鴉とひよこの解剖教室

橘ユマ

0-1. 1786、約束、煤煙の街 


 1786年、ロンドン。10に満たない年齢であろう少女が、同じくらいの少年の手を引いて雑木林の奥に連れこんだ。少女はあたりを見渡し、秘密を打ち明けるように声を潜めた。


「腋の下からね、指が生えてきたの、見て、エド」


 ノラがスカートの裾をシュミーズもろともまくり上げた。糸杉の梢から木漏れ日がしたたって、ノラの身体を照らし出す。頭の上まですっぽりと隠れるほど服をまくったノラの姿は、真っ白なキノコに似ている。


「確かめて」


 促され、エドはノラの脇腹に触れた。確かに、丁度小指ぐらいの大きさのしこりがある。


「エドにはわかる、これ?」

「知るわけねえよ。これ、危ないやつじゃないのか?」

「わかんない」


 ノラが手を放し、スカートの裾がふわりと降りた。ゆるゆると首を振ると、キノコから解放された金の髪が陽だまりの中に躍る。


「医者には診せたか?」

「うん、よく効くお薬だって、蟹の目玉を飲まされたよ。あと、たくさん血抜かれた」

「……瀉血か。効果あんのか、あれ?」


 18世紀当時、イギリスの医師たちは一千年前から受け継がれてきた古い学説を妄信し、瀉血(血抜き)を万能の治療法として推奨していた。目まいを訴える患者にも、下痢を訴える患者にも、川で溺れて死にかけた患者にさえ、腕に針刺し血を抜いたのだ。


 貧血で立ちくらみを起こしたのか、ノラは草の上にへたり込んだ。


「……立てない。エド、おんぶして」

「ここまで普通に歩いてきただろうが」

「……おんぶしくれたら元気になるって言っても?」

「あ?」

「……それだけで、治るまで頑張れる気がする……」

「……ノラは地味に、ワガママ押し通す才能あるよ」


 何かに敗北したような気分で、エドはノラを背負いあげた。秘密の遊び場である雑木林を抜け、石畳の街路に出る。

 1666年のロンドン大火で従来の木造家屋が灰燼かいじんと化したあと、赤く華やかな煉瓦建築が再建され、帝都は欧州で最も美しい都市となって蘇った――という昔話を、エドは教区の牧師から聞いたことがある。産業革命以降、おびただしい数の煙突がそびえたち、煤煙ばいえんが空をどす黒く覆っている。煤は屋根や壁に分厚い層を成し、街を黒一色に染め上げていた。


 エドが舗装の甘い敷石を踏み、身体をぐらつかせた。なんとか持ち直したとき、ノラが声をかけてきた。


「ねえ、明日はエドの誕生日でしょ? 10の誕生日。何か欲しいものある?」

「ねーよ、大体それ、ノラが勝手に決めた誕生日だろ?」


 エドは捨て子で、自分の誕生日はおろか、親の顔も本当の姓も知らない。物心つく前に煙突掃除夫の親方に売られ、いわゆる登り子クライミングチルドレンとして働くことになった。登り子たちはブラシを片手に火のついた煙突に登らされ、夜は煤の上で眠る。煤は発癌物質だから、長続きする子どもは少ない。

 エドもかつて、煤に目をやられて死にかけたことがある。そのとき、親方の娘であるノラが、清潔な水と布をもって看病に来てくれた。彼の姓も誕生日も、命さえも、全てノラが与えたものだ。


 エドがはるか先を見据えたような目をして、以前よりの考えを口にした。


「ノラ、俺は明日、ロンドンを出るよ」

「え?」

「郊外にあるガラス工房が、従弟の募集をかけたんだ。普通そういうのは13歳からなんだけど、そこは10歳でもいいって。俺はそこに弟子入りして、一流の職人になる」


 エドの計画は現実的なものではなかった。弁護士でも左官屋でも点灯夫でもその他どの業界でも例外なく、弟子入りしてから数年間、従弟は無給で働かされることになる。そのため従弟は親に生活費の工面を頼むのが普通だが、もちろんエドにそんなあてはない。

 ――でも、やらなきゃいけない。

 ――登り子の身分に甘んじていては、いずれ、ノラと離れ離れになる日が来る。


「従弟奉公の期間は5年だってさ。5年で、俺は一人前になる……約束する……だから、そのとき……」


 気恥ずかしさがあふれ出る。迎えに行く、という言葉を、エドは口にできなかった。ノラが、まるで赤子のようにエドの背中にぐりぐりと顔を埋め、くぐもった声で言った。


「エド、明日また、あの林で会えない? この街を出る前に」

「……行けるかわかんねえよ、準備もあるから」

「待ってる」


 今度は不思議とはっきり通る声で、ノラが言った。寂しさをこらえるように、エドの身体をぎゅっと抱く。


「待ってるから、迎えに来て」


 結果を言えば、次の日、ノラは待っていなかった。

 登り子の仲間に話を聞くと、「指」の症状が悪化したのだという。腫瘍は膨らみ、ずきずきと痛みを伴うようになったらしい。近日中に手術が施されることになったので、ならせめてそれが終わるまでと、エドは出発を延期した。


 エドが約束を告げ損ねた日から10日後、ノラは死んだ。


       *


 ノラの葬儀が終わった翌日。

 エドは労働者風の男たちに捕まり、路地裏に連れ込まれた。手に抱えていた、白い布で包まれた大きな荷物は没収された。

 連行された先の広場には、煙突掃除夫の親方――ノラの父親がいた。


「お前、自分が何したか分かってんのか?」


 親方は素早く踏み込み、エドを殴り倒した。その後数分、親方とエドの殴り合いになったが、遠巻きにはやし立てる男たち――みな親方の知り合いらしい――が親方に加勢し始め、いつの間にか徒党を組んだ私刑が始まった。誰かがエドの足を払えば、別の誰かがエドの顔面を蹴り飛ばす。折れた歯が石畳の上を転がった。

 男たちの中の数人が、エドのもっていた白い包みをあらため、舌打ちする。彼らは揃ってエドに向き直り、獣のようにぎらぎらとした目を向けた。


「腐れガキめ、とんでもねえもん盗みやがった」


 はだけた白い布からは、金色の髪が覗いていた。

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