百舌鳥の速贄
瓶野こるく
百舌鳥の速贄
幼い頃の話だ。
近所にある廃洋館に幽霊が出るという噂が立った。
戦争が終わってすぐの時期だっただろうか。『僕』の周りでも人はそれこそ塵芥の如く死んでいたし、別段幽霊だなんて珍しくないだろうと思っていた。だから真偽を調べてみようなんて考えたのは全くの気まぐれで、言ってしまえばただの暇つぶしだったのだ。
――結論から言えば、そこに幽霊なんていなかった。ただ、1人の男が住んでいた。否、居座っていたと言った方が正しいのかもしれない。
ずかずかと住処に入ってきた『僕』を見て「茶の一つも出せんぞ」と笑うくらいには図太い男だった。
男は
それでも、あの時代の男性の平均身長を大きく上回るスラリとした
『僕』は、男の瞳を一等気に入っていた。
蒼い瞳だった。真夏の空をふと見上げた時の、あの抜けるような、引き込まれるような蒼を切り取ったような色だった。
男は仁永、と名乗った。
「ニエ、仁義の『仁』に永遠の『永』で仁永だ。良い名だろう」
そう言って男は、仁永は笑った。
それから『僕』は暇さえあれば仁永の元へ通った。それは
そう、寒さが一層厳しかったあの日。仁永との日々は唐突に断絶したのだ。
「明日からは来るなよ」
暖炉の炎を前に突如仁永が言った。
「どうして?」
「どうしても」
お前は、こんな死に損ないに構っていたらいけない。そう呟いて仁永は『僕』の頭を乱暴に撫でた。
「約束できるか?」
「……うん」
そう言うしか無かった。仁永の前では
「いい子だ」
仁永はまた笑った。
「そう言えば、名前を聞いてなかったな」
仁永はいつも『僕』の事を「坊主」だとか「お前」だとか、適当に呼んでいたから名前を教えた事は無かった。『僕』は自分の名前が嫌いだったから、それでよかった。
「……ヒツギ。石碑の『碑』に継ぎ接ぎの『継』。碑を継ぐ、で碑継」
言いながら眉間に皺が寄るのが分かった。
辛気臭い、気味が悪い、意味も古臭い。まるでお前は家を継ぐのが使命だ、そう言われているようで大嫌いな名前だった。
「――良い、名前じゃないか」
その言葉に顔を上げると、仁永は今まで見たことのない笑みを浮かべていた。
「そうか、ヒツギ。お前が、碑継か」
『僕』の名前を何度も何度も口の中で転がしていた。
初雪の日。辺り一面が純白に染まる中で『僕』はあの廃洋館に足を向けていた。
もう来るな。そうは言われたものの、何故かその日は仁永に会いたくて仕方がなかったのだ。
廃洋館の扉に手をかけると
それを引き剥がして乱暴に扉を開く。ここ数週間で聞きなれた
静寂を保ったままの洋館内を駆け、いつも仁永の居た応接間へと向かう。おかしい。昨日までなら足音に気付いた仁永が「また来たのか」と迎えてくれるはずなのに。
「仁永がいなくなったかもしれない」。『僕』の予感とは裏腹に、そこに仁永はいた。いや、『あった』と言うべきか。
扉を開いた『僕』が見たものは、抜き身のサーベルを手にしたまま床に倒れ
『僕』は仁永の横に膝をつく。彼にもう息が無い事なんて子供の『僕』にも理解出来た。
赤黒い液体はばっくりと裂かれた仁永の腹から流れ出していた。
もう来るな。そう言ったのは『僕』にこれを見せないためだったのか?何故仁永は死んだ?何故死ななければいけなかった?
脳内で様々な問いが浮かんでは消える。そんな中でふと脳裏に仁永の声が再生される。
「異国では、人の肉を喰らう事で死人の魂を自分の中に留めておく、という宗教儀式があるらしい。自らを、死者の棺とするんだろうな」
目の端に仁永の持つサーベルがちらつく。腹から覗く
今は冬。しかも、雪の降る真冬だ。
仁永の身体は、まだどこも腐ってはいない。
――風ががたがたと窓を揺らす音で目が覚める。どうやら原稿の執筆中に眠ってしまっていたらしい。朝降り始めた雪はいつのまにか吹雪になっている。ああ、懐かしい夢を見た。
仁永が死んでから数年後、成人した私は父からとある告白をされた。
「お前には兄がいる」
母と婚約する前に出会った異国の女性との息子で、先の戦争に出兵して行方が分からなくなったこと。
そして、兄の名は『仁永』であること。
……「ヒツギ」と愛おしそうに私の名を呼んだ彼は、一体どんな想いでその名を口に出したのだろう。
私は一つ溜息を吐いた。机の引き出しから箱を取り出し、中に収められていた小さな塊を指で転がす。
アダムの
ひとつだけ、どうしても仁永の生きた証が欲しくて持ってきたそれは、年月を経てなお
手の中で軽く転がる白を眺めながら、私は幾度と無く繰り返した問いを自らに課す。
――私は、僕は、仁永の『棺』になれたのだろうか?
百舌鳥の速贄 瓶野こるく @onipota
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