短編・掌編集

ゆずき

お盆の夜に

 その晩はとても蒸し暑かった。

 意識を取り戻した僕は川べりに横たわっていて、体の周りには膝丈ほどもある夏草が、いかにも暑苦しそうに覆い茂っていた

 灰色に淀んだ夜空には星ひとつ見えない。体を起こすと、目の前のたいして広くもない川の向こうには無機質なビルや町工場が連なっているのが見える。首を回して川のこちら側を見渡せば、広い土手とゴルフ場とが続いていた。

 その見慣れた景色を見て、僕は今年も自分が故郷に帰ってきたことを知った。

 僕の足は自動的に立ち上がり、歩きはじめた。久しぶりの感覚だったが不思議と戸惑いはない。歩くという行為を僕は忘れていないようだった。


 川を背にゴルフ場を抜けると高校がある。僕の母校だ。灯りの消えた校舎を感慨深く見上げて、けれど僕の歩みは止まらない。

 盆の深夜だというのに、広い道路にはひっきりなしに車が行き交っている。トラックの荷台で荷物の跳ねる音がする。熱のこもった排気ガスが顔にかかる。

 人気の無い夜の国道一号線を、僕はゆっくりと歩いた。やがて小さな駅が見えて来る。辺りは去年ここを通った時より賑やかになっていた。知らない家がずいぶん多い。新しいスーパーもできたようだ。隣の駅で大規模な再開発が進んでいると聞くから、その影響でこの辺りに住む人も増えたのだろう。


「おや、ご同輩ですかな」

 声をかけて来たのは見事な禿頭の男だった。僕のことが見えるということは、この男も同類らしい。

「この一年で、この辺りもずいぶん変わりましたね」

「そのようですな。寂しいものです」

 挨拶を交わしてすれ違う。しばらく歩いて鶴見川を越えると、自分と同類らしき人たちを何人も見かけるようになった。僕たちはなぜか水辺で意識を取り戻すことが多い。


 車の多い国道一号線の歩道を、僕たちは西へ西へと進んでいく。

 その中に歩みの合う者がいて、自然と肩を並べて会話がはじまる。

「あなたは生前、何を?」

「高校の教師でした」

 僕が答えると、ほう、と相手は頷いた。

「いい仕事ですね」

「そうですね。当時は愚痴ばかりこぼしていましたが、今になれば我ながらいい仕事を選択したと思います」

「次の世代に何かを伝えるというのは、大切な行いですね」

「はい。あなたは何を?」

 僕が問いかけると、

「トレーダーでした。億単位の金を転がすこともありました。やりがいのある仕事でしたが、今となっては金など何の役にも立ちません」

 男は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「そうでしょうか。あなたの稼いだお金で、あなたの家族はいい暮らしを送れたのではありませんか」

「たしかにそうですね。私がいなくなった今もどうにかやれているようです」

「立派な行いではありませんか」

 ありがとう、と男はつぶやいて、

「や、ちょうど家族に呼ばれたようです」

 ぱちんと姿を消した。


 しばらく僕は一人で歩いた。国道一号線の周囲にはいつの間にか住宅街が広がっていて、初めて見るレストランやショッピングセンターが建っている。

 やがてまた同行者ができた。

「あなたは生前何を?」

「主婦をしていました」

 女は丸い声で語った。

「二歳の娘がいましてね。娘がそんな小さなうちにあたしは死んでしまったものだから、もうとにかく毎年心配で仕方なかったんです。でも、今年ついにその子が嫁に行くんです。今日はそれを報告してくれるみたい」

「よかったですね」

 女は幸せそうに笑った。

「ええ、本当に。あら、話しているうちに娘に呼ばれたみたい。それじゃあね」

 そう言って女はぱちんと消えた。


 僕は一人でどこまでも歩いて行く。肉体を失ってからは歩き疲れるということを知らないから、その気になれば由比ヶ浜どころか小田原までだって歩けてしまうだろう。

 国道一号線はしばらく東海道線と並行に続いていく。

 かつて僕はこの列車に毎日揺られて、茅ケ崎の高校まで通勤していた。乗車率はいつだって百二十パーセントを超えていて、押しつぶされそうになりながら、僕は毎朝彼女にメールを打ったり、その日の授業のことを考えたりしていた。

 でもそれももう十年以上前のことだ。僕を失った彼女はしばらく号泣していたけれど、やがて立ち直り、今は別の人の妻になった。

 自分の愛した人が幸せに暮らしているのはいいことだ。

 ただ僕は、子孫を残さぬまま死んでしまったことを少し後悔している。僕の両親は早くに他界してしまったし、兄弟もいなかったから、今となっては僕を思い出してくれる人はほとんどいない。

 だからこうして、盆の日に誰からも呼ばれることなく、あてもなく道を歩いている。死んでしまってから十数年、変わらぬ儀式だ。

 今更どうしようもない。わかっていても、先程の主婦のような者に会うと、胸に酸っぱい思いがこみ上げてくる。


 国道一号線の幅は狭まり、ゆるやかなカーブの坂道を描いている。片側には雑木林が鬱蒼と茂り、街灯と街灯の間隔は離れていて心細い。生きていた頃の僕なら、こんな寂しい道はたとえ昼間だって通りたくなかっただろう。

 暗い道には人影ひとつ見当たらない。あんなにたくさん行き交っていた車やトラックも、どうしたのだろう、さっきから一台も通らない。川から距離があるせいか、同類の姿も見えなかった。

 人気の無い夜道を、僕は大きく手を振って歩いた。大股開きでずんずん進む。昔好きだった歌も口ずさんでみる。

 この速さなら、今年はかなり遠くまで行けるかもしれない。記録に挑戦するのも悪くない。

 僕は猛然と突き進んだ。坂道の先はバイパスになっていて、金属の防音壁が僕の視線を周囲の風景から引き離す。歌いかけていたメロディは、あっという間に音を成さなくなった。駆け足にならないぎりぎりの速度で、壁に囲まれた灰色の道だけを見つめて、風のようなスピードで、僕は無心の塊になる。


 どのくらい経ったのだろう、ふと我に返った。

 一体こんなことをして何になるというのか。速く遠く進んだって、何にもならない。誰と比べることもなく、来年も再来年も、ずっと一人でこの道を歩くのだ。

 肩の力が抜けた。歩調は極端に遅くなった。なぜ僕は毎年国道一号線を西へ向かって歩かなくてはならないのだろう。

 そもそも、僕の人生に意味はあったのだろうか。

 教師としての夢は道半ばで途切れてしまった。彼女に永遠を誓うことも叶わなかった。

 僕は結局何をも成すことができなかった。誰をも幸せにできなかった。

 全く、僕は何のために生まれてきたというのか。僕の生に、死に、意味はあったのか。なぜ事故で死なねばならなかったのだろう。

 死してなお、毎年盆が来ると僕はこうして蘇り、夜を徹して無意味に歩き続けている。無意味、そう、本当に無意味だ。

 盆に蘇った多くの者たちは、まだ生きている家族や友人の元に呼ばれるらしい。自分を呼んでくれた者たちに会い、元気な姿を確かめて再び眠りにつくのだ。そうしていつの間にか、蘇ることもなく永遠の安寧へと旅立つという。僕のように呼ばれもしないのに蘇る者は多くない。

 どうして僕はこんなことになってしまったのだろう。いや、こうして未練たらしく考えごとなどしているから、毎年懲りもせずに蘇ってしまうのか。

 足を引きずるようにして僕は歩いた。どんなに気力がなくても、この足は西進を止めない。まるでプログラミングされているみたいだ。


 どのくらい歩いただろう、いつの間にか灰色の夜空は白みかけてきた。そろそろ朝も近い。今年もやっと消えられる。つまり、今年も僕を呼んでくれる生者は誰もいなかったようだ。

 ため息をついて頭を上げる。バイパスの灰色の壁はいつの間にか遠くなって、開けた視界の先に、再び東海道線が見えた。遠くに広がる黒い面に見覚えがあった。海だ。茅ケ崎の海だ。

 僕は惹かれるようによろよろと歩いた。国道一号線は海に向かってまっすぐに続いていた。

 やがて海の手前に、見知った白い建物が現れる。生前通勤していた高校だった。事故に遭って以来はじめて、僕は高校に来た。

 夜明けの空には一番星が遠く光っている。閉じた校門を乗り越えて、まっすぐに校舎へ向かう。今や足取りはしっかりとして、気のせいだろうか、心も少し軽くなっていた。


 音楽準備室のドアは十数年経った今も滑りが悪かった。いや、いっそう悪くなっていた。当然僕の机は無くなっていたけれど、僕は勝手に当時座っていた席に腰掛けた。

 ここでたくさんの生徒と話した。コンクール前には練習が足りないと叱った。泣きそうな瞳の進路相談に向き合った。この場所で、音楽室で響く歌声や演奏を、毎日飽きることなく味わった。

 長い月日が流れてなお、僕は当時向き合っていた生徒一人一人の名前と顔を覚えていた。誰と仲が良かったか、どの教科が得意で、どんな夢を持っていたか、全て記憶していた。

 いや違う。今の今まで忘れていたのに、この場所に来た途端に思い出したのだ。

 教室のざわめきが、ふざけ合う男子生徒の姿が、輪になってはしゃぐ女子生徒の姿が、鮮明に見えるような気がした。吹奏楽部の演奏が、運動部の掛け声が、耳を打った。

 どうやら僕はずっとここに帰って来たかったようだった。

 しばらく感慨に浸っていたかったけれど、今や朝はいよいよそこまでやって来ている。僕が僕でいられる時間は残り少ない。

 椅子から足を引き剥がして、僕は廊下の突き当りの階段を上った。見覚えのある壁のへこみを見つけた。やんちゃな生徒がボールをぶつけたのだ。新しかった壁紙も今はすっかり黄ばんでいる。


 屋上に続くドアを開ける。海の向こうがうっすらと黄色く明るんできていた。潮のにおいの混じった風が鼻をくすぐる。

 十二年前、僕はこの場所で亡くなった。その日は文化祭直前で、放課後の屋上では吹奏楽部が練習していた。

 嵐がやって来たのは突然だった。天気予報では快晴のはずだった。海の方があっという間に暗くなって、突風が吹いた。スコールのような土砂降りが校舎を叩いた。

皆慌てて校舎の中へ駆け込んだ。けれど楽器を置いていくわけにはいかなかった。重い楽器を転がそうとした時、僕は転倒してしまったのだ。濡れた床にしたたかに頭をぶつけ、そこへ金管楽器の入った重いケースが降ってきた。

 あっという間の出来事だった。走馬灯が回る時間すらなかった。何かを思う余裕すらなく、僕の意識は途切れた。

 何て間抜けな最後だろう。今思い出しても涙が出る。

 けれど、今はいつもとは少し違う気持ちだった。嵐は去ったのだ。海も空も穏やかな色をたたえている。明けていく空を見ながら、僕は自分が指導してきた子ども達の未来を想った。彼らの姿がすぐそこに見えるような気がした。

 十二年ぶりに、僕はタクトを振った。時に歌いながら、時に感情を込めて大きな手振りをつけながら、文化祭で演奏するはずだった曲を僕は指揮した。目の前では部員達が真剣な顔をして演奏している。


フルート! そこは小さく歌うように。

トランペット! もっと堂々と胸を張って。

コントラバス! 今一拍遅れたぞ。

シンバル! いいぞ、その調子。


 目を閉じれば胸いっぱいに楽器の音色が広がっていく。僕は、僕はこの瞬間が好きだったんだ。

 タクトを握ればどこまでも高みに向かっていける気がした。自分の指揮で演奏が見違えるように変わっていくことが喜びだった。

 ああ、僕の人生に意味があったとすれば。今この瞬間の演奏こそが、そんな演奏の積み重ねこそが生きる意味だったのではないか。思いがけない事故だったけれど、最後の瞬間まで音楽とともにいられたことは幸せだったのではないか。

 その上で、もし僕の生徒達が何か感じてくれていたなら、それこそは無常の喜びである。

 最後のティンパニーが鳴って演奏が終わった時、僕はぱちんと姿を消した。東の海の端から朝日が顔を出していた。




 その日は久しぶりの同窓会だった。

 蒸し暑い盆だったけれど、三十になった生徒達は、屋上から思い思いに校庭や海を見回していた。

「ねえ、顧問の先生のこと、覚えている?」

 トランペットを吹いていた生徒が言った。

「もちろん。ショックだったなあ、あんなことになるなんて」

「そうだね。でも、いい先生だったよね、一生懸命で」

「うん、私、あの先生のおかげで教職も悪くないかもって思えた」

「それで先生になったの?」

「そうよ」

 フルートとピッコロの生徒が、すごーい、と手を叩いた。

 コントラバスの生徒がつぶやく。

「あの世で元気にしているかな」

「もうドジなことしていないといいね」

 その時、やさしい風が吹いて、生徒達の頬を撫でた。

 校舎の向こうから課題曲の音色がふっと聞こえたような気がした。



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