその金で、ドクトリン領の復興に着手する気なんでしょう」

「……そんなわけない」


 頭が壊れそうだった。なんで、あのような外道が、こんな聖人君子のような評価を受けるのだ。まるで、あの悪魔が天使であるかのように――


「仮に、ダゴル内政官が提示した300倍もの額を受け入れてしまえば、ヘーゼン内政官の評価は地に落ちる。民への救済も、実は裏があったのかと勘ぐられる」

「……嘘だ」

「しかし、この考え方を示した上で、金が引き出せたのならば、周囲への理解が得られるどころか、ヘーゼン内政官は、誰よりも民のことを考えて行動する内政官という評価になる」

「嘘だ……そんなの……私に対しての当てつけだ」

「そんなことをして、なんの意味があるのです?」

「……っ」


 なんの意味がある? 言っている意味がわからない。だから、当てつけだと言っている。要するに、この男は嫌がらせしたいのだ。そうに決まっている。そうに決まっていることを聞いて、なんの意味がある。


 クレリックは、それでも、言葉を続ける。


「あなたが、ビガーヌル代行の当て馬だったことは否定しない。ある程度ふっかけないと、あの方のことだから首を縦には振らないだろう。しかし、この数字を言えばヘーゼン内政官は首を縦に振ったでしょう。なぜか、わかりますか?」

「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!」

「……彼は見分けているんですよ。誰が、帝国という大樹を支えているか。誰が、帝国という大樹を蝕んでいるのか」

「はっ! ふざけるな!」

 

 ダゴルは、嘲るように笑った。


「下級内政官ごときが、我々を見分けている!? この大帝国の根幹をなしている我々たちを!?」

「いずれ、そんなことを言えぬ時代が来るということでしょう。私は、彼が出現したことで嵐が来ることを予見しました」

「……貴様。曲がりなりにも、貴様は次長級だろう? 下級内政官ごときに降るのか? 自尊心はないのか?」

「くだらない」


 クレリックは吐き捨てる。


「あなたやビガーヌル領主代行のような、地位や年齢だけを重ねた者にすがるよりは、能力の強い者につく方がマシだ」

「はっ……くっ……」

「まあ、どちらにせよ。もう、あなたは終わりだ。ビガーヌル代行は、決してあなたを許しはしないでしょう。すでに、長官の地位を剥奪し、降格するよう働きかけてます」

「ふぐぅ……」


 泣きはらしたと思っていたのに。ダゴルの瞳から、またしても水滴が漏れる。今まで、一度として逆らったことがなかった。上官に対して、ノーと言ったことなど、一度も――


「では、そろそろ失礼します。短い間ですが、お世話になりました」


 クレリックは、なんの感慨もなさそうに、その場を後にした。



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