第10話 いつか見た夢

混蟲メクス……魔法……支配……。何だ? 何かが――)


 今の話を聞いて、激しい違和感を覚えたラディム。

 必死で考えを巡らせ違和感の正体を見つけようとするが、明確な『何か』は出てこない。ラディムは黄色の頭をガシガシと乱暴に掻き、苛立ちともどかしさを霧散させながら『何か』を手繰り寄せようとする。


「よし。それじゃあ、作戦を考えた方がいいよね」


 そんなラディムの思考を止める声を上げたのは、フライアだった。

 ラディムもエドヴァルドもフライアがそのようなことを言い出すとは思ってもいなかったので、二人は一様に目を丸くした。


「作戦って、フライアは何か考えがあるのか?」

「えっ?」


 口に出したものの振られるとは考えていなかったのか、フライアの肩が大きく跳ね上がった。ただの思いつきから出た言葉だったらしい。


「えっと、えっと。……あ。食事を取る暇がなさそうだから、今のうちに食べておいた方がいいかなあ、なんて」


 フライアが口に出した『作戦』に、たまらずラディムはがっくりと脱力してしまった。


「作戦と言いつついきなり飯って……。お前、わかってんのか? 今から観光に出かけるわけじゃないんだぞ」

「はう。ご、ごめん」


 二人のやり取りを見ていたエドヴァルドが、そこで小さく笑った。無表情が代名詞と言っても過言ではない彼女の表情の変化に、ラディムもフライアも思わずエドヴァルドを凝視する。エドヴァルドは笑みを残したまま、穏やかな声で告げた。


「では、王女様の『作戦』を採用いたしましょう」

「え? お前本気で言ってんのか? だって――」

「ああ、本気だ。王女様の言うことも一理ある。この先、食事ができる時間が取れるとは限らない。腹が減っては何とやら、だしな。それに、地下に来てから走り通しだっただろう。お前も疲れているのではないのか?」


 正面から問われたラディムは、答えにくそうに頬を掻く。

 確かにフライアを抱えたままの移動は、かなり体力を消耗していた。フライアは小柄なので同年代の女性と比べても軽い方だ。それでも、ラディムの体力も無限なわけではない。

 走れば疲れる。ごく当たり前のことだ。


「そういうわけで、オレが食事を作っている間に体を休めておいてくれ。おそらく、お前の力を借りなければならなくなるだろうしな……。具体的な案は食事をしながら決めても遅くはないだろう」


 エドヴァルドはラディムの反応を待たず、奥の調理場へと移動する。ラディムとフライアはその後ろ姿を無言のまま見送った。


「ラディム、大丈夫?」

「何が?」


 氷のうを持つラディムの手の甲に、フライアがそっと手を重ねてきた。突然の彼女の行動に、ラディムはギシリと固まってしまう。


「まだ、痛い?」


 不安げに呟くフライア。その顔はラディムのことを心から案じていて、照れの類は一切見受けられない。卑怯だ、とラディムは口の中だけで呟いた。

 確か、前にも似たようなことがあったような。あれはオデルと三人でいる時だったか。フライアはたまに自分の感情を置き去りにして行動する節があるのだろうと、ラディムは顔の温度を上昇させながら思った。

 フライアの無自覚な行動にラディムだけが翻弄されているのが少し悔しくて、彼は視線を逸らしてややぶっきらぼうに言い放つ。


「かなりマシになった」


 彼の返答にフライアは安堵して微笑する。小さな花が咲いたようだった。顔を逸らしていても、ラディムは複眼で彼女の表情が見えてしまう。彼の心拍数は意図せず上がり続けていた。


(もう、俺の負けでいいや)


 ラディムは前髪をくしゃりと握り、心の中でフライアに降参宣言をするのだった。






『作戦の決行』ということでエドヴァルドが作ったのは、大き目に切られた具がたくさん入った野菜のスープだ。それに小さなパンも付いていた。

 エドヴァルドはフライアに対して「質素で申し訳ない」としきりに謝っていたが、フライアは城以外で食事をすること自体が初めてだったので、運ばれてきた料理を見た途端、目がキラキラと輝いたのだった。

 ラディムもフライアも、あっという間に食事を平らげた。フライアは家庭的な優しい味のスープを絶賛しながら食べていたので、エドヴァルドは落ち着かなかったらしい。誰とも視線を合わせず、ひたすら黙々とスープを口に運んでいた。

 食事が終わり食器を片付けたところで、エドヴァルドは陶器製の白いティーカップを二つ、フライアとラディムそれぞれの前に差し出した。カップの中には、フライアの目を彷彿とさせる薄紅色の液体が揺れている。


「わあ。なんだか甘くて良い匂いがするね」

「これ、何だ? お茶?」


 カップの中を覗きながらラディムが問うと、相変わらずの無の表情のままエドヴァルドは頷く。


「ハラビナの花弁を使用したお茶だ。精神を安定させる効能がある」

「へえ。あの花弁にそんな効果があるとは。やっぱり薬の調合に使われるだけあるってことか」

「でも、お薬みたいな匂いは全然しないよ。すごくおいしそう。いただきます」


 フライアは嬉しそうにお茶を口に運ぶ。ラディムもそれに続いた。口に含むと甘い香りが口内いっぱいに広がり、鼻に抜けていく。味は甘すぎず、かといって苦いわけでもなく――という、絶妙な味だった。


「見た目はケバいけど結構美味いんだな、あの花」


 ラディムが感想を呟いた直後――。

 ごとり。

 彼の横から、突然重い音がした。ラディムの複眼は、頭を机に突っ伏した状態のフライアを捉える。

 何が――――。

 考える間もなく、ラディムの視界すべてがぐにゃりと渦を巻く。そこで彼の意識は途切れた。




   ※ ※ ※




 混蟲メクスには二種類いる。生まれた時から混蟲の者と、ある日突然混蟲になる者。

 ラディムも、そしてフライアも後者だった。




 ある朝、フライアは背中に鈍い痛みを覚え、目を覚ました。


「なんだろう、これ……」


 背中から絶えず伝わってくる痛みは、一向に引く気配はない。窓の外を見ると、群青色の空に僅かに薄い紫が混じり始めていた。夜が明けるまではまだかかりそうだ。夜明けと共に部屋にやって来る侍女たちを待ち続けるには、少し辛い。

 痛さのおかげで、彼女の頭から眠気は既に飛んでいた。フライアは天蓋付きのベッドからのそのそと這い出した。

 レースの付いた寝間着を脱ぎ捨て、まだ未成熟な体を露わにする。侍女たちがいたら「何という格好をなさっているのですか」と即座に服を着せられていただろうが、今は彼女の部屋には誰もいない。

 ランプを持ち、背を向けた状態で鏡の前に立った。首を捻り鏡越しに背中を見るが、何ら変わった様子はない。しかし痛みは続いている。気のせいではない。

 何か、病気になってしまったのだろうか――。

 フライアが不安を抱いた、その時だった。

 彼女の背から青いはねが二枚、急激に飛び出してきたのは。


「え……」


 フライアは鏡に映る自分の姿が、にわかには信じられなかった。

 突如背に表れた、海の底を彷彿とさせるような青。翅全体に血管のように這う筋は、銀の光に輝いている。そして水しぶきのように、青の鱗粉が彼女の周囲にキラキラと舞っていた。

 フライアは鏡に映る自分の背中を入念に見やる。何度見ても、翅と背は密接に繋がっていた。軽く根本を引っ張ってみると痛みも感じる。だが先ほどまで背中に感じていた鈍い痛みは、嘘のように引いていた。

 フライアは呆然としたまま、その場にペタリと座り込む。彼女の脳は、まだ現状を受け入れていなかった。






 フライアは、城の誰からも愛され、育ってきた。

 母親を失った直後こそ沈んでいたものの、幼いなりに周囲に応えようとしたのだろう。彼女は比較的すぐに笑顔を取り戻した。

 そんな幼い姫のいじらしい姿に、城の皆はこぞって慈愛の眼差しを向け、これまで以上に温かく接した。

 フライアには、侍女が三名付いていた。

 妙齢の侍女一人と、年若い侍女が二人。侍女たちはフライアの成長を間近で見られることに、心から喜びを抱いていた。そしてフライアもまた、彼女たちを心から信頼し、頼っていた。

 礼儀作法をはじめ、服の選び方から裁縫道具の扱い方、花の手入れの方法まで。

 王族として身につける必要のない技能や知識も多々あったが、好奇心の強かったフライアは、侍女たちに様々なことを尋ね、吸収していく。そのフライアの楽しそうな様子を見て、侍女たちもまた心を潤わせていた。

 その侍女たちは今、フライアの部屋の入り口で顔を青くしていた。

 早朝、いつものようにフライアの部屋に入った彼女らの目に飛び込んできたのは、半裸の状態で鏡の前に座りこむフライアの姿であった。

 彼女の背には、昨晩までなかったものが付いている。


「フライア……様……」


 一番年下の侍女が、青褪めた顔のまま声を絞り出す。彼女の呼びかけに、フライアはゆっくりと顔を上げた。その顔はまるで蝋人形のようで、表情がない。


「なんてこと……。フライア様が、混蟲メクスに……」


 妙齢の侍女の言葉に、言葉を失っていたもう一人の侍女がピクリと肩を震わせた。

 混蟲。

 王族に混蟲がいたのは、もう随分と昔のことである。幸か不幸か、ここ数百年の間に混蟲の王族は誕生していなかった。それ故に、フライアを見た侍女たちの驚きと動揺は、計り知れないものだったのだ。

 一歩、そしてまた一歩と、フライアを見据えたまま後退していく侍女たち。

 人形のように固まっていたフライアがそこで初めて、助けを求めるかのようにおそるおそる片腕を伸ばした。


「あ……の……。その、これは、明け方に、私……」


 フライアは何とか説明しようとするが、意味のある言葉の羅列にすることができない。侍女たちはフライアの声を聞いた途端、さらに表情が強張った。

 少しずつ、少しずつ開いていく距離。

 侍女たちが一歩下がるごとに、見えない壁がフライアと彼女らの間に形成されているようだった。部屋全体を、硬い空気が覆っていく。

 やがて侍女たちは廊下を駆けだした。化け物から逃げるかの如く。

 フライアは絨毯の上にペタリと座ったまま、動くことができなかった。引き留める声さえ、出すことができなかった。






 フライアが混蟲メクスになった――。

 その情報は瞬く間に城内に駆け巡った。

 しらせを受けた時、ノルベルトはちょうど着替えを済ませたところだった。

 ――娘が混蟲に。

 その言葉の意味が重すぎて、すぐに実感が沸いてこない。

 ノルベルトは当時、他の人間と同様に、混蟲に対してあまり良い感情は抱いていなかったのだ。

 亡くなった彼の妻は、代々受け継いできた『紅の宝石』を本当に大切に扱っていた。ノルベルトはそのことがあまり理解できなかった。

 テムスノー国は確かに、魔道士によって混蟲にされた者たちが築いてきた国である。しかし現在、その混蟲はほとんどいないのだ。今は人間の方が遙かに数が多い。実際に国を動かしているのは、間違いなく人間であるとノルベルトは確信していた。

 混蟲はいずれ、消えゆく存在ではないのか。

 口にはしなかったが、彼はそのような考えを持っていたのである。それなのに、実の娘が混蟲になってしまったのだ。


「なぜだ。なぜ、フライアが――」


 答えはない。

 そうだとわかっていても、彼は口にせずにはいられなかった。






 ノルベルトは朝食を取らず、すぐさまフライアの部屋を訪ねた。

 部屋の前には、大勢の兵士と侍女が集まっていた。噂を聞きつけ、様子を見に来たのだろう。ノルベルトはわずかに目元を歪ませ、その群衆の中に向かって歩いていく。


「各自、持ち場に戻れ」

「…………! 王……!」


 ノルベルトを見た兵士や侍女たちは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。苦い顔で彼らを見送り、ノルベルトは扉をノックした。いつもならすぐにある返事は、今日は返ってこない。


「フライア、入るぞ」


 木製の扉を勢いよく押し開ける。フライアはノルベルトに背を向けた状態のまま、床に座り続けていた。


「お父様……」


 弱々しく呟き、ようやく振り返るフライアの目の端には、水滴が溜まっていた。

 いつも明るく振る舞っていた娘が、母親を亡くした時でさえ気丈に振る舞っていた娘が、今にも泣きだそうとしている――。

 その様子に、ノルベルトは胸を激しく締め付けられた。

 ノルベルトは何も言わず、ただ娘を抱きしめた。彼女のすべてを受け入れるかの如く、その翅ごと。

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