第22話 混蟲対混蟲
「――!?」
突然のアウダークスの行動に驚いたのだろう。縄を握っていたヘルマンの指が緩んだ。その隙に、アウダークスはその縄を自分の体の方へ強く引っ張る。
縄ごと引っ張られたセクレトの身体は、見事な弧を描きながら宙を舞った。
アウダークスは彼の身体を、すかさず肩で上手く受け止める。まるで曲芸師かと見
「相変わらずだな……。もう少し優しく扱って欲しいのだが」
「あら、あなたってそんなにヤワだったかしら?」
担がれた状態で、セクレトはアウダークスに苦笑を洩らした。
「馬鹿な真似はやめなさい」
空気を裂くのは鋭い声。
いつの間に出したのか。パルヴィが、小型ナイフをテレノの顔に突きつけていた。
人質は一人だけではない、と言いたげに、パルヴィの顔には余裕さえ滲んでいる。
だが――。
「パルヴィ、後ろだ!」
ヘルマンが声を上げるが、既に遅かった。
エドヴァルドが、パルヴィの背後に回っていたのだ。エドヴァルドはパルヴィが振り向く前に、彼女の背中を思いっきり蹴り抜いた。
「がっ――!?」
苦痛の呻き声を洩らし前のめりに倒れるパルヴィを、ヘルマンが慌てて支えに向かう。
その隙にエドヴァルドは、テレノの身体に巻かれていた縄を強引に引き千切る。
事態は一瞬のうちに好転した。
パルヴィの歯軋りの音が広い空間に響く。
「ヘルマン。数ではこっちが負けているけれど、どうやってこいつらを拷問室へ連れて行こうかしら?」
ヘルマンに支えられて立ち上がった彼女は、憎々しげに一同を睨みつけた。
「連れて行く必要はないだろう」
「――!? あなた命令に背く気?」
ヘルマンの返答にパルヴィは驚愕の眼差しを向ける。だがヘルマンは落ち着いたまま、片手を軽く振った。
「いや、そういう意味ではない。ここで拷問を済ませてしまう方が手っ取り早いと思ってな」
「なるほど……。それもそうね」
どこか嬉しささえ漂わせながら、パルヴィは鋭い眼光でこの場に居る者を射抜いていく。
彼女らは女王蟻から認められた
ラディムは自分の頬を両手で叩き、気合を注入する。今は過去に捉われ、ぼんやりとしている場合ではない。
「そんなことを言われて、おとなしく拷問を受けるわけがないだろうが。マゾじゃあるまいし」
「あら。私はどっちかと言えば、攻めるより激しく受ける方が好きだけど」
ラディムの言葉にアウダークスが喜々として反応した。
「頼むから今は変なことを言わないでくれ! 今のはさらっと聞き流すところだろ!」
アウダークスにツッコミながらもラディムは両腕に力を込め、一度引っ込めていた
戦闘態勢になった彼らを見て、ヘルマンとパルヴィもそれぞれ姿勢を低くした。
「腕の一本くらいなくなってしまうかもしれないけれど、それが嫌だったらさっさと吐きなさいね!」
言いながらパルヴィがラディムに向かって勢い良く地を蹴る。
それが、開始の合図となった。
「凍てつく空気よ我の元へ、咲き誇れ氷花!」
祈りを込めた言葉と共に、ラディムの腕の突起を花弁のような氷が覆った。
走りながら小型ナイフを突き出してきたパルヴィに向けて、ラディムは氷
ヒュッという、
素早い。
思わずラディムは舌打ちを洩らす。
パルヴィはポニーテールの髪を揺らしながらラディムの
その攻撃を上体を反らして何とかかわしたラディムは、仰け反りながら左腕を思いっきり横に振るった。
ラディムの片腕から離れた五本の氷の刃が、彼女を傷つけんと一斉にパルヴィに向かう。
この至近距離ならば避けられないはず――。
だが彼の予想は外れた。パルヴィはラディムの予想を上回る速度でしゃがみ、彼の攻撃をやり過ごしたのだ。
(反応速度が良すぎるだろ!)
思わずラディムは胸中で悪態をつくのだった。
そのままパルヴィは、ラディムの右脚を両手で掴み、持ち上げる。
ある意味非常に原始的な攻め方だが、それを笑ってやり過ごす余裕など彼にはなかった。
(倒れる――!)
ラディムがそう思った時には、パルヴィの膝蹴りが既に彼の脇腹にめり込んでいた。
苦痛に呻く間もなくラディムはバランスを崩し、後ろに傾く。
しかしラディムも、ただおとなしく倒れるつもりはなかった。残っている右腕の氷の刃をパルヴィに向ける。
だが何を思ったのか、そこでパルヴィもラディムの上に覆い被さるようにして倒れ込んできたのだ。
「――っ!?」
その行動の真意を、短時間で理解するのは無理だった。
体重を掛けられたラディムは成す
パルヴィは豊満な胸をラディムの腹に押し付けたまま、彼の首筋を指先で愛撫し始める。
「なっ!? いきなり、何を――」
理解不能だった。もしかして彼女は、ラディムに一目惚れでもしていたのか。それでついに我慢ができなくなって、このような行動に出たのでは――。
(それはちょっと……じゃない、大いに困る! 俺はあいつ一筋で……!)
頭の中が桃色に混乱しかけているラディムの首筋に、パルヴィの厚い唇が触れ――。
直後、ラディムの首に鋭い痛みが走り、彼女の生温かい舌の感触が広がった。
「――――っ!?」
「……お兄さんの血、なかなか濃くて美味しいわね」
口から血を滴らせ、パルヴィがうっとりとした声を発しながら顔を上げる。ホラーなその顔に戦慄してしまったラディムは、声を出すのも忘れていた。
「私ね、
パルヴィがそう言った直後、突然ラディムの四つの瞳に映る世界が激しくぶれた。視界に訪れた唐突な異変に、彼の平衡感覚は乱される。
「あんた、俺に何を……」
「お兄さんに教えてあげる。
パルヴィはラディムに馬乗りになった状態で、彼の首筋から流れる血を指でなぞりながら続けた。
「あとね、私は少し特別で。血を吸う時に軽い毒を注入できるの」
パルヴィは笑みを浮かべたまま、血の付いた指を舐め取る。
彼女の言葉を裏付けるかの如く、ラディムのコバルトブルーの瞳は、急激に濁りを帯びた灰色へと変色した。
パルヴィがラディムに向かい地を蹴った直後、エドヴァルドはヘルマン目掛けて跳躍していた。彼女の拳は大きく振り上げられている。
ヘルマンは咄嗟に右腕で顔を隠すが、重力と体重を乗せたエドヴァルドの一撃が、彼の右腕に直撃する。
ごっ――。
鈍く嫌な音が広場に渡る。
確実にヘルマンの腕は折れた――。
エドヴァルドを含め誰もがそう思っただろう。だがヘルマンはそのままエドヴァルドの拳を払いのけると、何事もなかったかのように軽く手首を振った。
「…………」
腑に落ちない顔をしたまま、エドヴァルドは着地する。
彼女の今の一撃は、全力だった。岩壁をも簡単に破壊するそれを受けながらも平気な顔を晒すヘルマンに、戸惑うのも当然と言える。
「なかなか良いパンチだが、俺の身体を傷付けるにはまだまだ足りんな」
ヘルマンはそう言いながら、手の甲をエドヴァルドに向ける。
彼の腕を見たエドヴァルドは、僅かに目を見開いた。いつの間にか光沢のある茶色の手甲が、ヘルマンの腕を覆っていたのだ。
いや、覆っているのではない。その手甲は彼の腕と完全に同化していた。
「……混蟲か」
エドヴァルドが呟くと、ヘルマンは太い首を縦に振った。
「カブト虫ってやつだ」
そう言い、彼は不敵に笑った。
パルヴィはラディムに馬乗りになったまま、短剣を彼の顔面へ向けて振り下ろした。ラディムは強引に首を捻って何とかそれをやり過ごすが、彼女は尚も連続で短剣を繰り出してくる。
「痛っ!」
頭だけを動かして避け続けるには、やはり限界があった。彼女の短剣が、ラディムの左耳を掠めたのだ。
血を吸った後に毒を入れたと言っていたが、彼女の言葉を裏付けるかのように、ラディムの視界は次第にぼやけていっていた。それだけならまだしも、意識も朦朧とし始めている。
このままだと、やばい。
焦るラディムを置いて、突然パルヴィは後ろに跳躍し、彼から離れた。
くらくらする頭とはっきりとしない視界で、ラディムは何とか状況を理解する。
どうやら、アウダークスがパルヴィに攻撃を仕掛けたらしい。拳を振り抜いたポーズのまま、アウダークスがラディムの横に佇んでいた。
「私のお兄さんに手を出すなんて、とんだ横取り虫だこと」
アウダークスはパルヴィに対し、不敵な笑みを浮かべた。
(おい、今の言い方は訂正しろ。誤解されるだろうが。俺はおっさんのものではない)
だが大変残念なことに、ラディムはそれをアウダークスに言うことができなかった。口が動かなかったのだ。
ラディムはふらふらとしながら何とか立ち上がるが、意識が次第に混沌に沈んでいくのを感じていた。ラディムが受けた毒は、精神に異常をもたらすものなのかもしれない。
(――精神?)
何かがラディムの隅に引っ掛かった。だがすぐにその答えに辿り着けない。それどころか、まるで幕が閉じるかのように、思考が黒く塗りつぶされていく。
「あら。大の男が二人がかりで女の子を苛める気? 酷いわね」
「私は『おねえさん』よッ!」
パルヴィのその一言で憤怒したアウダークスは、巨体を思わせぬ速さで突進する。
それを上に跳んで易々とかわしたパルヴィは、宙でくるりと回転するとアウダークスの背中を軽く蹴る。
踏まれたアウダークスは、鬼神の如き形相でパルヴィを睨んだ。
「小娘が生意気な」
アウダークスはすぐさま上体を捻ると、拳を床に向けて叩きつけた。
刹那、床は音を立てて豪快に抉られる。無数の床の破片が飛び散った。
「――!」
パルヴィは空中で避ける間もなく、その破片を全身で受けてしまった。
「そのスピードに力。あなたただの人間のくせになかなかやるじゃない」
しかし身体中にできた擦り傷をものともせず、パルヴィは穏やかに笑う。
「でもね。やっぱり人間じゃ混蟲に勝てないわ」
「そんなこと、やってみなければわからないじゃない」
「煉獄より立ち昇り天を焦がせ、紅の炎!」
パルヴィが突如向きを変え、アウダークスではなくラディムに向かって魔法を放った。瞬間、ラディムを囲うように炎の柱が出現した。
「なっ!? お兄さん!」
まさか自分を無視してラディムの方に追撃をかけるとは思ってもいなかったアウダークスは、堪らず声を上げていた。
瞬時に、ラディムの周囲の温度が上昇していく。
熱い、とかそういう生易しいものではなかった。溶けた鉄の塊が目の前にあるような、強烈な熱気。
はっきり言ってラディムは、すぐにでもこの場から飛び退きたかった。だが、パルヴィの毒に犯されていた彼の体は、既に動ける状態ではなかったのだ。
炎の柱が徐々に彼へと迫って来ていても。
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