教育
要塞に戻った後、クミン族の捕虜を地下牢に収監した。最終的な扱いは軍部で決定するが、それまでは捕縛した第8小隊が管理責任をもつ。
ヘーゼンとしては、彼を活かしてクミン族との停戦協定、もしくは同盟を結ぶよう画策したいところだったが、一介の少尉にそんな権限はない。ならば、その間にできる限りのことはしておきたい。
「ヤン。君は、彼と意思疎通をとって情報を聞き出してくれ。食事の配膳など、身の回りの世話はすべて君に任せる」
「わかりましたけど、その前に私はどこに住めばいいんですか?」
「えっ? 僕の部屋だが」
当然のようにヘーゼンは答えるが、それに反し、ヤンは驚愕の表情を浮かべている。
「ぜ、全身全霊をもって嫌なんですけど」
「なんで?」
「理由が全然わかってないところです!」
「んー。よくわからんが、乙女心的なことかな?」
「違います!」
「まあ、君の意思はどうでもいい。これは、提案じゃなくて、決定事項だから」
ヤンは、またしても驚愕な表情を浮かべているが、当然だ。破格の安さとは言え、給料の大半を失う手痛い出費だ。贅沢をさせてやる余裕もないし、いつでも直接教育できるから楽だ。
「カク・ズはこれからヤンの護衛についてくれ。特に僕と離れることがあれば、ヤンの方を優先してくれていい」
「それは構わないけど。でも、ヘーゼンも周囲に敵が多いんじゃない?」
「敵? この要塞に潜むスパイのことか? 僕はまだ特定できてないが、君が僕より先に気づいたと言うことか?」
にわかには信じがたい。カク・ズは、武芸には秀でているが、文官としての素質は皆無だ。そんな彼に、巧妙に侵入しているスパイの存在がわかるとは思えない。
ヘーゼンが懐疑的な視線を向けていると、巨漢の男は大きくため息をついた。
「そうじゃなくて。ほら、下士官はともかく上官とか同僚とか。特にモスピッツァ中尉なんて、完全にヘーゼンを敵対視してるよ」
「そうなのか?」
「そりゃそうでしょうよ。なんで、わからないかな」
そうは言うが、わからないものは、わからない。軍人とは個人の感情に捉われずに任務を遂行する義務がある。下士官ならばまだしも、少尉よりも上の地位にいる上官に、それがわからないとは思えない。
モスピッツァ中尉と言えど、例外ではない。もし、敵との戦闘行為に及べば、当然互いに協力体制を取るのは軍人のあるべき姿だ。帝国は長い歴史のある、成熟した軍人国家だ。将官たるもの、その程度の規律など心得ていて当然である。
「……」
しかし、確かにモスピッツァ中尉は感情的な起伏が激しい。日常の行動も、かなり私情に捉われているので、そのあたりをカク・ズが心配するのも無理はないと思い直す。
「まあ、言ってることはわかった。だが、モスピッツァ中尉のような小者に割く思考は、1秒足りとも必要ない。彼との問題は、起きた瞬間に解決してみせるよ」
「……そう言うところだと思うけど、まあ、余計な心配だったね」
カク・ズは大きくため息をついた。
部屋に戻ると、そこにはバズ曹長がいた。彼は本棚に次から次へと書籍を入れている。これは、ヘーゼンが読むためのものではなく、ヤン用の教材である。実家(義母の家)には、彼がこの帝国で学んだ一般教養、初等魔法の教材が山ほどあるが、輸送に40日ほどかかる。
それまでヤンを遊ばせる訳にもいかないので、実家にある分野以外の書物を叩き込むことにした。分野は、言語の体系学、生物学、医療、あとは商学である。
特にヤンに学ばせたいのは、商学だ。ヘーゼンが目的を達成するためには、金というのは、いくらあっても足りない。したがって、この少女には、資金を調達して貰わなければいけない。
軍人であるヘーゼンにはできないし、向いてもない。その点、ヤンはもともと地力で交易まで行っていた。始めからそのスキルには長けているのだ。
「ありがとう。これは、お礼だ」
ヘーゼンはバズ曹長に小銅貨を一枚手渡す。これは、曹長である給料の三分の一ほどの額に当たる。
「い、いえ。そんなお礼だなんて」
「これは、完全なる僕の私用だからな。職権濫用はしたくないが、他に頼れる知り合いもいない。しかし、上官の頼みだと、断りにくいだろうから、せめて駄賃は支払わせてくれ」
「……わかりました。ありがたく頂きます。他になにかありましたら、なんでもおっしゃってください」
「頼む」
バズ曹長はお辞儀をして部屋を出て行く。ヤンはその様子を観察しながら、ベッドに腰掛ける。
「……部下には慕われてるんですね」
「慕われている? 上官と部下の関係。ただ、それだけだ」
「でも、なんでもおっしゃってくださいって」
「おべっかだろう。会話を円滑にするためのテクニックだ」
バズ曹長は、なかなか使える男だ。自分が隊から離れた後、彼を准尉に任命する予定だが、今の7割ほどの戦力は維持できるだろう。
「……ヘーゼンさんも少しは見習ってください」
「熟知して、実践しているつもりだが」
「全然です。いや、むしろ逆です」
「はは、面白いな。なかなかユーモアもある子だ」
「ボケてないんですげど!?」
ヤンがガビーンとした表情を向けるが、気にしない。なんとなくわかってきたが、この子の心は強い。まず、並大抵のメンタリティではないので少々のことではへこたれない。
それは、感受性がないということではない。むしろ、強く感情は揺れるが、柔軟である。まるで、台風が通り過ぎても折れない柳の枝のように。ヘーゼンはかつて、数多くの弟子を育ててきたが、その中でもトップクラスに図太い。
「……」
ヘーゼンはかつて、弟子のロイド、ライオール……そして、アシュ=ダールを見つけた時のような高揚感に襲われていた。
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