第11話◆幼なじみとビート板

 水泳の授業。運動神経のいいミウは、超上級者グループに入れられ25メートルを何度も往復するという傍から見れば退屈そうな練習を、目をぎらつかせながら楽しそうにこなしていた。話している内容は聞こえなかったが、上級者同士スピードを競って勝負しているらしい。

 僕はと言うと、3メートルの距離を、ビート板を使って泳がざるをえない超低級者グループに入り、ミウの姿を横目で追っていた。いや正直に言えば、泳いでいる最中はよそ見する暇もない。プールの中に設置された台の上に乗り、自分が飛び込む順番を待っているあいだ、知らず知らずにミウを見てしまっていたのだ。


「コラ、アキラ! よそ見してないで、次お前だ」

 鬼教官が水面から角の生えた顔を出し、威嚇するように僕を促した。

 ヤバい教官に目をつけられてしまったと僕は一瞬ぎくりとする。

 それを察知してか、教官は眉毛をぴくりと跳ねさせ、呆れたようにため息を付いた。

「このグループはちょっとたるんでるな。来週までに全員15メートル泳げるようにならないと、休み中も学校に来て水泳の宿題をやってもらうことになるぞ」

『えーーーー!』

 その発言に、超低級グループのメンバーは目を丸くして声を上げた。飛び込もうとした矢先に、とんでもない爆弾を投下してくる。僕の後ろに控えている生徒たちが僕を盾にして一斉に抗議をはじめた。僕はニュータイプのように直感的にこの場にいるのは危険だと、飛び込んで一番前から逃げようとするが、いつの間にか水泳パンツを掴まれて、身動きできない状態に陥っていた。

 抗議の声に辟易したのか、教官は「うるさいうるさい、わかったわかった」と顔をしかめ、ニッと白い歯を見ると「じゃあ、こうしよう。皆で協力して、アキラが15メートル泳げるようになったら、今の話はなしにしよう」と、何故か僕を槍玉に挙げてきた。

「それは横暴です!」

 僕は毅然と拒否した。キリストが、大勢の愚民のためにひとり罪を背負ったのとわけが違う。それに超低級グループに所属しているメンバーがどうして信頼できる使徒だと言えるのだろう。ただ水泳教室の合間に集められた、運動オンチグループである。半数以上がユダかもしれないのだ。

しかし、熱血漢あふれる体育教師に青白いイタイケな青少年の主張を聞くわけもなく、「皆で協力して水泳のイロハを研究し、アキラにそれを集約するんだ! アキラが泳げるようになれば、お前たちもその理論を展開して、自分に応用することが出来る。するとどうだ! 全員、泳ぎが得意な学生に生まれ変われるってもんだ。気分はバラ色。いや水面に浮かぶハスの花のように美しい青春が待っている!」と、今どき少年マンガでも流行らない努力・友情・勝利理論をぶちかましてきた。



 カラスが鳴くから、帰ろうか?

 そんな悠長なことも言ってられず、僕はプールの端でビート板を使って泳ぎの練習を繰り返していた。すでに疲労が全身に行き渡り、慢性的なダルさが僕の思考まで鈍くする。

 放課後も水泳の練習をする生徒のために、プールは解放されていて、鬼教官の課題をこなすために、僕はひとり泳ぎに来ていた。そう、ひとりである。所詮グループ活動など、中心人物がいなければグダグダと解体される運命なのだ。

「ハァ」

 幸せが逃げるらしいけど、僕はその日20回目のため息を付いた。

 そして、ビート板に体を預けてもう一度15メートル先の踏み台に向かって泳ぎ始めた。

「泳げるようになったじゃん」

 不意に声をかけられ、見上げると、プールの端に水着を着たミウが立っていた。

 僕は思わず上体を起こした。「あっ」体を起こしたせいで、ビート板がぴょんと水面から飛び出す。その勢いは僕の握力では抑えきれず、ビート板は無残にプールの真ん中に飛んでいってしまった。

「やばっ」

 僕の悲鳴と、ミウの叫びは同時だった。

 プールの底に足がつかない。

 沈みかけた僕に向かって、ミウが飛び込んできてすぐに体をプールサイドに引っ張っていってくれた。彼女の素早い反応と行動力にはいつも驚かされる。僕が溺れると認識するより早く、救いの手を差し出してくれるのだ。

「危なかったね。着替えてきてよかった。ハハ」

 ミウは軽く笑って、水着の肩紐をぱちんと引っ張った。

「ねぇ、私が手を引いてあげるから、もう少し泳がない? 見てたらビート板使えば結構泳げるようになってるじゃん。手伝うよ、練習」

「手を引いてくれるの?」

「うん」

 ミウは頷くと、両手を僕に差し出した。

 僕は目を瞬き、一瞬思考が止まった。しかし自然とプールサイドから手が離れ、ミウの手に指を重ね、プールの中央に向かって進み出ていた。

 落ち着き――。

 リラックス――。

 わずかに感じる浮力に合わせ、足をゆっくり掻いて頭を水面から出す。

「そうそう、上手じゃん」

 僕はミウに引かれるままに、体を少しずつ斜めに倒し、そして真横に寝かせてバタ足で水面を蹴りつけた。

「そのまま、真っ直ぐね」

 ミウも後ろ向きに泳いで僕を先導する。

 彼女が手を引くことで、僕の心は落ち着き、頭に描く行動を体に指示することができた。水に入ることで、思考回路が断線と混線を繰り返していたのが、人の手を借りることで、整理され正常系が保たれる。

 ミウだから、落ち着けたのか。

 ひとりじゃないから落ち着けたのか。

 僕が25メートル泳ぎ終えると、ミウは安堵するように息をついた。

「なんだ、やれば出来るじゃん」

「みたいだね」

 照れ笑いを浮かべ、僕はミウから視線を外した。

 感謝の気持と、僕の気持ちに気づかれたくなかったから。

 そんな僕にミウは穏やかにこう言った。

「じゃあ、今日は日が沈むまで特訓あるのみだね」

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