4番目【本文】

 錆を擦る不愉快な音が響く。


 校舎の屋上は物が少なく開放的であると同時に、どこかうら寂しい雰囲気が漂っていた。足元の黒カビや、扉近くに積み重ねられ埃を被った椅子や机といったものが、どこか異質な空間である事を強調しているようにも思えた。


 扉から左に数歩進めばグラウンドが見えるし、右に数歩進めば春日井の市内を一望できるのだろうけれど、扉傍の位置からではフェンスが邪魔になりただ雲と薄青が見えるばかりで、まるで世界から切り離されたように感じられる。

 生徒は全て校舎の中。周囲は静かだった。


 目の前に校舎の長さと同じ、セメント色とカビや埃の色で斑模様になった空間が広がっている。

 タイミングが違えばもしかしたら走り回りたくなっていたかもしれない。

 けれど今はそんな場合じゃない。




 斎藤沙都さいとうさと――彼女の動向を注視する。

 彼女は扉から数歩離れるとグルリと目を彷徨わせ、北の一点に何かを見つけたのかそこに視線を留めた。自然と俺も彼女の視線の行方を追う。屋上フェンスの隙間から森の先端が窺えた為に、大きな霊園がある辺りかな、と目星を付ける事ができた。その上辺り。そこに何かあるのだろうか。しかし俺の目には特別変わったものがあるようには見えなかった。

 

 視線を彼女に戻すと、俺は大いに慌てた。

 彼女はブラウスの胸元のボタンを一つ外し、その隙間に手を突っ込んでいた。

 チラリと肌色が見えて、俺は咄嗟に顔を下に背ける。ごまかすように足元の砂埃をジャリッと擦ってみるけれど、首筋が熱くなりドクドクと脈が波打つのを抑える事は出来なかった。


「やっぱりダメかあ~、ハア……、間に合わなかった」


 ため息混じりに発せられたおっとりとした声を合図に顔を元に戻す。

 彼女は胸元から取り出したのであろう、首から下げたモノ――多分、懐中時計だと思うそれを手に持ち、北の一点と交互に見比べていた。

 顔には失意の色が浮かんでいた。

 赤みの抜けた、ともすれば透けて見えてしまいそうなくらいの蒼白さは、生気のない人形のようなそこはかとない薄気味悪さすら感じられた。


「それじゃあ――」と貼り付けたような笑顔をゆっくりとこちらへと向けた。

「こっちに来てもらえますか~?」

 そう言いつつ彼女は屋上の奥へと歩き出した。


 間延びした柔らかい調子の声とは裏腹に、流れる視線はどこまでも冷たく俺を射抜いた。促されるがまま、まるで針に引っ掛けられた魚のように彼女の後に付いていく。




 屋上の角まで辿り着くと、彼女はフェンスの隅を掴みガシャガシャと揺らした。

 錆びて切れたのかそれとも故意に切られたのか、フェンスは角からめくれ上がるように破れていて、彼女はそれを人が通り抜けられるほどの大きさまで広げた。

 そして当然のように片足をフェンスの外へ踏み出すと、屈んだ体勢で、俺へと手を差し出した。全く悪びれた様子も無く。淡々と。


 何が何だかわからぬまま、彼女の寄行を見守っていた俺は、差し出された手を見て当然狼狽えた。

 何だ。何だ。まるで一緒に飛び降りましょうとでも誘っているような――。

 ふいに、彼女と一緒に屋上から飛び降りている俺のイメージが沸いた。とてもリアルに感じられるイメージが。


「さあ、早く~」

「ちょっと待て……待って……下さい!」


 流されるがままの精神に抵抗して声を張り上げる。使い慣れない喉がガラガラとなり、緊張と気恥ずかしさで敬語になってしまった。


「何が」上手く言葉が見つからないけれど、とにかく彼女を止めるために発言しなければいけない気がした。「なんですか……、どういう事?」


「どういう事って~?」と彼女は面倒くさそうな顔を作り「まあ……」と考える素振りをした。「今から死ぬんですよ~」

「なんで……」


 死という言葉が聞こえた瞬間、思わず後ずさった。

 俺の態度を見てすんなりいかないと悟ったのか、彼女は深くため息を付きながらフェンスの外にはみ出させていた足を戻した。

 そして姿勢を正してから体をフェンスにもたれかけた。


「なんでと言われても~……、説明しても仕方がないんですよね~。どうせのあなたはその説明を忘れているでしょうし~」


 黒髪の先を指で弄ぶようにクルクルとさせながら、やる気のない調子で彼女は言った。とはどういう事だろうか。忘れるとはどういう事だろうか。

 納得がいかないまま二の句を告げないでいると、彼女が「それに」と話を続ける。


「あなたにカオス理論が理解できるのかしら。ラプラスの魔物を信じる事ができるのかしら。トロリーの問いに答える事ができるのかしら」




 まるで人が変わったように、難解な言葉を並べた彼女は表情がストンと抜け落ちていた。口調も変化して、目は鋭く、蔑みと哀れみの混ざった視線で俺を刺した。

 その迫力に気圧され、腰から背中、後頭部へとヒヤリとした何かが這い上がってきた。


「きっとあなたは理解できないでしょうね。そもそも理解しようともしない。

 独善的で世界に目を背け、ただ流れに揺蕩っているだけのあなたに、何故、わたしの目的を説明しなければいけないのかしら」


 冷たい悪意。そういった感情を直接受ける事無くこれまでを生きてきた俺は戸惑うばかりで、ただ呆然と彼女の言葉を聞いていた。

 何か言い返すべきなのだろうか。何を言えば良いのだろうか。どうすれば俺は死なずに済むのだろうか。

 目の前に突然現れた彼女となぜか屋上から一緒に飛び降りるという全く理解できない話を、俺はそれを回避する事ができない絶対事項であると理解しかけていた。

 唾を飲み込むとゴクリと大きな音が鳴る。舌がもつれる。何か言わなきゃ、何か言わなきゃ……。


「でも――」

「ああ、この際だから、一つ二つ、あなたに言いたい事があったの」

 彼女が俺の言葉を遮ってさらに言葉を重ねた。


「人にぶつかって相手が気を失った時、さらにそれを助けようともせずに逃げ出した時、見捨てた相手がまた目の前に現れたらまず謝るのが普通じゃないのかしら。あなた、一つも謝る素振りを見せないけれど」


 目の前が真っ暗になった気がした。


「もしかして、見捨てた相手なのにも関わらず、授業中に異性から屋上に呼び出された事で浮かれた気分にでもなったのかしら。わたしの姿を品定めして、これからどうにかなるのだと期待しちゃったのかしら。もしそうだとしたら、そんな人間は救いようがないのだけれど」


 罪悪感に押し潰され、膝の力が抜けてへたり込みそうになる。


「ごめ――」

「わたしに謝るのじゃなく、に謝ってくれればいいのよ。

 まあ、はわたしと同じ性格をしている訳じゃないだろうから、許すかどうかはさておき……、さて!」


 まるで氷の女王の息吹みたいに言葉を吐き出した彼女は一転、また元のおっとりとした口調や表情にガラリと戻って、もたれていたフェンスから身を離した。

「これだけ言えば次にも影響するかな~。たとえ忘れちゃったとしても無意識下で刷り込まれた筈~」


「あ……あの……」

 体の中心にある芯みたいなものを粉々に砕かれた俺は、体をグラグラとさせながらも、なんとか彼女にすがりつくような気持ちで声を出した。

 彼女は俺の目の奥を覗き込むようにして「うんうん、効いてる効いてる~」と何かを確認した後、顔を上に向けた。

 つられるように俺も空を仰ぐ。そこでやっと、ついさっきまで薄青だった空が燃えているような赤色に染まっている事に気が付いた。時間はまだ午前で、陽も昇りきっていない筈なのに……。


「さあ、時間もあまりないから、簡単に説明しちゃうわねえ~」


 そう言って彼女は手を後ろに組み、俺の周囲をコツコツと回り歩き始めた。




「世界は行動と結果の連続で成り立っている。そう言ってわかるかしら~?

 一匹の蝶の羽ばたきが嵐を生むなんて程大袈裟に言うつもりはないけれど、例えば道を左に曲がった結果、小石に躓いたり、右に曲がった結果、誰かとぶつかったり。そういった人や物の膨大な行動と結果が、大小さまざまな影響を世界にもたらしているの。

 そうね~、ドミノ倒しを想像してみて。一つ倒れると次に当たり、それが倒れてまた次に当たる。カタカタカタカタッとね~。そんな感じで世界も、絶えることのない連続した結果に影響され続けているの。


 それでね。もしドミノの駒の一つが間違った角度で置かれていたとしたら……、その間違った角度の駒のせいでせっかく並べた全てが台無しになっちゃうとしたら、どうするかしら~?


 慎重に角度を修正したり、被害が広がらないようにストッパーを置いたりして、上手く駒が倒れるように気をつけるわよね~。


 それと同じように、わたしたち【ポインター】は――ああ、呼び方は色々あるのだけれどね。【ビーコン】とか【導き手】とか……【白ウサギ】なんてのもあるけど、あまり気にしなくていいわ――世界が間違った方向に倒れていかないように管理している訳。ここまでは良~い?」


 彼女が確認するように顔を覗いてきたので、俺は内容を飲み込むのに苦労しながらもとりあえず頷いた。


「で、今日の朝の話なんだけれど~、わたしは重大な間違いにつながる大切な分岐点、結果の良し悪しによって世界の命運を分けるような、そんな大事な場所を修正する為に、と~っても急いでいたの。そこで、あなたとぶつかった」


 ゆっくりと俺の周りを歩いていた彼女が正面で立ち止まり、そこで息を切ってまっすぐに俺の目を見た。

 いたたまれなくなって顔を伏せそうになったけれど、それを彼女が止めた。


「空を見て。これが、修正が間に合わなかった結果……。すぐにわたしを助け起こしてくれれば間に合ったのに、あなたが見捨てた為にもたらされた……最悪な結果よ」


 言われるがまま空を見上げる。赤い空に黒い小さな点がいくつも浮いていた。その点が徐々に大きくなり、人の形へと変わっていく。

 俺は、点の正体がなにかわかった瞬間、のだと理解した瞬間。「あ、あ、あ、あ……」と声にならない音を口から漏らした。


「世界の裏返り――【ワールドトポロジー】」


 彼女の声と、グチャッと人間の潰れる音が同時に聞こえた。




 次々と雨粒のように、いや、滝のように落ちてくる人間。その中には先程まで教室にいた筈のクラスメイトや教師の姿もあった。次々とグラウンドや建物の上、市内のあちこちに落ちていき、そして、赤く弾けた。何で。何で――。

 ――んだろう。


「これは前兆よ。世界に対する人間の存在座標がたの。この辺の人は皆、上にたようだけれど、中には地中に埋まったり壁にめり込んだりした人もいるでしょうね~」


 空を仰いだまま呆然としていると、ゆっくりと近づいてきた彼女が突如背後に回り込み、俺の脇に腕を伸ばすのと、首に腕を絡めるのとで、体を抑え込むように密着して動きを固めてきた。そのままフェンスの方へと引きづられる。

 彼女は、俺を引きづりながら耳元で低く唸るように言った。


「この雨が降り止んだ時、本格的に世界は崩壊するわ。

 そうなってからじゃ遅いのよ。

 その前にわたしたちは一度死んで、ポインターにとっての大きな分岐点、つまりこの場合あなたとぶつかった直後という事になるのだけれど、そこからやりなおさなければいけない訳。

 ……さあ、飲み込めたかしら。あなたとわたしがここから飛び降りる理由」


 正直、事情はまだうまく整理できていなかったのだけれど、この凄惨な光景を目の当たりにした今、俺にはもう、彼女に抵抗する気力がなかった、抵抗する意味があるようにも思えなかった。首に強く巻かれた腕の圧迫によって視界が白んでいく中、ぼんやりと彼女の声が頭に響いた。


「ああ、そういえばあなたの名前って何だったっけ~?」

「……き――」

に、教えてあげてね~」


 それを最後に、視界が暗転した。

 多分その後、俺は屋上から落ちて死ん――。


 ◇


「いててて………って。え?」


学校までの道、急いでいた為に曲がり角を勢い良く曲がった瞬間、俺は誰かとぶつかった。

 その拍子に相手もろとも倒れこんでしまった。


「大丈――!」

 慌てて声を掛けようとして、戸惑う。

 強烈な既視感。

 俺は傍で倒れた彼女の事を知っている……。知っている、


「おい……、おい!」

 使い慣れていない喉をガラガラと鳴らしながら、それでも大声で呼び掛けた。

 体を揺さぶりたいところではあったけれど、それは躊躇する。なんとなく触ってはいけないような……、こんな時でも、気恥ずかしさが上回った。

 とにかく声を上げて、彼女が気付くのを願った。


「おい……、おい……、ごめん……、ごめんなさい……」

 呼びかける内に、俺は彼女にどうしても謝らなければいけないような気がしていた。学校に遅刻しようが、それで少し目立ってしまおうが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、何が何でも、彼女には起きてもらわなければいけない――。


 俺は何度も何度も、呼び掛け、そして、謝った。

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