第2話 冬空遊泳
「あらやんからだ!」
鳴り出した携帯電話に合わせて、私はおなじみのメロディーの続きを口ずさんだ。『栄冠は君に輝く』は、彼専用の着信音。そして新屋の携帯にも、私専用で同じ曲が登録されているはずだ。
待ち受け画面を見れば、いつの間にか日付は変わり、待ちに待った十四日になっていた。うきうきして携帯を手に取ったものの、そういえばこの頃は新屋ともメールや電話ばかりだなと、私はちょっとだけ眉を寄せつつ文字を目で追う。
件名には、『約束覚えてる?』とあった。
「忘れるわけないじゃない」
呟いて、メールの続きを読む。
『勉強会、予定通り実行でいい? バレンタインデーのほうもお忘れなく。張り切って伺います!』
彼らしいストレートな内容に、思わず顔がほころんだ。
新屋は野球推薦という形で一足先に大学への道を歩み始めていたが、優等生の彼はここのところ、私専属の家庭教師としてちょくちょく勉強を教えてくれていた。一方の私は志望校を目指し、勉強漬けの日々を送っているところだ。もう、入試まで残すところ十日あまり。うまくいけば、私は彼と同じ街で暮らすことができる。もとより、そのつもりで学校を選んだのだろうと訊かれれば否定はしないが――。
0時を回った時計に改めて目をやり、今日はもう終わりにしようと私は参考書を閉じた。机の上をざっと片付けると、メールの返信に取りかかる。
『いろいろ教えて欲しいとこあるからよろしく。息抜きにブラウニー作ったから、食べに来てよ』
他にもたくさん伝えたいことがあるような気がしたが、結局、その簡潔な文だけを送信して、私はベッドにごろりと横になった。まだ耳のどこかにあの旋律が残っているような気がするのは、新屋のことを考えているからか、それとも少々疲れ気味だからなのか。
会う回数を減らしているのは、私の受験のためだ。およそ十日後に訪れる山を無事に越えることができれば、また元通りの生活がやってくる。いや、そんな近い将来のことを思うまでもなく、あと数時間もすれば新屋はこの部屋を訪れるというのに、欲張りなことだ。
「……でも、顔を見られないと結構寂しいもんだよ、あらやん」
口に出したらますます何ともいえない気持ちになって、私はベッドに突っ伏して顔を埋めた。狙ったように、いいタイミングで携帯が鳴る。
『食べる食べる!』
返事はそれだけだった。私も短く、『待ってます!』とだけ打ち込み、返信ボタンを押す。
「あれ?」
今度は明らかに、先ほどと同じメロディーが聞こえてきた。空耳ではない。甲子園からの中継で必ず耳にするあの曲が、微かにだがどこかから届いてくる。
まさか、この部屋の外から?
そんなことは、と訝りながらも、私は思わず窓を見た。そういえばここ数日は冷え込みが厳しくて、部屋の換気すらろくにしていなかったのを思い出す。
私は半ば駆けるように窓に近寄ると、ベージュのカーテンを開けた。もちろん夏の爽やかさはもう影も形もなく、カーテンの向こうからは、まるで墨で塗りつぶしたような夜空が現れた。思い切って窓を開け放つと、鼻の奥がツンとするような冷気が部屋へと流れ込んで来る。
そこには案の定、夜闇を背にした新屋が浮かんでいた。ニットキャップにダウンジャケット姿で、手にはしっかりと携帯を握っている。彼は滑らかな動きでこちらに近付いて来ると、窓枠に手をかけ、私を見ると無邪気に笑った。
「おっす」
「あ――」
あらやん、と叫びそうになるのを何とか我慢して、私はとりあえず彼を部屋に入れた。思えば、空を飛ぶ新屋を見たのは意外なことにまだ二度目だ。度胸がついたものだと、自分の成長、もとい適応力に我ながら感心する。
しかし、なぜこのタイミングで彼が空から現れたのか、私にはさっぱり分からない。何か、急にここまで会いに来なくてはならない用事でもできたのだろうか。
私の動揺をよそに、新屋は「そのパジャマ可愛いね」などと、非日常的なシチュエーションを満喫している様子だ。あまりの呑気さに、私はやや咎めるような口調で突っ込んだ。
「もう、非常識なんだから」
「そりゃお互い様じゃない? 『力』があるものどうしでしょ」
彼は不満そうに口を尖らせてそう言うと、遠慮もせずにベッドに腰掛けた。私が寝てもたいしてへこみもしないベッドが、新屋の重みでギシギシと苦しそうに鳴る。私はその悲鳴を聞きつつ、とりあえずパジャマの上からカーディガンを羽織った。
「まあ、ね。……それで、どうしたの、こんな時間に」
「ブラウニーを食べに、ってのは冗談で」
彼はそこで言葉を切った。急に真顔になると、まだ窓の側に立ちっぱなしのままの私を見つめ、新屋は苦しげに口を開いた。
「辛そうな声、聞いたからさ。……『飛ばした』だろ?」
「え?」
何をと聞き返そうとして、『声』だと思い至ったのはしばらく経ってからだった。私が飛ばせるものといったらそれしかない。
どうやら、無意識のうちに『力』を使ってしまっていたらしいと気付く。もしかしたら、私は自分で自分の力をコントロールできないほどに追い詰められていたのだろうか。
「私、そんなつもりは全然なくて。どんな言葉を飛ばしたか自分では分からないんだけど、何が聞こえてた?」
「名前を呼ばれたかな」
「名前かあ。……それは、あるかも」
思い当たるふしがありすぎて、私は苦笑いした。確かに、心の中や独り言でなら、何度も何度も彼を呼んだ。まさか、それが新屋自身に筒抜けだったとは思いもしなかったけれど――。
私も新屋の隣に腰を下ろすと、ギシ、とベッドが小さくきしむ。そっと盗み見ると、彼は切なそうな表情で俯いていた。こうして真剣な眼差しに出会うとき、私はいつも、マウンドに立つユニフォーム姿の『新屋選手』を思う。きっと今は夏以上に彼のファンになっているのだ。
「俺も、反省するとこがあってさ。寂しい思いをさせてることは知ってたけど、真南のためにって知らんふりしてたのがいけなかったんだな。で、これは伝えなきゃと思って、来た。……分かる?」
「うん――」
さすがに恥ずかしくなって、口をつぐむ。いつの間にか、新屋も私の方を向くと、照れ笑いを浮かべていた。
新屋が飛んで来てくれたこと、つまりそれは、彼がいちばん大事に想っている相手が私だという何よりの証拠だ。私に自らの気持ちを体を張って伝えるために、新屋はこの寒い中、わざわざ窓の外を訪れてくれたのだ。
「不謹慎だけど、ものすごく嬉しかったりするんだ。だって声が届いたってことはさ、俺、自惚れていいってことでしょ?」
「あ!」
そう。ずいぶんと変則的な方法であったけれど、私たちは期せずしてお互いの気持ちを確かめ合ったことになる。
彼もまた、夏のあの日以来、私の『声』を聞いてはいなかったはずだ。突然、『声』が届いたときにはさぞ驚いただろう。
「お互い様って、そういう意味だったんだ」
「そうそう。お菓子のことだけメールして、浮かれてるのごまかそうとしたのにさ。体まで浮いちゃってんだから。もう、こりゃ行くしかないなって」
「来てくれて、ありがと。……おかげで、いい感じに気が抜けたかな? 明日から――もう、今日だね。また、頑張れそう」
「良かった」
新屋はにやりと笑うと、次の瞬間、ふわりと飛んだ。ベッドに腰掛けたままの姿勢で宙に浮かび上がると、「じゃ、そろそろ帰るわ」と片手を上げる。
「勉強会だし。約束の時間に遅れちゃまずいから、早く寝なきゃあな」
「……そう?」
私はどうもあからさまに残念そうな表情をしていたらしい。窓の方へと向いていた新屋は、空中で器用にくるりと反転すると、ベッドの上の私のところまで戻ってきた。
「そんな目すんな。……俺、今、テンションが上がりすぎて何するか分かんないから」
骨っぽい大きな手が、私の両肩に乗せられる。新屋の顔が素早く近づいてきて、何かが私の頬をかすめた――ような気がした。
「ね、今って――」
目を丸くしている私をまじまじと見つめ、彼は一言「ダメだ!」と低く叫び、頭を抱えた。
「理性が無くならないうちに、帰る!」
新屋は宣言通りに踵を返し、真夜中であることもお構いなしにガラガラと窓を開ける。彼はその勢いのまま窓枠に足を掛けて、トン、と外へ踏み出すと、挨拶もそこそこに闇の中に消えていった。私も慌てて窓まで歩み寄ってみたものの、いくら目を凝らしても新屋の姿は見えなかった。
残された私は、ほてった頬に手を添えてみる。すっかり満ち足りて、さっきまで何を不安に思っていたのかなんてきれいに忘れてしまっていた。
「……ブラウニー、もう少し苦めにしようかな」
早起きすれば、焼き直す時間くらいはあるかもしれない。寝付けるかははなはだ疑問だったが、私はまだ新屋の温度が残るベッドに潜り込み、静かに目を閉じた。
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