第4話 赤い花

 一体これは、どういうことなのだ。

 混乱するラディムの頬を、少し強い風が撫でた。風に飛ばされてきた水色の粉が目に入りそうになり、思わずラディムは瞼を閉じる。

 そこで彼は気付く。さっきのフライアの時と似た状況であることに。異変の原因はまさか、この粉か。

 ラディムは改めて左右の複眼に神経を集中させ、辺りを見渡す。

 周囲は水色の粉ですっかり覆われ、先ほどまで見えていた花畑は全く見えなくなってしまっていた。

 確証は持てないが、怪しいものは一つずつ潰していくしかない。この粉がどこから撒き散らされた物なのかを調べないと――。

 それにはまず、身動きが取れないこの状況を何とかしなければならない。エドヴァルドの締め付ける力は先ほどよりはいくらか弱くなっていたが、まだ抜け出せる程度にはなっていない。

 こうなれば仕方がない、奥の手、足を使って急所を――。

 背後からラディムに別の腕が伸びたのは、そう考えた時だった。


「ラディム……私じゃ、だめ……なの?」

「――――!」


 フライアが吐息と涙を交えた声で、再びラディムに抱きついてきたのだ。辺り一面を覆う粉でその姿が見えなくなっていたのとエドヴァルドのことで、彼は完全に油断していた。それに複眼を使っても、真後ろは見ることができない。

 ラディムはさらに身動きが取れなくなってしまった。前と後ろから男女に抱きつかれている異様なこの光景を、誰にも見られずにすんでいるのが不幸中の幸いか。

 くだらないことを考えてる場合ではない、とラディムは羞恥の心を意識の外に追いやった。

 仮に第三者が今自分を狙ってきた場合、ひとたまりもない。ラディムは個人的に誰かに狙われる覚えはなかったが、もしかしたらフライア絡みなのかもしれない。考えたくはなかったが、可能性は考えておかないと身を滅ぼすだろう。

 しかし、一体これからどうすれば――と考えたところ、結局はエドヴァルドを振りほどかないとどうにもならない、という結論に至った。


「エドヴァルド」


 試しに呼びかけてみる。締め付ける力が少し弱くなっていたおかげで、声は何とか出せるようになっていた。


「突然どうしたんだ」


 赤く染まったエドヴァルドの不気味な目を真っ直ぐ見据えながら、ラディムは静かに語り掛ける。


「どうして俺を、殺そうとする?」


 ラディムの言葉を聞いた途端、無表情だったエドヴァルドの顔が、少し切なげなものに変わる。

 この表情の変化をどう捉えたらいいのだろうか。ラディムはよくわからなかったが、思うがままを口にすることにした。


「お前が俺のことを殺したいほど気に入らないのはよくわかった。だが、お願いだから今はやめてくれないか。やるなら後でゆっくりやり合おう」

「殺すつもりは、ない」


 それまで無口だったエドヴァルドが、突然口を開いた。だがその答えに、ラディムはますます訳がわからなくなる。


「どういう――」

「……すまない」


 問うより先に謝られてしまった。そしてエドヴァルドは、ラディムからゆっくりと腕を離す。開放された瞬間溜まっていた血が一気に流れたせいか、ラディムは少しふらついた。

 理由はよくわからないが、何とかなった。あとは後ろのフライアを引き剥がせば、身体の自由は確保できるだろう。

 かなり勿体ないけれど。

 名残惜しい気持ちを胸の奥に押しこめ、ラディムは首を後ろに向ける。

 大きな声が横から聞こえたのは、その時だった。


「お、おい。やめろって!」


 いつの間にか水色の粉はなくなり、晴れやかな視界が戻っている。ラディムが声のした方に視線を向けると、エドヴァルドが飛び降りてきた木の下で、一組のカップルがラディムらと似たような状況になっていた。抱きついてくる女から逃れようと、男が奮闘している。


「突然どうしたんだよ姉ちゃん! 何でいきなりこんなことすんだよ!?」

「姉ちゃん!?」


 男が叫んだ内容に、少なからずラディムは動揺した。彼らはてっきり恋人同士だと思っていたのだ。


「くそっ。花を採りに来ただけなのに、どうしてこんな――!」


 続けて放たれた男の言葉に、ラディムは目を見開いた。


「水色の粉、態度の豹変……。まさか……」


 小さく呟いた後ラディムは勢い良く身を捻り、自身に絡んでいたフライアの手を強引に振り解いた。


「ふぇ?」


 突然の彼の行動に驚いたのか、フライアは間の抜けた声を発する。ラディムはそれには構わずに、上半身の服を素早く脱ぎ捨てた。


「勘違いしないで欲しいが、俺は今からいかがわしいことをしようとしているわけではないからな……」


 二人に言い訳をするようにラディムはぼそりと呟き、大きく深呼吸をする。そして身体のある一点に、ありったけの力を込めた。


「うおらぁぁああああ!」


 雄叫びと共にぼごっ、ぼごっとくぐもった音を立て、ラディムの背中から四枚の大きなはねが現れた。蜻蛉とんぼ蟷螂かまきりの翅を足して割ったような、透明な翅だ。

 二人は目の前で起こったラディムの身体の変化に、ただ目を丸くするばかりだった。

 腕の突起と同様に、背中の翅もラディムの意思で出し入れができる。しかし翅を出す時は、多少の痛みを伴ってしまう。だからラディムは、毎回こうして声を出すことで気合いを入れているのだ。

 彼の翅の欠点は、服をわざわざ脱がないといけないところだ。それは他の混蟲も同様ではあるのだが。

 今は暖かい季節とは言え、上半身丸裸な格好はさすがに少し肌寒い。だが今は、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 ラディムは上に向かって跳躍し、空へと溶け込む。先ほどから幾度となく目にした、水色の粉の出所を上から見極めるためだ。

 ラディムが出した仮説。それはあの水色の粉は、主に女性の精神を惑わせる成分が含まれているのではないか――というものだった。何より、フライアの態度が彼にそう思わせる要因となっていた。

 混蟲メクスであるフライアは、背中から生えている翅のせいで非常に目立つ。人間から疎ましく思われている混蟲の彼女は、外に出た時は城の中の時以上におとなしくなるのだ。フライアが自ら、外で抱擁をしてくること自体がそもそも異常なのだ。

 すっかり舞い上がってしまいその考えに即座に辿りつけなかった自分に落ち込みつつ、ラディムは飛翔を続ける。


「とりあえずあの抱擁現場を混蟲に嫌悪感のある人間に見られなかったことが、不幸中の幸いか……」


 ただ、エドヴァルドについては正直よくわからなかった。

 あの時公園内から上がっていた異常を問う声は、全て男性のもの。木の下で揉み合っていた姉弟も、正常でなかったのは姉だけだ。

 だからこそラディムは、水色の粉は主に女性に対してのみ影響があるという仮説を立てたのだが、それだとエドヴァルドの変化に説明がつかない。

 何か他の要因が合わさり、あのような異常な行動に出たのだろうか。ともあれ、彼もまともな精神状態でなかったのは間違いないだろうが。

 ラディムは左右の複眼を駆使して、上空から水色の粉が出現している場所を探す。それはすぐに見つけることができた。


「あれか!」


 ラカスタヤ公園の東、隣接する森の中からあの水色が流れて来ている。遠くから見ると本当に色付きの霧のようだった。

 ラディムは急いでそちらに飛翔する。そして少し飛んだ直後、眼下に広がる光景に絶句した。


「……何だ、これ……」


 しばらく空中で立ち尽くすラディム。彼の足元には、城の本殿と匹敵するのではという位の、ありえないほど巨大な花がそこにあったのだ。

 血のように真っ赤な花弁が、幾重にも重なり合っている。

 花の中央は、この空のように鮮やかな水色をしていた。赤と水色のコントラストが何とも気色悪い。

 周りの木々はこの巨大な花に養分を取られてしまったのだろうか。すっかり枯れ果てており、無残な姿を晒している。

 ラディムはふと、イアラに採取を頼まれた、ハラビナという花の特徴を思い出した。


『赤くて、大きな花』


「はは……ははは……。いや、まさか。そんなわけが……」


 乾いた笑いを洩らすが、その顔はこれ以上ないほどに引きつっていた。

 もし、ハラビナがこの花のことだった場合――。


「でかいってレベルじゃねぇだろ、コレ! どうやって持って帰るんだよ!?」


 ラディムが絶叫していると、そのハラビナ(仮)の中央からばふっと音がして、大量の水色の粉が噴き出した。


「あぁ、まさかとは思っていたが、あの水色の粉はやっぱコレの花粉だったのか……」


 諦観したように呟くラディム。あの花粉に、媚薬と似た成分が含まれているのだろうと彼は予想する。

 いつまでも呆然としているわけにもいかない。気を取り直し、すかさず風向きを確認した。


「風向きは公園の方向か。このままだとまた公園に花粉が降り注いでしまうな。とりあえず森の広がる逆方向にあの花粉を散らすか。森に人が居た場合のことなど今は知らん」


 ラディムは左右の腕を交差させ、意識を集中する。


「大気よ、我が身に宿りて荒れ狂う盾となれ」


 力と祈りを込めた言葉と同時に、ラディムの両腕に巻きつくかのように風が集まり始めた。ラディムはしばらく両腕を広げ、風が集まるのをじっと待ち続けた。


「きた」


 花から撒き散らされたばかりの花粉の前まで移動すると、ラディムは風まとう両腕を一つに合わせた。それぞれの腕に流れる風が一つの大きなうねりになったのを確認した後、渾身の力を込めて両腕を一気に振り下ろす。

 風は凄まじい爆風へと変貌を遂げた。

 激しい音と共に、花粉を一気に森の東へ運び、散らす。

 驚いた森の鳥たちが一斉に空へと避難を始め、静かだった森は急激に騒がしくなった。すまんな、と口の中で彼らに謝り、ラディムは改めて巨大な花を見つめる。

 これでひとまずは何とかなったが、根本的なことは何も解決してはいない。あの巨大な花がある限り、しばらく花粉は出続けるだろう。


「燃やすか……」


 色々と考えるのが面倒臭くなってきたラディムは、それでいいんじゃないかと思った。あの花が花粉を放出するたびに、自身の力を使って散らす気などさらさらない。

 それにもしあの花がハラビナだった場合、これほど大きな物体を持って帰ることなど不可能だ。

 ちなみにどの部分が必要なのかも、イアラからは一切聞いていない。手の平並の大きさで、根から持って帰れるものだとばかり思っていたのだ。

 とにかく今は、厄介な花粉を出し続ける中央の部分をどうにかするのが先決だと考えた。

 ラディムは再び腕を交差させ、魔法の発動体勢を取る。


「花を採りに来たはずなのに、退治する羽目になろうとは……。もうわけがわからん」


 小さく愚痴を吐いた後、ラディムの腕を再度風が纏った。

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