E1.ありがとう、萩谷さん
9/6(水) 妹の日特別篇
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2021年10月13日水曜日。神奈川県川崎市、市内某所。
午後12時35分。
「えっと……なんで、俺を家に上げてくれたの?」
「だ、だって、オジサン優しそうだし。それに、お母さんにご用事なんでし――す、よね?」
「……? まあ、お母さんにというか、この家の人たちにご用事かなぁ……」
バジルは靴を脱いで玄関に腰をおろした。こちらを見下ろす少女は、早急にリビングに来るよう勧めてくるが、彼女の素性を一切知らないまま『相談』に乗るという行為は、さすがに気が引けたのだ。
「まず、君の名前を教えて欲しいな?」
「い、嫌、ですけどぉ……」
バジルは柔らかい調子で自己紹介を頼んだが、少女は即答でそれを拒否してしまった。いまだ警戒が解けきっていないことの証拠だろう。
普段は初対面の相手に対して激しく緊張してしまうバジルだが、眼前蚕の幼虫みたいに白く分厚い毛布を纏った少女は、バジル以上に他人と接することが苦手なように見える。名前一つ聞き出すだけでかなり時間が必要なのだと悟り、バジルは深くため息をついた。
「あのね。これから俺が君の『相談』を聞くにあたって、どうしても勘違いを正したいところがあるんだけど……いいかな?」
「は、はい、大丈夫です……」
「まず、俺はオジサンではありません!」
カッと目を見開いて、断言する。
バジルの言葉を最初は気味悪がっていた少女だが、思い出したように懐を探って、紺色渕の眼鏡を取り出した。それを眠たげな瞳を覆うようにして着けると、再度こちらへ向き直る。
「うぅー……あっ。ほ、ホントに、お兄さんだ」
「そうそう。おに――」
刹那、バジルは頬を真っ赤にして胸を押さえながら悶え始めた。
自分を怪訝な双眸で眺めている少女に構わず、バジルは先ほどの『お兄さん』を脳内で反芻して、そのたびに細かく体を震わせた。
「お、お兄さん……?」
「大丈夫だ、よ。だけど、俺の名前は……
「萩谷さん、ですね。えっと……名前は、あの、な、なんていうんです……?」
「お、教えて欲しければ、君の名前を教えろー……なんちゃって?」
偽名ではあるが、バジルは相手の緊張と警戒心を解きほぐすため、大人しく名を名乗った。しかし少女は自己紹介をしないどころか、あまつさえバジルからフルネームを聞き出そうとしている。確信はないが、もしかしたら少女は警察に通報を入れる気なのかもしれない。
現状がどういった経緯で成立していようが、傍目では白髪の不審な男が幼女しかいない自宅に侵入し、暴行を加えようとしているようにしか見えなかった。そのためバジルは保険として少女の名前を知っておこうと、怪しい手つきで少女に鎌をかける。
「え、あのあの、そのぉ……ホントに、お、お兄さんは怖い人じゃ、ないですよね?」
「怖くない人だって断言したいんだけど、それは君の印象次第だしなぁ……」
目で見てわかる程に大きく、少女はぶるっと身震いする。
バジルは何気に彼女の反応が胸に刺さり、真っ赤な顔で激しく狼狽しながら、
「で、でもね、君が本当に怖がるようなことは断固としてしないから! 君の相談に乗りたい、ただそれだけだよ!」
「……ホントに、あたしの相談聞いてくれるんですよね?」
「も、勿論! 俺は嘘つくこと大きらいだから、そこだけは信用してくれていいよ」
胸を張って信頼を仰ぐバジルの頑なな態度に折れた少女は、小さな身体をより小さくするように屈んで、か弱い小動物のようにつぶらで澱みのない瞳を向けてきた。バジルの胸中を全て見透かすような翡翠色に、バジルの目は釘付けになる。
「……あの、
「じ、じゃあ、優理ちゃんでいいよね?」
「はい。えっと、優理ちゃんです……」
バジルの声に、優理はお茶目な返答をした。
再び悶え苦しむバジルを尻目に、含羞の表情をしながらリビングへ逃げ行ってしまった。涙で歪んだ視界の端に、見覚えのある黒い長い髪が見えたため、一瞬肝を冷やしたがすぐに我に返る。
「――優理ちゃん、可愛いなぁ……」
危うく「まさかな……」と言うところだった。
確信もないし、希望でもない。ただの好奇心とフラッシュバックが、目に見える現実に歪を生んだだけなのだと結論付けて、足早にバジルもリビングへ向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
リビングの雰囲気は、この家の外装の印象をそのまま綺麗に収縮したように、小奇麗で落ち着いている。
その空間を満たす静謐さの中、キッチンで二人分の茶を淹れる蚕のような黒髪の少女と、カーペットの中央に置かれたテーブルからその少女を眺める白髪の青年。ちょっとした異空間のようにも思えるが、どことなく日常の和やかさもうかがえる。
「あ、あの。お茶が入りました、ので……」
「ありがとう。気ぃ遣わせてごめんね」
バジルは目の前に置かれたプラスチックのコップを見つめながら、感謝の言葉と謝罪の言葉を同時に述べる。優理はどう反応してよいか戸惑いつつも、明らかに優しい人柄のバジルに安堵しているようにも見えた。
わざわざソファーからクッションを取って、足下に敷いてから腰をおろした優理。彼女の一挙一動から滲み出る清潔感と女の子らしさに頬が緩み、
「本当に、優理ちゃんが妹だったら良かったのになぁ」
「――そ、そーなんですか……」
つい口元から零れ出でた本音に、少女は表情を強張らせる。恐らく、下心満載のお世辞か何かと勘違いしているのだろう。
「俺ってさ、キョウダイがいないんだよね。といっても、別に弟も妹も欲しくなかったけど。でも最近になって、自分の未熟さとか子供っぽさが浮き彫りになっちゃって……キョウダイができたら、少しは治るかもなぁ、って思ったんだよ」
「だ、だったら、別に弟でも……」
「だよね。でも一人っ子の男ってね、自然と妹が欲しくなるんだ。ホント、変だよねー」
バジルははにかみながら、現在妹にしたい女の子ナンバー1の少女に微笑みかけた。対して少女は俯きながら、煮え切らない態度でバジルへの返答を渋っている。それが喜悦による照れなのか、単純な鬱陶しさなのか、はたまた生理的な嫌悪感を覚えているのかはわからない。
「あ、あの。あたし、お姉ちゃんがいて……」
「じゃあお姉ちゃんも一緒に、俺の妹になって貰おうかなー!」
バジルが喜々として宣言すると、優理の顔から血の気が引いていった。本気で引いている。
「……冗談だよ。これ以上は約束破っちゃうから、やめておく」
「あ、あの……相談の先に、聞いていいです?」
「大丈夫だよ。答えられないことは、ちゃんと無理だって言うから」
「……は、萩谷さんはなんで、うちに来たんですか……?」
多少怯えた様子で、優理は唐突に訊ねてきた。彼女からすれば、バジルがわざわざ自宅を訪ねてきた理由など全く見当がつかないため、詮索したくなるのも当然だ。しかしバジルがここへ赴いたのは、ヴォルカンに単独で任務をするよう言われたからであって、バジル自身に目的など微塵もない。
どう返答したら彼女に納得して貰えるか、バジルが低く唸りながら考えていると、
「い、いえ。人には言えないことってありますよね! 大じょーぶですよ!」
「ああ、気にしないで。今日はちょっと……お、お姉ちゃんとお母様に、大事なお話があるっていうだけなんだ」
「そ、そーなんですね……」
具体的な内容を言わず、外殻だけでなんとか少女の信用を得たバジル。もはや闇金融の社員が使うような弁舌を真似た詐欺紛いの行為だが、今回だけはどうか勘弁して欲しいと、虚空に頭を下げる。
「じゃあ、本題に入ろうか。優理ちゃん?」
「……はい。お、お願いします」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――つまり、ずっと仲の良かった学校のお友達に、突然仲間外れにされちゃったんだ」
「そ、それで……あ、あたしは学校行きたいんですけど……」
黒い長髪の少女――優理は、しばらく小学校に行くことができていない、登校拒否の状態にあるようだ。
それも身に覚えもない理由で、友人だと思っていた数名の女子生徒たちから仲間外れにされたうえ、少女らが学級内の中心人物であるために、優理の元を訪れる人間は担任の教師以外に誰一人としていないという。要は、クラス全体から拒絶されてしまっているのだ。
小学校は学校施設の中で、最も交友関係が重視される場所であり、一度でも関係が断たれてしまうと、修復以前にまず繋がることすら難しくなる。
優理も、本心では学校に行きたいと思っているのだが、なかなかその勇気が持てず、不本意ながら自宅で独り留守番をしているのだという。
「確かに、今のまま学校に行っても、結局最後はここへ戻ってきちゃうかもしれないね」
「そ、そうなんです……ど、どうしたら、あたしは学校行けますか?」
「……どうしても今すぐ行きたいのなら、優理ちゃんが意地悪を我慢すればいい。相手は優理ちゃんが嫌がるところを見たいだけで、君がなんの反応もしなければ、いずれ諦める」
「じ、じゃあそれで……」
「そんなの、絶対ダメに決まってるじゃないか」
いじめを甘受することを了解しようとする優理を、バジルは真顔で否定した。決して怒鳴らず、相手を諦観させないように簡単な打開策を提示して、そのうえで自身を犠牲にすることを受け入れようとした少女に待ったをかける。彼の言動は完全に矛盾していた。
「で、でも、萩谷さんが言うこと合ってるし……」
「論理的に正しくても、倫理的に間違ってるんだよ」
バジルは優理だけでなく自分自身に対しても、その言葉の理解を促した。
そして自分が目の前の孤独な少女に、現状を打開する方法を教授する立場ではないことも重々理解したうえで、少女の澄み切った翠の双眸を見つめて、
「自分を痛めつけたらダメだ。絶対に何か方法はあるから、一緒に探してみよう?」
「でも……だ、だったら、萩谷さんはどうしたらいいと思うんです!?」
大きな瞳に涙を浮かべる優理は、ちゃんと問題と真摯に向き合っていた。
彼女の必死さと苦痛をようやく垣間見たバジルは、一度深く息を吐くと、悟ったような笑みを口元に浮かべた。
「ごめんね。俺も、どうしたらいいのかわからないんだ」
「――っ!?」
勢いよく立ち上がった優理は、これまでの愛らしい表情から一変、敵意を剥き出しにしながらバジルを睥睨する。
「俺はね、つい1年前までは友達一人もいなかったんだよ?」
「そ、それが、何に……」
「でも、気付いたら周囲に友達がいてね。それまでは俺も、どうしたら友達ができるんだろうとか、自分のどこがいけないんだろうって、すごく悩んでたよ。でも、結局は無駄だったね」
バジルは自身の過去を振り返って、孤独な日々を思い出す。
ただただ長くて、ひたすら辛く苦しい、全く生きた心地のしなかった毎日。
世界には人間が自分しかおらず、他人は全て木偶人形のように錯覚していたのが、いつしか平常になってしまっていた中学までの学校生活の記憶が、眼前クラスメートのいじめによる苦痛に喘ぐ少女を眺めていると、噴水のごとく湧き上がってくる。
ずっとガスマスクを着けているような、気色の悪い息苦しさ。
異常に量の多い課題と、愛想笑いの練習だけで終わってしまう休日。
グループワークを強制される度、消極的だと軽口で揶揄されてしまう己の臆病さ。
県外からわざわざ川崎市の高校に入学したのも、自立したかった訳ではなく、ただ過去の自分とその自分が負ってしまったトラウマから逃れるためだった。
――それら黒歴史の全てを、改めて噛みしめる。
「だからどうしても俺が言いたいのは、もし優理ちゃんが学校に行くんだとしても、仲間外れにされる覚悟で行って欲しくない、ってことなんだ」
「……ど、どういうこと、です……?」
「担任の先生は君に、学校の楽しさとか、先生が学校に行けるよう手助けをしてあげる、って励ましの言葉をかけてくれると思う。でも俺は君に、学校に行きたいなら行けばいいし、行きたくないのなら自分を傷つけてまで行かなくてもいいよ、って言ってるんだよ」
「で、でも、学校って行かなきゃダメなところだし……」
「それは、先生に言われたのかな? それともお母様、お姉ちゃん?」
「じ、常識じゃない、ですか……」
「たとえ心が傷ついている女の子でも、必ず学校に行かないといけない。常識っていうのは、そこまで意地悪なものじゃないよ。元気な人が、元気に学校へ行くことこそが常識なんだよ」
バジルは諭すように、ゆっくりと穏やかな口調で言葉を紡いでいった。
自分を傷つけることで、自分の身の安全が得られるはずがない。
一度口にしてしまえば理解も容易いのだが、常識という見えない鎖が心に絡みついているせいで、世の中に沢山いるだろう優理のような子供たちは、不本意な苦労を強いられている。
子供たちは幼い頃に常識を教わり、一般教育を受け、成長過程で倫理観をより発達させていく。その過程で培われた自身の考え方に、たとえ雑味が混じっていようとも、人々は無意識のうちにそれを正当化してしまう。代表的なものこそ、いじめなのだ。
バジルは別に、学校でいじめを受けていたわけではない。『いじめ』と呼ばれる行為に対する印象も、せいぜいニュースや新聞で培ったものであり、一般的な人間と大差はないだろう。
それでも、ここで彼女の行動を無意味に制限してはいけないことを、確かに理解していた。
「ちょっとずつでいいよ。頑張って1日行ったら、今度は2日間に挑戦してみて……最後に毎日行けるようになったら、それはもうゴールじゃないか」
「……萩谷さんは、赤の他人だから、そう言ってるんですよ」
「家族だって、友達だって、結局は赤の他人だよね。あ、でも知り合った時点で『赤の』はなくなるから……俺と優理ちゃんは、れっきとした他人だよ、うん」
「で、でも……行ったらまた、仲間外れに、されちゃいます……」
「困ってる時に、担任の先生に頼ることは、全然恥ずかしいことじゃないよ」
「あ、あたしが恥ずかしい、です……」
「じゃあ、お姉ちゃんに相談してみたら? でもお姉ちゃんが優しすぎると大変なことになりそうだから、相談する時は『どうしたら友達ともっと仲良くなれるかな?』って聞きなさい」
バジルがテーブル越しに髪を優しく撫でると、優理ははにかみながら、くすぐったそうな笑みを浮かべる。彼女の初心な反応に和むと、バジルはその場で起立した。
「えっ。か、帰っちゃうの――で、すか?」
「うん。今日はもう遅いし、俺も用事ができちゃったから」
「ま、また、来てくれる……?」
少女の質問に、バジルは目を伏せて沈黙する。
今後の彼には、恐らく猶予も名誉、人徳すら残っていないだろう。それをすでに察している彼は、容易に再びの逢瀬を了承できる程、心にゆとりを持つことができなかった。
「優理ちゃんが、笑顔で学校に行けるようになったら、また会えるかもね」
「…………うん」
あからさまに残念そうな顔をする優理。しかし、どこまでも自分の幸福を願ってくれるバジルの優しさを想い、精一杯の返事をした。
「お邪魔しましたー」
小さく手を振って、玄関扉の向こうへ消えていったバジル。
先ほどまで彼がこの家にいたことを証明するように、リビングのテーブルに残された淡い水色のコップ。お茶をお代わりしたせいか、少々飲みかけの茶色が残っている。
まるで夜闇を照らす満月のように、沈みきった心をあたたかく包み込んでくれた、白髪の少年。彼の痕跡を眺めながら、
「……ありがとう、お兄ちゃん」
ぽつりと、小さな愛が零れ落ちた。
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