湖の乙女

 手早く食事を終わらせた僕たちは、すぐに片づけて出発した。

 追手が掛かっているとは限らないが、あまりグズグズしている時間はない。皇帝がどの程度の手段を取って来るかは未知数だが、花嫁に逃げられたとなると向こうだっていろいろ痛手だろう。

 カエデがもたらす利益を逃すだけでなく、皇帝としての威厳や体面も傷つくのだから。


「村に着くのは明日の深夜になるけど、カエデの家に行くってことでいいの?」


 ゾラは僕の斜め後ろ、カエデは横に並んでしばらく黙々と歩いていたが、少しだけ今後の事を話を持ちかけた。


「……深夜とはいえ、村を横切るのは危険ね」


 見つかったら捕縛され、教会に突き出される可能性がある。なにせ、村を出る頃にはカエデへの風当たりはかなり酷かったという。本当にそう信じているかはともかく、病の元凶だと口汚く罵声を浴びせる者もいたらしい。病による死者こそ出なかったものの、このまま働けなくなればいずれは同じことなのだ。

 おそらく村人たちも、誰かを責めずにはいられなかったのだろう。


「村を避けて、湖の方へ行きましょう。母が踏破済みダンジョンの管理人をしているのよ」


 例のショボイダンジョンが、たまにギルドが催す新人教育の場に使われているらしく、以前に臨時の冒険者ギルドだった場所が、管理小屋になっているのだ。

 イベントのない通常時は、母か手伝いにくる母方の従妹しかいないらしい。

 その湖畔には、百年ほど前まで質素ではあったが美しい城があり、ティファンヌ公爵家の離宮だった。

 それはカエデの本来の家名であり、何代か前の皇帝によって廃され、今もまだ名乗ることを許されてはいない。以前に名乗ったクロイツはミドルネームのようなもので、本来はその後にティファンヌと続くようだ。長いね、名前。


「その湖には、皇帝の権力さえ及ばない存在がいるのよ。そのせいでダンジョンにも迂闊に近づけず、冒険者ギルドが母に仲介を依頼したの」


 そしてそのまま、管理人としてギルドの依頼を受けている形らしい。


「あ、もしかして……湖の乙女?」

「あら、よく知ってるわね。そう、もともとはエルフ族と共に主神に仕えた精霊。彼女たちはエルフ族と神、神の使徒にしか姿を現さないの」


 本にも書いてあった。確か気難しい精霊で、滅多に姿を現さず湖や森を冒すものには容赦がないという。


「じゃあ君の母は」

「母はダークエルフよ。鬼人族は昔から森林地帯に住処を構えていて、エルフと婚姻関係を結ぶことも多かったのよ」


 現在は多くの魔族が魔界へと居を移し、あまりエルフとも親交を持たなくなったらしいが、カエデの祖先はかつての英雄の血筋として爵位を持ち、帝都に残ったのだという。

 かつてティファンヌ公爵は湖の乙女を尊重し、手順を踏んで城を構えた。もちろん血族にエルフが多くいたことも彼女を懐柔する助けになっただろう。

 その後、公爵の没落により城を手放した際、とある人族の貴族が住み始めたのだが、乙女の怒りを買ったらしく城は一夜にして忽然と消え去ったという。


「私たち一族は、やはりこの土地が好きなのね……」


 もちろん今となっては他人の領地であり、一家は近くの村に住んでいる。けれど人が勝手に作った身分や領土は精霊には関係ない。湖一帯は、誰であれ手の出せない場所になっているのだ。


「うちも裕福じゃないから、ギルドからの依頼はとても助かってはいるけどね」


 カエデは自嘲気味にそう言って、話を締めくくった。

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