第2R『正義の拳』-3

あこたんの彼氏は、セコンドの人の肩を借りて、かろうじて歩きながらリングを降りていく。リング中央では、相手選手がレフリーに拳を掲げられ、勝利者としてアナウンスされている。ライトに照らされ、拳が輝いて見える。勝者と敗者。そのはっきりとした違いが痛々しかった。

勝者は歓喜の声に包まれながら、花道を歩いていく。僕の周りに座っていた人たちも勝者を追い花道を追いかけていった。どこかで一緒に勝利を祝っているのだろう。一方敗者の姿はいつの間にか会場から消えていた。どこでどんな思いを噛み締めているのだろうか。

次の試合のアナウンスが流れはじめ、僕の周りに次の試合の応援の人たちで埋め尽くされた。

僕は動くことができないでいた。放心状態とはこのことを言うのだろう。気がついたら次の試合がはじまっていて、会場が再び熱気に包まれていく。

僕はなんとなく目の前にあるリングを見つめていた。戦っている二人の選手の姿は見えるが、内容は頭に入ってこない。

その時、戦う二人の選手の奥、会場の端にある廊下に見覚えのある人の姿が見えた。

あこたんだ!反射的に席を飛び出し、あこたんのいる廊下側に向かった。中央にあるリングの先。会場中が注目しているリングを横切るわけにはいかないので、裏の廊下からぐるっと会場を回りこんだ。

「あっ!」

あこたんの姿を見つけ、思わず声が出た。何を話せばいいのだろうか。続く言葉が見つからない。

「あっ。えっと。コジローさんでしたよね?来てくれたんだ…」

「は、はい…。あ、あの、えと、残念でした…ね」

「うん。結果は残念だったけど、意識はしっかりしてたし、体は大丈夫そう…だからよかった」

最後は自分にいい聞かせるようだった。そっか。あれだけ人間の本気をパンチ受けたんだ。何か起きることだってありえる。

「せっかく応援に来てくれたのに、あんな結果でごめんなさい」

「あ、いえ、そんな、あの、いい試合だったと思います…」

「ありがとう。力は出し切ったと思う。だから後悔は…あっ!」

ん?あこたんの目線が僕ではなく、僕を通り越して後ろを見ている。そっと後ろを振り返る。

「う、うわっ!」

で、でたー!思わず声もでたー。あ、あこたんの彼氏だ。さっきまでリングの上で戦っていた人が目の前にいる。なんて声をかけていいかわからない。勇気を振り絞って何かを言わなきゃ。こっちは必死。でもあこたんの彼氏は、僕のことなんて見ていない。

「亜紀子。帰るぞ」

「体は大丈夫なの?」

「ああ。ダメージはほとんどない。タイミングを合わせされただけだ」

「でも…」

「オレが大丈夫だって言ってんだ。自分の体だ。自分が一番よく分かる」

「うん…」

あこたんの彼氏の視線が僕に移った。

「ん?誰だこいつ?」

「えっ。あっ。えっと」

「もしかして、こいつか?亜紀子をストーカーしてるやつってのは」

「ストーカー!?」

なんだって!あこたんにはストーカーもいるの?なんてこった!そりゃゆるせん!

ん?あれ?こいつか…?って言ったよね。えっ?僕?ち、違うよ。一度だけ後をつけたことはあるけど。ジムにも何回も見に行ったけど。あれはジムに入会しようと…。やばい。もしかして僕がやっていることは、ストーカーってことになるのかもしれない…。

「違うよ。この人は、ジムが一緒なだけ」

よかった。あこたん本人から聞けてほっとした。一瞬、僕がストーカーなのかと自分でも疑っちゃったよ。

「ジムか…それも気にいらないんだよな。なんでボクシングジムに通いはじめたんだよ。しかもわざわざオレが行っているジムとは違うジムに」

あこたんの彼氏は自分のせいだと気がついてないんだ。言わなきゃ。言って分からせなきゃ。

「それは…あなたが…D…」

「なんだ?」

覚悟を決めた。

「あなたがDVしてるからだろっ!」

あれ?きょとんとしている。届いてない?響いてない?

「ははははははははっ!」

大爆笑してる…。こっちは本気で怒っているのに。

「オレが悪役ってことか、ストーカーさんよ」

「だから僕はストーカーじゃないってば」

「オレだってDVなんかしてねぇよ」

「でも、ジムの人が言ってたし」

「そんなこと言ってるやつがいるのか。ふざけやがって」

「おい。ストーカー」

「僕はストーカーじゃない!」

「じゃあ。オレと勝負しろ。勝負に勝ったらストーカーじゃないって信用してやるよ。そしてオレもDVやめてやる」

「しょ、勝負?」

「ちょっと、何言ってるのよ!」

「亜紀子は黙ってろ」

「な、何で、勝負するんですか?」

「ボクシングに決まってるだろ」

えっ?ボクシング?プロボクサーと勝負して勝てるわけないよ。

「でも、この子、まだボクシングはじめたばかりだよ」

そう。実際には、まだはじめてもない。それと…「子」って言葉が引っかかった。子供扱い?完全に見下されている。なぜだろう?やっぱりオタクだから?それ以外は普通の人となんら変わらないはず。オタクってそんなにダメなことなの?

「そうなのか。なら、オレに一発でもクリーンヒットを当てたら勝ちってことにしてやろうじゃないか。どうだ?」

一発?たった一発当てればいいの?いくらプロだからってそれは舐めすぎじゃないの?

「一発!??な、舐めるな!」

あっ。怒りのあまり、声が出ちゃった。ど、どうしよう。

「いいね。やる気ってことだな。じゃあ、一ヵ月後。六月二十八日の日曜日。十三時以降に協拳ジムに来な。夕方ぐらいまで待っててやるよ。それまでに来なかったらお前の負けだ」

あわわ。やる方向になってる。時間も場所も決まってしまった。でも行かなければいいんだ。でも行かないと負けってことに。逃げたことになる。たった一発ならなんとかなるかも。

そもそも嫌なことに巻き込まれないように生きているつもりなのに、なんでこんな目に合うんだろう。

一ヵ月後か。一発ならなんとかなるかも。何かが沸々とこみ上げてきた。バトル系の映画やアニメを見た後にたまに感じる。でもそれよりも熱くて大きい。大きさに戸惑い背を向けてしまいそう。待て!逃げるな!やるんだ。やってやる。あこたんのために。やってやる。やってやる。そう自分に言い聞かせると、ロールプレイングゲームの勇者になったようだった。これはゲームじゃない。現実だ。僕が勇者になる機会なんてそうそうあるもんじゃない。不安と怖さでいっぱいだけど、その気持ちとは裏腹に興奮もしていた。

「わ、わかったよ!」

怖くてあこたんの彼氏の顔は見れない。どんな表情をしているのかわからないけど、余裕の笑みを浮かべているような気がした。

「本気なの?」

あこたんの声が聞こえた時には、出口に向かって走りはじめていた。やるんだ。やるんだ。自分に言い聞かせながら走る。エレベーターを待つのがじれったくて、階段を駆け降りる。

後楽園ホールの階段は独特な雰囲気だった。壁一面に何か文字が書かれている。たくさん。たくさん。落書きのようだけど、ただの落書きではない気もした。夢中で駆け下りてたから詳しくは見てないけど、何かが伝わってくる。夢?願望?希望?絶望?書きなぐられた落書きは今にも叫びだしそうだった。


 「ハァハァ…なわとび三本終わりました」

「はーい。おつかれさま。じゃあ、次は鏡の前でファイティングポーズをとって、その場でフットワークを三本ね」

あこたんの彼氏の試合の翌日、湧き上がる不思議な気持ちのおかげで逃げずにジムに向い、入会する事できた。トレーナーの平田さんが僕を見るなり大歓迎してくれた。手の怪我の件を気にしてくれてて、入会金無料ってことにしてくれた。入会金は一万五千円。いやぁ、フリーターの身には助かるでござる。まさに怪我の功名。

カーン。ジムにゴングの音が鳴り響く。本物のゴングの音ではない。デジタルのゴングの音。ジムにはタイマー式の時計があって、三分でゴングが鳴り、次に一分でゴングが鳴る。三分間動いて、一分間休憩。ボクシングのリズムを体に教え込むためらしい。

たった三分だと思ってたけど、やってみるととんでもなく長くつらい。今もただ鏡の前でファイティングポーズをとってるだけなのに、腕がどんどん重くなり、二の腕が震えてくる。まだ二分以上あるというのに。

「佐々木君、腕が下がってきてるよ。左の拳はこめかみにつけて、右の拳は頬につける。ガードを高く保つ練習だからね。実際動きを入れると、ただでさえ落ちてくるから、高く保つ癖をつけよう。あと、脇を閉めて」

平田さんが僕の両脇を閉め、肘を近づける。そこにボディブローを打つまねをする。

「ほら、こうするとボディを打たれにくくなるだろう」

「は、はい」

返事するだけで精一杯。腕はプルプルしてるし、流れるのがわかるくらい額から汗が出ている。

「あ、あの、試合というか、スパーリングができるようになるには、どれくらいかかりますか?」

「ん?期間ってこと?週五ぐらい真面目に練習する人でも、半年はかかるかなぁ。一年以上かかることもあるし。筋がいい人だと三ヶ月って場合もあるかな」

筋がいい人で三ヶ月…。ボクシングをはじめて約一週間だけど、未だにファイティングポーズだけで四苦八苦してる。あと三週間でプロと勝負なんてできるんだろうか。

「試合したいの?いい心がけだと思うよ。最近はダイエット目的とかが多くて、スパーリングすらしたがらない人が多いからね。高い目標を持っている人の方がやっぱり強くなるよ」

「したいわけじゃないんですけど…やれるようにはなりたいというか、ならないといけないというか…」

「うーん。よくわからないけど、練習を続けてたら間違いなく強くなれるから。続けることが一番の近道だよ。さぁ、いまできることやろう。ほら、腕上げて、脇閉める」

正論だ。たった一ヶ月でプロと勝負しようなんて無謀だったんだ。でも、たった一発当てるだけならなんとかなるんじゃないかな。たった一発だもん。

カーン。ゴングがなった。やっと休憩だ。あと二本。ファイティングポーズの練習が終わったら、リングの上でフットワークの練習して、見よう見まねでシャドーボクシングして、サンドバッグ叩いて、筋トレして、ストレッチして、約一時間半の練習が終わる。少しずつ、少しずつ確実にこなしていこう。


 あっという間に一ヶ月が過ぎていた。ジムが日曜日と月曜日が休みだから、全部行っても週五回。週一日ぐらい残業で行けなかったから、週四回ぐらいは練習した。結局、スパーリングまでは辿り着かなかった。さらにパンチを当てない寸止めの実践練習のマスボクシングもできてない。実践的な練習は何一つできてなく、なんとかジャブと右ストレートのワンツーパンチが形になってきたぐらい。フットワークもぎこちなく、速い動きなんて無理。でもやるしかない、今もっている武器と一ヶ月でも本気でやったという気持ちと誇りを持って。

…かっこつけてみたけど、ほんとは不安しかない。練習をすればするほど、どれだけの差があるか分かってきた。ただただ逃げたい。でも、でも、ジムに入会してやってみたら、ワンツーを覚えられたんだ。最近はサンドバッグもちゃんと叩けるようになった。気持ちいい音も出せるようになってきた。ちょっとだけ試してみたい。どれくらい差があるのか、やってみよう。やってみるんだ。

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