暗黙の了解

私たちは知らないうちに周りの場に合わせる習性を持っている。「朱に交われば赤くなる」というが、それが良い意味なのか悪い意味なのかは場合によって変化してくる。それは当然のことであって、今から改める必要もない。私は最近学校の合宿に行ってきたのだが、やはり宿泊と言えば夜が一番にぎやかである。だれでも共感してもらえることだと思う。しかしそこへ先生が途中で見回りかなんかで部屋に入ってきて、運が悪い時にはひどく叱られるのだ。「何時だと思ってるんだ!」って大声で叫ばれるけど「そっちこそ何時だと思ってだよ。みんな起きちゃうよ」と思ってしまう人は少なからずいるだろう。

でも正直言って中学生とかの内は同級生と一日過ごすということ自体が貴重であり、夜うるさくなるのは当然だったりする。だから先生に怒られたときに自分をそこまで攻める必要はないし、学校側もある程度はうるさくなってしまうことを前提に計画をしていると思う。でもそんなこと主張したって誰も行動に移してくれる人なんていない。それは、先生がうるさい生徒を叱るのは当然のことだと認識されているからだ。

 あなたはなぜ人を殺してはいけないかすぐに答えられるだろうか。ちょっと考えれば答えは出ると思うが、今生きている全員が真剣にそんなことを考えているとは思えない。じゃあなぜ人は人を簡単には殺せないか。それは「人を殺してはいけない」となんどもなんども言われてきたからだろう。そんな風に、どんな人でも基本的には深く考えなくても「そういうものだから」という風に認識していることを「暗黙の了解」と言い換えられるわけだが、僕はこのことに非常に興味を持っている。暗黙の了解は、人を殺してはいけないというような正しいことを言うときもある一方、真実を隠していることもあり、一概には言えないのが現状である。けれど暗黙の了解は昔の人間の価値観と今の人間の価値観とが盛合されて出来上がったものだから、これからも時代が変われば変化していうだろう。従って、今すべてを正しいようにしてもそれはあくまで今の時代に適応したものであって、いずれはそうでなくなるに違いない。

「~の真実を暴く」とか、そんな新書を出版したってなんら国が変わらないのもそう考えれば当然と言える。

しかしその意見に賛同する人が増えれば話は別である。ガリレオガリレイは地動説を唱えたが、キリスト教の影響から死刑にかけられてしまった。けれど今はどの学校でも地球が太陽の周りを回っているというと教えられる。それは、研究が進むにつれて多くの研究者が地動説を正しいと主張し始めたからである。時に人間の歴史はある一人の考えで大きく変化することがある。それを望まれているから新書は書かれ続けるのだと思う。

 先ほど述べた通り、人間の考えは多くの人間の賛同によって変化する。しかしこれを「多数決」とはとらえてほしくない。確かに勘違いしやすいことではあるが、どこが異なるのか説明しておこう。

一言で言えば、全員が納得できるかできないかである。ガリレオの地動説の話を用いるとすれば、結局地動説は科学的に証明されたため誰も反論のしようがなく、全員が出した答えとして考えることができる。一方多数決はただ人数の多かったことが選ばれるわけで、当然それを選ばなかった人にとってみればただの迷惑なわけだ。言い換えれば、全員の答えとは言えないだ。そのため学校などでは「じゃんけんや多数決で決めてはいけない」と教えられるのだ。

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