私はそこにいません

 今回はお墓の話。


 お墓と言えば、よく占い師の人や自称霊能者の方が大事にしなはれやーって言ったりする、死んだ人の眠る場所とされている施設ですけど、アレ、別になくていいものなのですよ。更に言えば、お墓は不要なものなのだそうです。


 お墓が必要だと言うのは洗脳であって、お墓をプッシュするような宗教は全て霊感商法であり、邪教の類いなのだとか。

 故人の肉体、つまり骨を貴ぶのであれば、火葬自体が火炙りと同じ事をしているのであって、とても残忍極まりない慣習をしている事になります。つまり、その骨を大事にすると言う事と矛盾してしまうのですね。

 火葬して燃やす事で煙となって故人があの世に行くと言うのも、ただの方便に過ぎません。


 別にお墓がないからって無縁仏にはなりません。自身に縁のある靈は生前から側にいるものです。当然、未浄化靈にもなりません。供養する事に物質の有無は関係ないからです。

 故人の居場所がなくなる事もありません。靈は瞬間移動が出来るため、何処にでも存在出来ます。


 お墓がなくても故人と繋がる事は出来ます。お墓に行かなければ故人に会えない訳ではありません。それに、お墓がないからと言って故人があの世で不憫な思いをする事もありません。ただし、関わる靈団靈人が洗脳されていれば蔑視されるのだそうです。

 そもそも、故人はお墓にはいません。お墓にいる事は靈にとって喜びにはならないからです。


 故人はお墓に眠ってはいません。肉体そのものがないので靈は眠る必要がないのです。墓石が傷つくと靈も傷つくと言う人もいますが、故人は墓石ではありません。死んで石になるとしたならそれこそ地獄です。

 お墓がないからと言って故人は悲しみません。亡くなってしまえば顕在するモノに興味はなくなります。後は縁者の心次第です。


 お墓に向かって拝む事は、墓教(偶像崇拝)とも言えるでしょう。カルト教による洗脳です。これは儒教の影響を強く受けた思想の顕れであり、本来の仏教(釈迦の教え)には、遺体=骨=墓を拝む思想・慣習はありません。

 そう言う意味で言えば、日本仏教は、仏教とは言わず『墓教』と名前を変えた方が分かり易いかも知れませんね。


 勿論、生前の故人、遺族が強く望むのなら墓を建てるのもいいでしょう。ただ、本来は必要のないものだと言う事なのです。故人はお墓の前だけで想うのではなく、日常で生活のどの場面でも想えば通じます。常に側にいるのですから。

 お墓とは、言うなれば目印と言うか、かつて生きていたと言う記念碑的なものですね。それを変に特別視する必要はないと言う事です。もしそう言う事を言う人がいたとしたら、その意見はまるっと無視で構いません。古い慣習に囚われる必要はないのです。


 今回も神人さんの『神人霊媒日記』の記事を元ネタに書かせて頂きました。

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