第8話

正面玄関からチャイムが聞こえた。

父が出ると、サラリーマンはおはようございますと言う。

そこでおはようございますと返すと、

そのサラリーマンはいかにもおかしいという風に腹を抱えて笑い、

いえ、私の世界では、おはようございます、と言われると、こんばんは、と返すのです。そうでないと言葉が前後で被ってしまって新鮮味に欠けるから

と言った

なるほどそうだと父は納得し

ようやく、こんばんはと言った。

サラリーマンはそれをいたく気に入ったらしく、数度、良い、良い、と頷いて、跪いた。

ちょっと何をするのです、早く立たないとアリの憲兵を呼びますよ

父が慌てて言うと、

もうあの憲兵どもは捕まえて牢に入れてあります、と返される

父は顔の色を悪くしてへたり込んだ。

するとサラリーマンは不気味に笑いつつおもむろに立ち上がり、

今からあなたを競りに出します。競売ですね、と説明した。

それは僕に向けて言っていたようなのだが、僕はブルブルガクガク震えていて何も言えない。

オットさん残念ですね、息子さんはなんの反対もしませんよ

サラリーマンは口をへの字に曲げて喋ると、父を連れて出て行った。

僕はワンワン泣いていた。

すると、どこから来たのか、一匹のシオカラトンボが

ほらほら背中にお乗りなさい、父さまの所へ行ってあげますよ。ああ、泣かないでください。私はもうこんなに体が青いのに、もっと透き通ってしまうじゃないですか。まあもうおやめなさい。

不思議なことに、僕はその言葉を聞いた途端安心してしまって、すっかり脱力、ぐったりと背中に乗ってしまった。

良いですか、では飛びますよ。背中に捕まっててください

シオカラトンボはちょっと不安げに忠告して、ふわりと浮き上がった。

ふらつきつつも、ようやく体制が安定する。

これなら大丈夫だ、とシオカラトンボは独り言を言いながら、あの黒い服に覆われたサラリーマンを追いかけた。

やや、なんだか追っ手が来たようだぞ

サラリーマンは真っ赤な汗をぼとぼと落としながらそう行って、縄でがんじがらめになった父を横に蹴たおし、小さな銀ぴかりする拳銃を向けた。

「おい、そこから少しでも動いたらこいつの、父さんの、男の命はないぞ。覚悟しろ」

すると、シオカラトンボは残念そうに羽をしぼませて、

すみません、私はここまでのようです。今度は坊ちゃん一人でなんとかしなさい、と言う。

僕は分かったと返して、シオカラトンボの背中を蹴って飛んだ。

なっ

サラリーマンが叫んだのと同時に、僕はそこへ体当たりして、父を助け出した

なにくそ、

とサラリーマンが拳銃片手に体を起こした時、

ようやく縄と牢屋から抜け出したアリの憲兵達が押し寄せて来てぐるりと取り囲み、棟梁と思われしき一匹はそれを取り上げた

ああ、ああ

サラリーマンは力なく呻く。

瞬く間の出来事だった。

アリ達は相当怒っているらしく、今度は逆にそのサラリーマンをどこかへ連れて行ってしまった

そのあと、父からありがとうと言われた。

どういたしましてと言いながら空を見ると、

もうシオカラトンボはいなかった

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