4.灰の炎天、黒の影

 2021年8月9日月曜日。神奈川県川崎市、私立新川学園、高等部1年1組教室。

 午前9時25分。


「おいコラ楠森ちょっと来い」


「も、もうちょっと台詞に緩急をつけてくださいよ……」


 バジルが突っ込んだのは、彼のクラスの担任だった。

 外見は30代半ばの黒い長い髪の女性で、しかしその容貌に似合わず服装がダサい。もはや人間を超越したような、とにかく常人には理解し得ないコーディネート。モッサリ感とスッキリ感を掛け合わせたような……とにかく表現に困る格好である。

 その女性はこれまた落ち着いた雰囲気の顔に不似合いなしかめっ面で、眼前頭髪を白く染めているように見える不良紛いの男子を指さして、


「楠森よぉ、髪染めるなっつってんだろ」


「いやだから、これは地毛なんですって……」


「じゃあ何か、アンタはアルビノなのか? エキス出るのか?」


「質問の意味がわかりませんけど……」


 核心に触れているのか触れていないのか、とにかく女性は真摯に訊ねる。だが対するバジルは、彼女の発現に理解が及ばず、いまだちゃんとした回答ができないでいる。決して女性の必死さが伝わっていないわけではないのだが、逆に必死さしか伝わっていないのだ。

 とにもかくにも、こんな茶番が5分以上も続いている。いよいよ両者とも、我慢の限界だった。


「結局、先生は何が言いたいんですか……?」


「白いのをやめろって言ってんの」


「……ぜ、善処します」


 1時限目の授業が終わって、すぐさま教卓の前の女性に呼び出されたバジル。それから5分以上立ちっぱなしで不本意ながら茶番を繰り広げ、その間にクラスメートからの好奇の視線もずっと集まっていた。

 さらに2時限目は化学の移動教室、このままでは遅刻になってしまう。色々なことが一気に起こりすぎて、もう彼には反論する気概も体力もなかった。

 バジルの疲弊した顔を見ながら、口論に勝利した女性は悦に入っていた。ひどく弛緩した口元を大っぴらに見せびらかせて、余計に敗者のバジルを辱める。


「ああ、そーいや楠森」


「…………はい」


 女性に名前を呼ばれ、バジルは怪訝な顔で返事をする。


「アンタね、秋期補習決定したから」


「――それもう3回目です……」


「あれ、そうだったっけ?」


「ええ……」


 脳内で「この年増」と女性を詰ると、バジルは逃げるように教室をあとにした。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 雲すら見えない鈍色空は、恨めしそうに独りごちる少年の心情そのものだった。

 『校則違反の白い髪』『コミュニケーションが苦手』『普段物忘れがひどい』『夏休みの全課題未提出』――これらが原因で秋期補習にも参加せざるを得なくなってしまったバジルは、ついに今日は日和にも見放されてしまい、こうして一人で下校している。


「くそう、日和の奴め……」


 自己嫌悪にも飽きて、仕方なく日和の愚痴を小さく呟く。哀愁漂う背中は、それを見た者すらも憂鬱にしてしまうほどに悲痛だ。思わず涙が出そうになる。


「――ったく、アイツは察しが良すぎて困るよ、ホント……」


 今から10分くらい前のことだ。



 6時限目が終わった、終礼前の高等部1年1組教室にて。


「な、なあ日和。今日は暇――」


「じゃないんだよね。ていうか今日は、ジルくんと帰る気分じゃない」


「そんな冷たいこと言うなよ。俺と日和の仲じゃないか!」


「ああ、君とわたしは『ただの』友人だ」


「『ただの』は要らないじゃん⁉」


 バジルの誘いを頑なに受け入れない日和。海水浴の件からバジルとの交流が全くなかった彼女は、明らかに不機嫌だ。尤もそれは、昨日の夜遅くにバジルが日和の家を訪ね――


「頼む、残りの課題を手伝ってくれ!」


「――それはわかったけど、一体どの程度残っているんだい?」


「全教科ですけど」


「……帰ってくれないかな? とっても不愉快なんだけど」


「もう、俺にはお前しかいないんだ!」


「帰れ」


 ――というやり取りがあったからこその、機嫌の悪さであるのだが。

 そうとも知らないバジルは、徹頭徹尾バジルの思うようにしてあげない姿勢の日和に何度もアタックを続け、終礼の間もしつこくジェスチャーで気持ちを伝え続け、しまいには「お前が好きだ」とまで言い切った。無論、結果は惨敗である。

 最後の最後に、バジルは『赤い人』の名前を出して、安全のため一緒に下校がしたいと懇願したのだが、


「そういう不謹慎なことをいうのは、さすがに軽蔑するよ」


 バジルを友人として慕っているからこそ、日和は冷静に彼を斬り捨てた。



 しばらくは誠実に彼女と接しないといけない。そう心に誓った直後、バジルは大きな十字路に着いた。

 最初にこの十字路を右に曲がり、そのまま直進。


「そういえば、黒崎さんはどこに住んでるんだろ? あの人は優しそうだし、一緒に帰れたらいいんだけどなー……」


 曇った天上を仰ぎ見ながら、そんな本音を呟いてみる。


 先日の一件から、バジルは妙なくらい麻衣に懐いている。

 それは彼女の優しさに触れたことで印象が変わったせいだと思われるが、だからといって積極的になれるわけでは勿論ない。バジルの願いが成就するのは、もう少し先になりそうだ。


 そしてまた別の十字路に来たので、今度は左に曲がる。

 ちなみにここを直進すれば、週に2回ほどバジルが買い物に行くデパートがある。最近になって頻繁に大きなイベントをするようになったデパートで、今年はハロウィンとバレンタインのイベントの予定があるらしい。


 そして最後の十字路、ここを左に曲がり直進すると『隣人荘』に到着する。



 ――左に曲がったバジルの目に、突如、謎の黒い点が映った。



 それは百メートルほど先の路上に、ひっそりと佇んでいる。全身を真っ黒い服で包んだ人間だろうか……よく見えないが、バジルはすぐに違和感を覚えた。

 午後14時現在、相変わらず空は灰の一色だ。しかしその曇天さえも無に還す黒い人影は、評するならまさに「異物」だった。

 辺り一面の空気を濁らせ、風をヘドロのように粘っこいものへと変える。

 その「異物」を目撃したバジルもまた、その毒素に侵されてしまったらしく――疲労による無言は全く別の、畏怖の念による沈黙へと変換された。それも無自覚に、元より備わった野生の勘のようなものが働いた結果の畏縮である。

 しかしまだ無自覚な恐怖心だ。爆発寸前の好奇心に突き動かされ、バジルは少しずつだが目の前の「異物」のほうへ近付いていく。

 その表情は天衣無縫な少年だが、顔色は青色を超えて梨のような淡泊な白色になっている。ただひたすらに躍動する両手足も、活発的でありながらどこかぎこちない。表面にほとんど出ていない恐怖心に、徐々に毒されているのが見て取れる。

 そして「異物」との距離が50メートルを切ったところで――。



「「――っ⁉」」



 確実に目が合った。

 十字路に近いほうに立つバジルの眼前、漆黒のジャージに身を包んだ少女が、この異様な空間をつくった元凶である。

 ひどくはっきりとした不審人物で、その佇まいは不気味に落ち着いており、目の前のバジルに向かって冷たく微笑んだ。

 そういえば……バジルの脳内を一瞬にして駆け巡ったのは、『デジャヴュ』の文字。

 どこかで同じ光景を目にしたような、そんな奇妙な安心感に包まれた彼は、再びその少女をよく眺めた。幼さの奥に妖艶な雰囲気を秘めた、美しい少女だ。


 

 ――――間違いない。



「……や、やあ」


『少女は黙っている』。


「……あ、あの……もし、俺に用とかある……?」


『少女は黙っている』。


 少女が僅かにこちらへ身体を向けてくれた時、左手で長い何かが光ったような気がした。

 きっと、バジルの見間違いではない。

 度し難い事実だ。


『少女は黙っている』。


 信じたくなかった。バジルは目を剝いて髪を振り乱す。


『少女は黙っている』。


 そして少女は、鋭い目尻の蒼い瞳でバジルを睥睨する。身体をさらにこちらへ向けた。

 バジルは少女の正体にもう気付いているのに、少女のほうはまだ気が付いていない様子だ。そのせいなのか、バジルを見やるその双眸には、一切の同情など宿していない。こちらが確認できるのは、純粋な敵愾心と殺意のみで――死の色しか垣間見えなかった。

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