キンバリー辺境伯
ひたすら登った階段を、今度はひたすら降りていた。若い人はともかく、医師団の中にはかなりのお年寄りもいたので、余計な心配ながら少し気の毒にも思った。
「あの回復薬すごかったわね。あんな穏やかな顔をしたお兄様、久しぶりに見たわ」
「……意識は戻らなかったけどね」
ニーナは嬉しそうにお礼を言ったが、納得のいく結果を得られなかった僕は首を振った。
「ううん、医師や薬剤師の方々もいっていたでしょう? 鎮痛に使っているお薬が睡眠を誘発しちゃうから、意識が戻らなかったんじゃないかって」
「それは、そうなんだけど」
アンソニー王子が苦しそうにしていると、ニーナは本当に辛そうだ。早く何とかしてあげたいと思いつつも、解決策が見いだせないでいた。
確かに、欠損部分さえも修復する魔法は実在する。当然ながら属性のない僕には使えないけれど、もとより記録に残されていたものは魔法陣による発動だった。呪文発動が不可能だったというより、消費する魔力量が桁外れだったため、呪文魔法ではなく魔法陣による発動を試みたのだとされている。
それでも数人の死者を出すほどの欠陥魔法として、モンフォール王国では禁書扱いになっていた。
仮にその危険性を横に置いておいたとして、十冊以上ある辞書サイズの本にびっしりと綴られた呪文を魔法陣に起こすだけでも何年かかるかわからない。
それくらいなら、あの「ケンケンパ」の魔法陣を改良したほうがよっぽど時間が稼げるに違いない。
どれもこれも今となっては伝説づくし。
そういえば、伝説で思い出したけど、誰からだったか……同じような伝承話を聞いたことがあった気がする。誰だったかな……。
「おや、これは姫……、いや失礼。王女殿下、本日も……」
「口上は結構よ。ごきげんよう、キンバリー辺境伯。珍しい場所でお会いするわね」
すっかり思考の海で自問自答している間に、いつの間にか塔出て、後宮を経て、王宮へと続く庭園の小道を歩いていた。そして、目の前にはこれ以上ないほど不機嫌そうなニーナと、脂ぎったオジサン。
太っている訳じゃなくて、なんというか顔がテカっているというか、ギラついているというか……こう、見るからに「悪いこと考えてます」みたいな風貌だ。
いやいや、ヒトを見かけで判断するのはよくないか。きっと、脂性なだけだよね。
「なに、近々行われる貴族院の報告会の招集の準備で……それよりも、そちらは初対面ですが、どちらかの王子殿下ですかな?」
一瞬ドキッとしたが、どうやら彼が言っているのはニーナの弟という意味だ。ここが後宮に繋がる小道だったことから、いずれの妾妃が産んだ男子とでも思われたようだ。とはいえ、妾妃の子は基本的に王子とは呼称されないことから、これはれっきとした皮肉である。
「……僕はリュシアン・オービニュです。ニーナ王女とは、学園の薬剤師養成の研究室にてご一緒させて頂いております」
僕はあえてドリスタン王国の礼に則り、胸に手を当ててお辞儀をした。
すると彼は、少し考えた後「ああ、例の……」と思い当たったように、先ほどよりさらに見下したような態度を見せた。もしかしたら、息子のバートンから何か聞いているのかもしれない。
彼は改めて後宮を一瞥して、脂を陽の光にテカらせながら、更にその上を見るように顎を上げた。
「なるほど、ね」
その視線は、明らかに白く美しい塔に向けられていた。
王宮内でも一部の者しか知らない氷の塔の秘密。彼はその「一部の者」に入っているどころか、誰よりも深くかかわっているのだ。すると、何事もなかったかのようにニーナに視線を落とし、いかにも心配そうに溜息をついて、ゆったりと首を振った。
「いやはや失礼。もちろん、気持ちはわかりますぞ、藁にも縋るおつもりなのでしょう。ですが姫、事は国家を揺るがすほどの重要事項。部外者を立ち入らせるなど、あさはかとしか……」
「キンバリー辺境伯」
ニーナはにこやかに、ただ静かに名前を呼んだ。
言葉にせずとも、その沈黙には「そんなことは今更言われるまでもない」という叱責が込められていた。
開きかけていた口に何かを突っ込まれたように、キンバリー辺境伯は口を閉じた。
「ご心配いただき、感謝いたしますわ。……ところで、わたくしそこを通りたいのですが」
「し、失礼、いえ……申し訳ありません」
息子と同様「失礼」が口癖なのか、つい口走ってから慌てて言い直し、ニーナに道を譲った。
そのまま何も言わずに彼の前を横切ったニーナの後を、僕は慌てて追いかけた。
顔を伏せたままのキンバリー辺境伯の表情はわからなかったが、今回の黒幕ではないかと疑っているせいか、とても不気味なものに感じた。
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