はいいろ

@bent_chocolate

はいいろ

 いまどき駅員に直接定期を見せなきゃいけないようなタイプの改札、しかもその駅員すらトイレかなんかでたまにいなくなる改札をぬけ、使い古された木のベンチが置かれた待合室をとおり、駅に隣接する駐輪場に向かうと、自転車と自転車のあいだ、黒いアスファルトのうえに一匹の白い猫がたたずんでいるのが見えた。わたしは思わず足をとめ、両耳のイヤホンもなぜかはずしていた。夕方、日が落ちはじめてあたりがだんだんと暗くなってきていたなかで、その猫の白色は、まわりの暗さに埋もれず、やけにはっきりと、そしてあざやかに、すこし離れたわたしの目にはいってきた。日頃となんら変わらない、部活を引退してから数ヶ月つづいてきたいつもどおりの帰り道のことだった。帰ってからもいろいろとやらなくちゃいけないし、勉強もしなくちゃいけない。おなかもすいていたし、とにかく早く帰ろうとしていた。だけどもなんとなく、意味もなく、わたしは自然とその猫に近づいていた。

 近寄っていくと、白猫は体勢をひくくして座りはじめた。こういういう座り方を、こうばを組むっていうんだっけ。けっこう小柄な猫だった。わたしは立ったままその子を見おろしていた。猫はすうっとこちらに顔を向け、目を合わせてきてくれた。しかしそれもほんのわずか一瞬で、視線をもどすとそれきり、じっと正面を見すえて、つまりはわたしの足首あたりを見つめはじめて、からだをあまりうごかさなくなった。逃げないんだ。人に慣れてるのかな。野良らしいごわごわとした感じの白色の毛なみは、ところどころ泥や固まった砂のようなものがついている。にくが少なそうなやせた体。目やにで汚れた顔。よく見れば見るほど、きたない猫だと思ってしまった。さわりたくはない。逃げないことには逃げないけども、この子は目の前に立つわたしを気にするようなそぶりをまったく見せない。正面をじっと見つめづづける猫の瞳は黄色くにごっているような気がした。そこには何もうつっていないような、わたしすらうつってないような、そんな感じがして、なんだかちょっとこわかった。

 夕方の空気にあまい香りがとけこんでいる。キンモクセイの時期だった。すこし離れた駅のホームから、つぎの電車を待つ小学生たちのじゃれあう声がぼんやりと聞こえてくる。路線が一本しか走っていない田舎町にある駅は、まわりにコンビニも何もなくて、ほんとうにさびしい。

 猫はうごかない。ぐううとわたしのおなかがなった。いつまでこの子と向かい合っているんだろう。ゆっくりと、ちいさな息をはきだして、自分の自転車のほうへ歩きだそうとしたとき、ずっと座っていた猫が立ちあがった。そしてわたしは見てしまった。気づいてしまった。猫の首もとには大きな赤い切り傷があった。


 

 ソファに脱いだ制服のかたまりのなかからスマホの着信音が聞こえた。電子レンジで冷凍のピザをあたためようとしていたわたしは、いちどその手をとめ、プリーツスカートに埋もれるスマホをつかんだ。かけてきたのはやはり母だった。「もしもし、お母さんだけど、茉友子もう家?」「うん、もう帰ってるよ」テーブルのうえに、父と母が今朝飲み残したコーヒーが置いてあるのが目にはいった。「悪いんだけど、洗濯物とりこんでおいてくれる?」「もうやったよ」たたんでタンスにしまうところまで終わったくらいだ。時計を見ると五時半を過ぎていた。そろそろ玄関の灯りをつけて雨戸を閉めなきゃいけない時間だと思った。「そう、ありがと。庭に干してあるお風呂マットもとりこんでくれた?」「うん」庭のマットはまだとりこんでいない。同じような会話を昨日もした気がしててきとうに返事をしていた。「それからさ、茉友子。ほんとに申し訳ないんだけど、今日もまたお願いできる?」「はいはい、ルークの散歩ね。わかってるよ、言われなくてもそのつもりでいたし」毎日ほぼ同じ内容ならいちいち電話かけてこなくてもいいよ、と言いたかった。母は何のためにガラケーからスマホに替えたのだろうか。ラインで送ってきてくれればそれで済むのに。はやく電話を切りたかったわたしは、今日も遅くなるという母の言いわけのようなものを「うん、わかった」「大丈夫」と聞きながしていた。



 ルークが草のにおいをかいでいる。何がそんなに楽しいんだろうと思いながら、シャベルを持たないほうの手でスマホをいじっていると、家族のグループラインに、父から「夕飯買って帰るけど何がいい?」というすっかりおなじみのメッセージが送られてきた。さっきピザを食べたばかりで何が食べたいかなんて思いつかなかったけど、なんでもいいよと言うのも父につめたくするように思えたので、「ポテトサラダが食べたい」とてきとうに返信しておいた。母と姉からは返信はこない。既読は「1」のままだ。母は祖母のところだろうし、姉はまだ勤務中だろう。

 我が家は最近忙しい。あと半年もしないうちに、人生を左右すると言ってもいいであろう大学受験をむかえるわたしがルークの散歩を毎日するくらい、ちょっと忙しい。みんな忙しい。

 ことしの四月から社会人として病院の医療事務で働きはじめた姉は、毎晩死んだような目で帰ってくるし、朝も死んだような目で家を出ていく。休日はたいていずっと寝ているし、起きていたら起きていたでなんかずっと機嫌がわるい。母ともよくケンカするようになったし、イライラしている姉はわたしたちにつねに攻撃的だ。近ごろと言えば、専門学校時代から付き合っていた彼氏にフラれて、さらに機嫌の悪さに磨きがかかっている。受験生のわたしにいろいろとやつあたるのはやめてほしい、ほんとうに。「茉友子はまだ高校生なんだからあたしのつらさがわかるわけないじゃん。働くってほんとたいへんなんだからね。アーほんとうらやまシー。あたしも高校生にもどりたァー」を三日に一回くらい口にする。高校生のわたしは、そんな姉のいつもの口ぐせに「そうだね、大変そうだね」としか返しようがない。

 公立中学の国語教師の父はとつぜん、教頭になる、ゆくゆくは校長にもなりたいとかなんだか言いだして、年齢に似合わず、このごろ管理職になるためのベンキョーとやらをはじめた。今までの仕事もこなしながら、毎晩のように書斎で机にむかう父の姿は、なんだか受験生のわたしより「受験生」ってかんじだ。母が晩ごはんをたまにしか作らなくなってからは、仕事帰りにスーパーで何か買ってくる係にもなっている。わたしと二人で夕飯を食べるときに「この機会に茉友子が料理するようになってくれたらいいのに」とよくぼやく。「だからぁ大学生になって時間ができたらね」とわたしが怒りぎみに言うと、「冗談だよ」と訂正する。

 そしていちばん忙しそうなのは母だ。ことしの夏に祖母が階段で転んで骨折をした事件からずっとあわただしくしている。非常勤で勤めている幼稚園の出勤時間をズラしてもらってまで、ほぼ毎日のように祖母のところへ行っている。夜九時すぎごろに帰ってきて、わたしが炊いておいたごはんと父が買ってきたお惣菜を食べながら、「茉友子が思ってる以上に、おばあちゃんのめんどうをみるのは疲れるのよぉ?」と嘆くのが日課だ。母が帰ってくるころに書斎へ行ってしまう父の代わりに、母のこぼすさまざまな愚痴を聞くのはわたしの役目だった。家事や犬の散歩を頼みこむときは申し訳なさそうな声をだすのに母は疲れて帰ってくると、リビングで受験勉強をするわたしに遠慮がなかった。

 間が悪かったんだと思う。きっとタイミングが悪かったんだと思う。お姉ちゃんは社会人一年目で、お父さんはがんばらなきゃいけないときで、お母さんもたいへんで。わたしは受験生で。ほんとうに仕方ないことだし、誰のせいでもないし、誰も悪くない、悪いのはタイミングだけ。だからしっかりしなきゃダメなんだと思った。わたしはいま、しっかりすべきときなんだと思った。

 いつまでもそんな結論を頭のなかでくりかえしながら、ルークの散歩を終えた。ひさしく掃除されていない庭に置かれた小屋にルークをつないだ。庭には、わたしが小学生のころわがままを言って親に植えてもらったキンモクセイがあった。ルークのごはんを取りに家のなかにはいろうとしたとき、玄関の灯りをつけ忘れていたと気づいた。玄関灯のついていないひっそりとした我が家は誰も住んでいないような気がした。



 その夜、駐輪場で出会ったしろいろの猫の夢をみた。

 彼は依然として正面をじいっと見つめつづけているだけだった。誰かを待っているのかもしれない。わたしは昼間とおなじように近づいて猫と向き合った。彼の瞳は透きとおっていて、夜ぞらの星みたいにかがやいてみえた。姿勢をひくくしてさらに近づくと、わたしは彼のからだについていた砂や泥をはらってきれいにしてあげた。しかしやはり首にある大きな傷はどうしてあげることもできない。頭をなでてやると彼はわたしを見つめてきた。うつくしい瞳だった。

 夢のなか、さいごにわたしは、赤いキズを負ったしろいろの猫にこんなことを言った。


「わたしは、かなしくはないから」

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