0-2. 死体買付人、資格、切り裂き屋との契約


 青いベルベットのコートを着た青年が、広場に通りがかった。羽根と造花で飾られたつば広帽は明らかに女ものだが、長く艶やかな黒髪によく馴染んでいる。帽子で陰った空色の瞳が、袋叩きにされているエドの姿を静かにとらえた。


「酷い光景だね、心が痛むよ」


 平然とした顔でそう言って、青年は野次馬の肩を叩いた。


「これ、どういう状況なんです?」

「エドワードってガキが、幼馴染の屍体を墓から盗んだんだと、ほら、そこの」


 野次馬の男は嫌悪感を露にして、広場の隅に置かれた白い包み――ノラの屍体を親指で指した。若者は優し気な微笑をたたえ、帽子を深く被りなおした。


「彼はきっと、中身を見ようとしたんですね」

「ああ?」

「彼女を苦しめたものの正体は何か、どうすれば彼女は助かったのか、自分の目で確かめようとしたんですよ。お医者様は、死因の究明なんてしてくれませんから」


 18世紀当時、高貴なる内科医たちは病理解剖を忌避していた。血を流す行為を嫌う教会の教えに従い、屍体にメスを振るうことを禁忌としたのだ。彼らは生者に対する外科処置さえも汚れ仕事と蔑み、それらを刃物の扱いにけた床屋に押しつけていた。専門の外科医は少数で、なおかつ冷遇されている。


「彼はまともですよ。少なくとも、屍体に触れさえしないこの国の医師たちよりは」

「あんた一体何を言って……」


 野次馬が言い終えるよりも早く、若者は足を踏み出していた。コートの裾を翻し、エドを取り囲む輪の中心にふわりと降り立つ。突然の乱入者に、親方は怒声を浴びせた。


「何だ手前てめえ? 変な恰好しやがって」

「初めまして。ボクはオーガスタス・メルヴィル。気軽にメルって呼んでくださいね? 所属は聖ジョージ病院、ジョン・ハンター先生の助手をしております」

「……慈善病院の医者? いや、待て、ハンター?」


 親方は、記憶を探るように顔を上げ、かっと目を見開いた。


「ジョン・ハンター! レスター・スクエアの切り裂き魔か!」


 切り裂き屋ナイフマンジョン。それはロンドンで最も有名な医師の呼称だ。卑しい田舎の生まれ、それも賤業である外科医の身分でありながら、国王ジョージ3世の特命を受け宮廷に伺候しこうする資格を得た男。貴族から高額の治療費をふんだくり、貧乏人を無料で診てくれる人気の医者だ。ただ、ハンター医師は世間で尊敬を集めるのと同じくらい恐れられ、蔑まれてもいた。彼は幾千もの屍体をさばいた経験豊かな解剖医として名を馳せる一方――この国では合法的なの調達ルートが限られており――幾千もの墓を荒らした死体窃盗団の元締めとして悪名を轟かせていた。

 親方は蔑んでいる側の人間らしく、ハンター医師の名に顔をしかめた。


「死体屋の手先が何の用だ?」

「怖い顔しないでくださいよ。ちょっとお願いがあるだけなんです」

「お願いだと?」

「ボク、知り合いの医師から話を聞いてきたんです。あなたの娘さんの脇腹に何か腫瘍があったとか。興味深い症例ですし、少し調べさせてほしいんです」

「調べる?」

「ええ!」


 メルはその美しい容貌に相応しい、キラキラと粒子を振りまくような笑顔で応えた。



「その女の子、ボクに切り刻ませてくれませんか?」



 群衆の空気が、色を変えた。

 それまでエドに向けられていた怒りや蔑み、嫌悪の念――それらがない交ぜにになった黒い渦が、一斉にメルへと降りかかる。メルはそれを、爽やかな微笑をたたえて受け止めた。

 親方が拳を構えた瞬間、メルはすっと手を伸ばした。

 メルの手には、5ギニー金貨が握られていた。

 この国に流通する最高額の硬貨。豪奢な彫刻が施された銀時計に相当する価値、ジンなら大樽5つ分だ。エドの年俸は2ギニー10シリングだから、彼の2年より、メルの手の中の金貨は重い。

 メルはうっすらほほ笑んだまま、親方の拳の隙間にすっと金貨を滑り込ませた。


「額に不満があるようでしたら、遠慮なく言ってくださいね?」


 親方がどう応じていいかわからず躊躇している間に、メルはもう1枚金貨を握らせた。親方が言葉を失う。


「異存なきようで。商談成立、娘さんのご遺体はボクが預かります」


 メルはまるで旧知の親友であるかのように親方に抱きつくと、その肩を軽く叩いた。ノラに歩み寄り、優雅な所作でその遺骸を胸に抱く。

 悠然と広場を去っていくメルを、誰も呼び止めることができなかった。

 広場に残された男たちの間に、居心地の悪い空気が流れる。今さら死者を冒涜した罪でエドを責めるものがいるはずもなく、みな困り顔でお互いの顔色を窺っていた。



 そのせいか――エドが広場から姿を消していたことに、誰も注意を払わなかった。



     *



「俺を、連れてけ」


 ノラの屍体を馬車の座席にたてかけたとき、メルは背後から声をかけられた。幼く、それでいてまっすぐな意志を感じる、力強い声だ。血でべとついた前髪の隙間から、エドがじっと睨んでくる。


「ノラを解剖するんだろ? 俺も立ち会う……今度こそ、確かめる」

「それは彼女のため?」

「俺の勝手だ」

「へえ、そうなんだ。好きでやってるようには見えないけど」


 慈悲深く優しげでありながら、人としてのぬくもりを感じさせない、奇妙な笑みをメルは浮かべた。


「ならこうしよう。君に解剖教室へ立ち入る資格があるか、試してあげる。条件を満たしたなら、ボクがハンター先生に口利きして、君を助手に採用させるよ……どうかな?」

「……条件ってなんだ?」


 メルはずいっとかがみ込み、鼻先が触れそうなほどエドに顔を近づけた。


「君が、彼女の屍体に美しさを見出すことさ」

「……美しさ」

「屍体にはある種の残酷な美しさがあるんだ。身体から生命が抜け落ちると、骨と腱が絡まり合って描かれる、精緻な式がむき出しなる。その機能美を享受できる者だけが、一人前の解剖学者になる素質を持つのさ。でも、これを満たす人間は多くない。大半の人間は屍体を『物』と割り切ることができなくて、その美を受け止める資格を持たないからね」


 小さな子どもを諭すのに必要な技術を、メルは一通りそろえていた。柔らかい物腰、適度に抑揚をつけた話し方、耳に心地いい余韻を残す声――教える内容にさえ目をつむれば、見かけ上、メルは誰よりも心優しい教師に見えた。

 メルはエドの手を掴んで馬車の中に引きずり込み、ノラの屍体を包む布を取り去った。


「割り切れ、エド。が生命だったころの残滓を、頭から取り払え」


 メルの命令は、エドに不思議な感覚をもたらした。はっきり通る声が鼓膜を貫いたはずなのに、冷たい静けさに耳の奥がじんと震える心地がする。



「『物』としての美しさを、その瞳に映し出せ」



 エドはノラの屍体を見渡した――青白い肌、泥で汚れた髪、混濁した瞳――腐敗は進行している――否応なしに、ノラの生前の姿が脳裏に蘇り、目の前の光景と比べてしまう。その度にエドは感情を殺した。観察、想起、抹殺――ぐるぐる繰り返す。


 どれだけの時間が経ったのか、感覚が曖昧になったころ。不意にメルがエドにほほ笑みかけ、手を差し伸べてきた。


「ボクが見込んだ通りだよ、エド。君は人間らしい感情を捨て去ることのできる子だね。その非情さは砥石となって、君を怜悧に研ぎ澄ますよ」


 メルは楽しくてたまらないと言った様子で、その美しい目を細めた。空色の瞳には、がらんどうになった少年の姿が映っている。


「これからよろしく、エドワード。解剖学の世界は君を歓迎する」


 メルは恍惚とした顔で、それでいて例の教師らしさを崩すことなく、エドの両頬に手を添えた。



「彼女を見つめる君の視線は、屍体みたいに冷たかった」



       *


 かくして、エドは幼馴染の屍体にメスを振るい、解剖学者としての道を切り拓いた。その後、血のにじむような修練を5年重ね、エドはハンター医師の全てを受け継ぐことになる。



 数多あまたの解剖実習に裏打ちされた、偉大なる外科医の腕も。

 人体や動植物の標本に囲まれて培った、生物学の知識も。

 千を超える墓を暴いた、死体盗掘人としての悪名さえも。

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