朧の森
ラッコ
第1話
生ぬるい風が頬を撫でる。まだ青いもみじの葉が揺れるのを見ながら、由紀は床の間に向かって声をかける。
「摩夕、お饅頭食べる?」
小さな座敷童子が頷くのを見て、由紀は饅頭を放った。座敷童子が饅頭をはっしと掴むのを見て、由紀は微笑む。夕暮れ時、誰にも邪魔されずに過ごすこの時間が由紀は好きだった。由紀はチラッと隣の部屋へと目を走らせる。そこにはまだ若い家政婦が3人、こちらを恐る恐る伺っていた。
「また由紀様が床の間に話しかけておられる」
「嫌だわ何もいないと思いたい」
「鬼ではなければいいけれど」
不安げな声が聞こえてくる。由紀はため息をついた。
「大丈夫?」
饅頭を瞬殺で平らげた摩夕が指を舐めながら聞く。
「え、うん。大丈夫、もう慣れっこだよ
月夜の義も近いし、仕方ない」
由紀はゆっくり立ち上がり、隣の部屋でひそひそと話す家政婦の元へ歩いていった。家政婦達は、由紀が近づいてくるのに気づくと、一斉に頭を下げた。
「由紀様。どうか致しましたか?」
その声は頼りなく震えていた。
「…花札を持ってきてくださいますか?」
「かしこまりました。」
3人が大慌てで部屋を出ていくのを見送ると、摩夕に笑いかける。
「花札?」
「やらないけど、人払いがしたくて。」
由紀は箪笥を開け、中からは花札を出して見せる。
摩夕はにやっと笑い、やるねぇと由紀に言った。
家政婦達は見つからない花札に大慌てだろう。
「つまんない。由紀、外行こうよ」
「今はダメ。村長が村へ出ていったらね。」
摩夕は頬をふくらませた。
「じゃあお話してよ。大猿の話。」
「いいけど…また?」
「いいのー!」
摩夕が怒り出して残りの饅頭を平らげてしまうのも時間の問題だろう。由紀は呆れながらも語り出した。
「
昔、この村のあたりには人を食う大猿がいました。
大猿は突然平穏な村に現れ、腹が減っては森から降りて村人を捕まえては食べていました。
村の衆と村長は何度も大猿退治を試みたが、そのかいも虚しく、すべて失敗し被害は多くなる一方でした。
被害が折り重なる中、村長はある苦渋の決断をしました。
村長は自分の娘を呼び、こう語りました。
「大猿がこの村を襲うようになってから半年経った。この半年だけで随分村の者がいなくなってしもうた。私はこの村を守りたい。」
娘は父の張り詰めた表情を見て察しました。自分が大猿に売られることが、自分が大猿の嫁に望まれていることが。娘は父の目を見て言いました。
「父上、私はこの村の者である前に1人の女子でございます。そしてこの村を愛しております。この村を守ることに私が必要であるというなら、私一つの命でこの村に平穏が訪れると言うのなら、私は喜んでこの身を差し出しましょう。」
村長はその言葉を聞き、泣く泣く大猿の元へ娘を連れて行きました。
大猿は村長の申し出を聞き入れ、娘を嫁にもらったらもう人間は襲わないと誓いました。
しかし、人間の肉に飢えた大猿は村長との誓いに反し、娘を食い、また村へ降りました。
大猿にまた困らされた村の民は蛇と契を交わしたという一族に助けを請いました。一族は村を我らに明け渡すならと大猿退治を買って出、大猿を殺しました。
」
「一族が村を治めるようになってから百数年。一族の1人が妖狐一族の娘と恋に落ちました。」
摩夕はここまで言うと、ハッとしたように口を抑えて首をすくめながら「ごめん…」と謝った。
私は苦笑して首を降ると、続けた。
「一族の若者に周りは反対しましたが、反対を押し切り、妖狐の娘と共に村を治めることにしました。しかし、若者はその数年後に病で倒れ、妖狐と、その娘の母娘が残されました。若者が亡くなったことをいいことに、母娘は若者の遺言通り村を治める権利こそ守られましたが、村の民や、村長たち一族から一歩置かれ、影に生きてきました。そして、母が死に、娘は一人残されて…」
「由紀…」
「平気」
由紀は心配そうに顔をのぞき込む摩夕に笑いかけると、「そこまで弱くないわ」とトンっと胸を叩いた。
◇◇◇
カラカラッ
「あっ」
「丁度村長が出ていったか…」
由紀は既にキラキラ光る目をこちらに向けてくる摩夕に苦笑しながらも、縁の下から草履を引っ張り出した。
草履をつっかけて、裏木戸から出る。
お屋敷の後ろにある林まで駆け込むと、由紀は大きく息をついた。
摩夕が申し訳なさそうにちょんちょんっと肩をつつき、「さっきの…ごめんね」と言った。
「ちょっとした出来心でぇ……」
由紀がおどけて言ってみせると、摩夕はむうっと頬を膨らまして軽くポカポカと由紀を叩いてくる。
可愛らしい座敷童子を撫でると、由紀は「行こっか」と歩き出した。
心地よい湿り気が足元から伝わってくる。
母とも歩いたこの林が由紀は好きだった。前を行く摩夕の髪がサラサラと揺れる。撫でてやると、摩夕はくしゃっと笑った。
“朧ノ森”と書かれた古びた看板が見える。摩夕を追って入口の看板を潜る。
「由紀ィやっと来たな!」
大きくて太い声が聞こえて、上を見上げると巨大な烏天狗が木の枝に止まっていた。
「木烏さん!」
黒い大きな羽を広げて隣へ降り立った木烏はカッカッカッと笑って由紀の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「相変わらずの地獄耳!」
摩夕が囃し立てると、木烏も「おうよ!」と自慢げに胸を張る。
「キタ?ユキ?キタ!」
シャラシャラと音を立てて子蛇達が由紀の元へ嬉しそうに這って来る。
「イラッシャイ!イラッシャイ!」
嬉しそうに肩へ乗ったり足にしがみついている蛇たちに木烏は「ほらほら母さんに知らせといで!」と声をかける。
「カアサン!ユキ!シラセル!」
嵐のように去っていく子蛇たちを見送ると、3人はゆったりと歩き出す。
「最近来なかったなぁ。待ってたんだぞ!」
「ごめんね。あんまし村長の目を欺けなくて。」
「まぁ仕方ないさなぁ。」
「月夜の儀も近いし……」
木烏はハッとしたように小さな目を見開くと、「そうかそうか」と頷いた。
「4回目の満月の時だな?」
由紀は頷く。
母との月夜の儀が鮮明に浮かび上がってきた。
朧の森 ラッコ @Cocoa_Candy
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