危機
ビガーヌルは、あんぐりと口を開けた。
「嘘だ……見てないぞ」
そうつぶやきながらも、あの男が作成した資料を網羅しきれていないことは、自分自身で一番理解していた。
確かに、最初の3日ほどは資料をしっかりと確認していた。食い入るようにアラを探して、少しでもミスがあれば即否決できるように。
しかし、読めば読むほどに、あの男の作成した資料は完璧だった。緻密な論理と現状把握の裏打ちがあり、独創性に溢れ、莫大な効果を生み出す類のもので、当然、誤字脱字などもない。字体なども非常に綺麗で申し分の欠片もない。
そんな完璧な資料が大量に決裁されてくるのだ。以降の決裁を否決すると決めているビガーヌル側としては、堪らなかった。
ほぼ、イチャモン同然の理由を探す作業に、膨大な時間を要した。そして、それらを確認するだけで、どんどん時間が奪われる。その間、ヘーゼンからの献策が追加でどんどん提出される。そして、どんどん資料が溜まっていき――
それまで、ビガーヌルは自身の能力に疑念の欠片も持っていなかった。しかし、あの男と自分の間にある膨大なスペックの差を如実に見せられ。
やがて、ビガーヌルはそれを直視できなった。今まで自身のやってきたことが、酷くチンケに見えるほどに、ヘーゼンのそれは、素晴らしい。
そして、とうとう、ロクに目を通さなくなった。
『どうせ否決する資料だ』と自分に言い聞かせて、理由など適当に書いた。その後は、ダゴルに不機嫌アピールをして、その作業をやらせた。
そして……そんなダゴルが通したと言うのだから、信憑性はかなり高いと言える。
それら一連の出来事が、走馬灯のように駆け巡る。瞬間、ビガーヌルから滝のような汗が噴き出した。まずい。まずい、まずい、まずい。
「本当だ……いや、嘘だ……私は見てない」
焦って、言葉が上手く出てこない。普段、言わないほどのチグハグな応対になり、周囲が怪訝そうな表情を浮かべる。
そんな中、ダゴルは不満げな表情を浮かべて首を横に振る。
「いえ。否決された資料が戻って来ているのを、私は確かに見ました。探せば、どこかにあるはずですよ」
「き、貴様っ……」
「正直、私のせいにされたら、堪らないですね。私はしっかりと資料を読み、通したんだ」
「……っ」
ダゴルの強気な口調から悟った。この男、もう侮り始めている。致命的な非がこちらにあることがわかり、降格は間違いないと思って。いや、それどころか後釜すら狙っているのかもしれない。
――そんな事は、絶対にさせない。
ビガーヌルは気を落ち着かせ、真面目な表情で高らかと叫ぶ。
「今はそんな責任の擦り付け合いをしている時ではない! 補給が滞っている事実は変わらないのだから。ゲスノヒト次官……確かに、貴様は罪を犯した。しかし、今はこの困難をどう乗り越えるか、共に考えようではないか!?」
「うっ……ううううっ。も、申し訳ありません」
ゲスノヒトは涙ながらに、頷く。本当は八つ裂きにしても足りないが、それはこの際後回しだ。こいつを使い潰して、なんとしてでも解決してみせる。
「すぐに代替の補給部隊を派遣しろ。最短で何日かかる?」
「しょ、食料の準備だけで20日は」
「な、なんでそんなにかかるのだ!?」
「それが……ギダリスカからの輸送になるので」
「な、なぜそんなに遠方から調達するのだ!?」
ギダリスカ領はドクトリン領から数日ほど離れた地域だ。確かに価格面からそこで調達することが多いが、今回は緊急事態だ。なるべく、近場で調達する必要がある。
そんな事すら、この無能はわからないのか。
「そんなもの、現地で調達しろ! ここら辺の商人を片っ端から当たってピストン輸送をしろ」
「ひっ……近隣の商人にすべて当たっておりますが、すでに物資が枯渇してまして」
「こ、枯渇? なぜだ!?」
「それが、ヘーゼン下級内政官が民への施しのため、すべて買い占めてしまってまして」
「あ、あの男……」
どこまで、こちらの足を引っ張れば気が済むのか。
「ダゴル。すぐに、あの男から食料を接収しろ」
「せ、接収ですか?」
「緊急事態だ。ドクトリン領のためを思えば……いや、帝国のためを思えば、将官であれば当然の義務だ。それに、貴様は上官だろう? その辺の事をキチンと理解させろ」
「……いや、しかしなぁ」
渋るダゴルに向かって、ビガーヌルは肩に手を回してボソッとつぶやく。
「おい……あまり、私を舐めるな。よく、考えることだ。この危機が乗り越えられた時、私は協力を拒んだ者には容赦はないぞ……わかるよな?」
「……っ、は、はい。わかりました」
ダゴルは神妙な面持ちで頷いた。
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