夫婦喧嘩
光野朝風
夫婦喧嘩
~さようなら。追ってこないでください。顔も見たくありません~
「ったく、あのヒステリー女め。まだ怒ってたのか」
久しぶりの夫婦喧嘩。次の日起きた夫はテーブルの上の手紙を見つけた。
「あ~あ、なんにもないな。牛乳でも飲むか」
いつも通り、牛乳を口にする。追ってもしょうがないと思っているのか、特にあわてた様子もない。内心イライラしていて許す気にもなれなかった。
しばらくすると、腹が鳴り出す。
「む、なんだ。急に腹の調子が悪くなってきたぞ。うぅ・・・トイレ・・・」
くの字に折れ曲がり、腹を押さえてトイレまで行くと、ドアに張り紙が見える。
「な、なんだ?牛乳に下剤を入れておきました?なんだって?」
トイレを開けようとする夫。しかし開かない。どういうことだ。何度強く開けようとしても開かない。鍵がかけられているのだ。
「おい!中にいるのか!?開けろ!もれる!!」
腹がぴゅぅぴゅぅ鳴っている。叫びながらくねくねと体をうねらせる夫。中からしめたとばかりに意地の悪い声が聞こえてくる。
「あら、残念だったわね。私もお腹の調子が悪いの。外があるでしょ。してきたら?」
もちろん、お腹の調子が悪いのは嘘だ。妻はトイレの中でゆうゆうと雑誌を読んでいた。
「ちくしょう・・・こ、このやろ・・・」
そろそろ抵抗する意思すらも失わせるほどの緊迫感だった。肛門を全身全霊の気合を込めて閉めている夫には冷や汗が流れ、たったひとつだけを残して選択肢をすべて奪い去ってゆく。
くねくねと体をくねらせながらついに夫は外へと出る。確かこんな趣味のやつもいるんだよな。チクショウ!俺はそんな趣味なんかないぞ!と、心の中でつじつまのあわない怒りを込みあがらせていた。もはや思考は混乱している。
庭にある木の下で、ズボンを下ろし、腰を下ろす。そしてようやくすべての魂への重圧を解き放ったかのように肛門を緩める。
「ワウ!ワウ!ワウ!」
飼い犬のシロが吠え出した。喉の奥を鳴らして威嚇している。
が、いったんでかかったものは止まらない。圧政から解放された自由の民のように、下半身は自由を謳歌している。
「しっ!しっしっしっ!」
追い払おうとしてもシロは鳴き止まない。あまりにもうるさく吠えるので、隣の家の二階から小さな娘が不審がって窓から覗いてきた。
双方、筆舌につくしがたい驚きに包まれ、娘は窓を一瞬にして閉め、夫は顔を背けた。だが、夫が顔を背けたからといって、何もならないことはわかっていた。
すべて出し終わると、ある問題がでてきた。紙がない。このままズボンを上げて家の中に戻ろうか。それにしてもシロがうるさい。とにかく家に戻ろう、と思ってドアノブに手をかけるとドアが開かない。中から鍵がかけられた。絶体絶命だ。どうしてくれる。俺はこのままここにいるのか。妻の仕打ちは周到だった。もうダメだ。謝ろう。素直に謝った方がずっといい。夫は覚悟を決めた。もうこうなると涙さえもとめどなくちょちょぎれる。鼻水も出る。恥も外聞もなく謝った。
「すまない!俺が悪かった!もうお前のマンゴープリンは食べない!ケースで買ってくるから許してくれ!」
夫はようやく免罪され、ドアが開かれた。まるで開けられたドアから光が溢れ、そこに立つのはすべての救いを求めるものに手を差し伸べる優しいマリアのようだった。苦しみから解放された夫は、妻の大事にとってあった、たったひとつのマンゴープリンを食べたまま、面倒くさいからといって「明日買って来る」と言い張るなんて決してしまいと心に誓っていた。
自分にとってどうでもいい問題が、これほどまでに妻を悩ませているとは夢にも思わなかったのだった。
夫婦喧嘩 光野朝風 @asakazehikarino
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