目線
ダゴルは己の耳を疑った。今、幻聴が聞こえた。いや、しかし、ヘーゼンの滑舌は非常によく、確かに『相場の600倍』と聞こえた。しかし、ボッタクリバーですら良心的に思える、あり得ない価格設定。よって、あり得ない。
疲れているのだろうか。
最近、とにかく懸案事項が多すぎたので、心身ともに負担がかかっていたのかも知れない。『この案件が終わったら、久々に休暇を取ろう』とダゴルは心に決めた。
しかし……『相場の600パーセント』の間違いだろうか? いや、それでも相場の6倍。さすがに高すぎる。よって、あり得ない。
ダゴルは、やはり、幻聴と見なした。
「へーゼン君。今、なんと言ったのかな? すまないね、見てわかる通り、年寄りなんだ。よく、聞こえなかった」
「はい。『相場の600倍でお譲りします』と言いました」
!?
「……っ、クク……ハハハ……ハハハハッ!」
突然、ダゴルは笑い出した。わかった。この男、なかなかに面白い男だ。最近の若手はこう言うユーモアを兼ね備えているのか。
老人は親指をビシッと立て、歯を見せる。
「ナイスジョーク!」
「違いますよ」
「……っ」
幻聴じゃない!?
ジョークでもない!?
「ど、どどどどういうことかな?」
ダゴルの額から汗が噴き出す。
「言葉の意味、そのままです」
「ほ、本気で言ってるのか?」
「はい」
「む、むむむむ無理に決まってるだろう!?」
「そうでしょうか?」
「そうだ!」
ヘーゼンは困ったように少し首を傾げ、口を開く。
「なら、この話はなかったと言うことで。では、失礼します」
!?
「ま、まままま待てっ! 待ってくれ!」
ダゴルは即座に退出しようとするヘーゼンの袖を全力で引っ張る。この男が、ただのお人好しでないことはよくわかった。
それどころか、こちらの弱みにつけ込もうとする非常に狡猾な男であることも。
しかし、なんとかしてこの男から物資を巻き上げなければ、非常にまずくなってしまう。
「な、なあヘーゼン君。わかった。君の想いは十分に伝わった。しかし、いくらなんでもボッタクリ過ぎだ」
「そんなことありませんよ。キチンと試算しましたから」
「し、試算?」
ヘーゼンは持っていた資料の1枚目を見せる。それは、非常に簡易的な計算式だった。ただ、その洋皮紙を持つダゴルの手は、震えが止まらない。
「……しょ、正気か?」
「簡単でしょう? ドクトリン領の年間予算の3割から、補給部隊がライエルドへ運ぶ物資の相場を、割ってみたんです。そしたら、600.4倍」
「き、貴様……この領の年間予算の3割をかすめ穫ろうというのか!?」
頭がクラクラし、ダゴルは思わずよろける。そんな彼の手をグッと掴んで、ヘーゼンは彼の耳にソッと囁く。
「……あっ、相場の4割は引いておきました。サービスです。内緒ですよ?」
「そ、それでも480倍じゃ、話にならない!」
「違いますよ。相場の4割なので、ちょうど、600倍です。まあ、端数切りですね。お得でしょ?」
「……っ」
ぼったくられ過ぎて、体感、全然割り引かれてない。
「む、むむむむ無理だ! むりぃ! 絶対に無理!」
「そんなことはないと思いますよ? 選択肢は無数にある。例えば、このドクトリン領全幹部の給料を5年間カットすれば可能だとも思いますし」
!?
「ふ、ふざけるなよ?」
「そうですか? なら、中央で、私服を肥やしながら賄賂に励んでいる領主のノリョーモ様の全財産を支払えば可能だ……キチンと報・連・相をした上で」
「……っ」
こいつ。自分たちが上に報告しないだろうことをわかった上で話している。
「な、なあ。話し合おう。なにか勘違いがあると思う。帝国から支払われる給与のことなど、私たちが、どうこうできる金じゃないのだ。そ、それに、私たちもノリョーモ領主に報告したいのは山々だが、今回は緊急案件だ。とてもじゃないが、間に合わないよ」
ダゴルは必死で説明する。
「そうですか……なら、ビガーヌル領主代行とダゴル長官が一時的に全ての借金を立て替えては?」
「は、はははははぁ!?」
「その後に、ノリョーモ領主に説明して、後でお金を返して貰えばいい。緊急案件ですから、わかってくださいますよ」
「そ、そそそそそんな金! 説明できる訳、ないだろぅ!」
「なら……そうですねぇ。後に方々の親類、知り合いにでも土下座行脚して借金でもすればいい」
「……っ」
「ドクトリン領のためを思えば、喜んで協力してくれるのでしょう? 腐った口先だけのおべっかじゃなく、上官自ら身をもって示して頂ければ、私の心も動くかもしれませんね」
「ふざけるなぁ!」
頭がクラクラして倒れそうになった。ダゴルは思いきり壁に拳を叩きつける。
「……そんなこと、本気でできるとでも、思ってるのか?」
ダゴルはヘーゼンの正気を疑い、思わず後ずさる。さっきからできもしないような提案を次々と。
しかし、ヘーゼンは笑顔を浮かべながら、話し続ける。
「私はあらためて、このドクトリン領で勉強させていただいたことがありましてね」
「な、なんだ!?」
「10日間以上、食事を抜く機会がありまして。水もほとんど飲まなかった……ここに生きている民たちのように」
「……飢えた者に寄り添って、とでも言いたいのか?」
ダゴルは皮肉めいた口調で尋ねるが、ヘーゼンは首を横に振る。
「寄り添う? 全然違います」
「……」
「極限まで飢えると、不思議なもので、バケツに入った泥水だって、地べたに這いつくばってすすりたくなる……たとえ、ドブのような味でも美味しく感じる」
「はっ……くっ……」
「ダゴル長官。私の言いたいことがわかりますか?」
そう言って。ヘーゼンは冷徹な視線が疾らせながら、ゆっくりと近づいてくる。そのあまりの威圧に、ダゴルは思わず後ずさる。
「……普段は嗚咽して吐いてしまうような汚水ですら、全財産を投げ売ってでも、欲したくなるんです」
「わ、私にドブ水をすすれと言うのか?」
「はい」
「……っ、ふざけるなぁ! さっきからなにをふざけたことを言っている!?」
「わかりませんか?」
ヘーゼンはダゴルを足払いで転がす。
「いだっ……な、なにを――っ!!?」
そう言いかけた途端、全身が総毛立つ。目にしたのは、信じられないほど冷酷な視線。
そして、ヘーゼンはダゴルの顔に足をのせたまま、嗤う。
「私はね……足元を見てるんですよ」
「……っ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます