刺客

 ――油断した。

 普通の学園生活を、トラブルこそあれ平穏に過ごしてきて、すっかり忘れていた事実。

 なぜ、忘れていた。なぜ、注意を怠った。

 国に帰るということはそういう事だった。


「……っごほ!」


 運ばれてきた飲み物を、なんの気なしに口にした。その瞬間、口の中が火傷したかのような刺激を感じたのだ。とっさにテーブルにあった手拭き布で口を覆い、すべて吐きだした。けれど、少し飲み込んでしまった。

 テーブルに置いたカップが床に転げ落ち、リュシアンはそのまま片膝をつく。

 どこからともなくゾラが現れ、逃げていく男を一瞥して、慌てたようにリュシアンを顧みた。


「だ、大丈夫……、追って」


 一瞬だけ躊躇したが、ゾラはすぐに頷いて、取り囲んだ人垣をかき分け走っていった。

 涙がにじむ視界がすこし霞んだが、毒はほとんど飲んでない。胸を焼く感覚も、徐々に和らいだ気がする。

(魔法って、キュアで効くのかな)

 大事を取って何か手を打とうとしたが、今は巻物をもってない。それに、毒消しも……もっとも毒消しは全部の毒を消すわけじゃないけど、たしか特級ならよほど特別な呪術でもなければ、だいたいの毒は中和できるはずだ。けれど、なにもかも全部、部屋に置いて来たカバンの中だ。

 そのとき頭上のチョビが、シュバッと信じられないスピードで転がるように床を走っていった。

 移動するチョビに驚いた乗客が「わっ」「きゃっ」とか言いながら足を上げて避けるなか、あっという間に甲板から続く階段へ姿を消した。

 それをぼんやり見送って、リュシアンはなんとか立ち上がった。

 エドガーとは、少し疲れたから休みたいと言って先ほど別れたばかり。船の中を探険にいったエドガーとは別行動で、リュシアンは気持ちのいい風があたる甲板のベンチシートに腰かけていたのだ。

 それなりにまわりに人が居て、その中には同じ学園の生徒もちらほら見えた。彼らとも一言二言言葉を交わし、すっかり安全な学校にいるときのような気分でいた。

 我ながら平和ボケしていたものだ。リュシアンの中で、この件は半ば解決していた気になっていたのだ。

 

 すると、再び「わっ、また」「なんだっ、これ」と、ざわざわと人混みが騒いだあと、リュシアンの目の前にカバンを銜えたチョビが現れた。

 いつかのように、チョビがカバンを持ってきてくれたのだ。どうやって部屋にはいったのかと不思議だったが、その後ろからエドガー付きの護衛が走ってくるのが見えたので、おそらく開けてもらったのだろう。


「チョビ……、ナイスだ」


 カバンから特級判定の毒消しを取ると、一気に飲み干した。もともとほとんど毒は飲んでない。毒の種類はわからないが、どうやらうまいこと効いてくれたようである。焼けるような咽喉の痛みと、みぞおちの重い感じが嘘のように消えた。


「これは……、あの、お客様どうかされましたか?」

「平気です、ちょっと船酔いを……今、薬を飲みましたので」


 やがて、騒ぎを聞きつけた他のボーイが、駆け寄って来て声をかけてきたので、リュシアンは慌てて適当にごまかしてその場を離れた。カバンとチョビをひったくるように抱え込み、人波を避けて、すぐ後ろの船室への階段を小走りで降りて行った。

 その際、ついてこようとしたエドガーの護衛に「来なくていい」と、自分でも驚くほど冷たい声で拒絶した。

 疑うわけではないが、今は誰とも一緒に居たくはなかった。むろん、彼らは陛下直属のエドガー付き護衛だから、関係ないとは思うけれど。



 部屋に飛び込んで、ベットの脇にずるずると座り込む。


「あー、びっくりした。まいった、まだ諦めてないのか……」


 台詞に反して、その声は驚くほど沈んでいた。

 リュシアンが思っている以上に、ショックを受けている証拠である。

 エドガーと親しくなり、彼の人となりを知るほど、その母親の凶行は何かの間違いだったのではないかいう、馬鹿げた願望のようなものがあった。

 けれど彼女の妄執は、もはや初めの目的からかさえも歪んでしまっているのかもしれない。唯一の希望である息子とも引き離され、正妃になるどころか、ほとんど幽閉のような扱いをうけている自分を憐れみ、その歪曲した憎しみのベクトルいまやリュシアンにすべて向いているように思えた。

 そして彼女に、約束された身分と地位もある限り、それに動かされる人々はいるということなのだろう。


「勘弁してよ……」

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