第3話「予感」

 裕哉が書類に手を付けて数分、扉が開く音と共に櫛見灯里くしみあかりが現れた。


「遅くなりました皆様。冷たいお飲み物、用意してきましたよ」

 その手にはビニール袋が掲げられ、結露で透けて見える中には何本かのペットボトルが見える。わざわざこの暑い中買い出しに行っていたようだ。


「わ、ありがとう灯里ちゃん。流石! 後輩の鑑だよ。美術部の後輩と取り換えっこしたいくらい」

「萠、物色する前にすることがあるでしょ。ありがとう灯里さん。暑い中大変だったでしょう。いくら払えばいいかしら」


「じゃぁ一本百円で大丈夫です海塚様。あ、萠様ピーチティはあかりも飲んでみたいので二本ともは」

「お、灯里ちゃんはじめて? ふっふっふ。なら乾杯だね」

「そんなにおいしいの? それ」

「ヅカチーも飲んだことないの? しょうがないな。一口あげよう」


 わいわいと盛り上がる女性陣の輪から一歩引いて、裕哉はそっと妹である櫛見灯里の様子を見ていた。この夏に、あまり体力のない妹が自ら買い出しに出るとは、と心配やら何やらで、疲れを隠していないか探ってしまっていたのだ。


 そうして見ていた裕哉は、少し乱れた黒の長髪を整え、額についた汗をハンカチで拭っていた灯里と目が合った。


「あ、兄様にいさまも選んでくださいね。これから見回りですし、みねらるしっかり麦茶がおすすめです。塩分タブレットはちょっとお高めなので用意できませんでしたが、熱射病に気を付けて、水分補給こまめにですよ?」


 屈託のない笑顔で麦茶のペットボトルを差し出す妹を見て、裕哉はとりあえずの安心をしてそれを受け取った。


「ああ、ありがとうな。百円だっけか」

「いえいえ、いいですよ兄様。そもそも私のお小遣い、兄様からじゃないですか」

「それはそれ、これはこれだろ。あれは自分のために使うよう渡してあるんだよ」


 言いながら裕哉が財布から小銭を取り出そうとした時だった。コンコン、とノックの音が鳴り、続けて開かれた扉から一人の女生徒が遠慮がちに顔をのぞかせた。


「あ、あの」

 入ってきた女生徒は不安そうに栗色のくせ毛を弄りながら、狭い室内にいる4人に委縮したのか、用件を言えずに立ち尽くしている。


「お、ヅカチー出番かな?」

「はいはい。ええっと、あなた確か同じクラスの吉岡さん、でしたっけ」

「あ、はい。あ、あの櫛見君、に用が」

「え、俺?」


 予想外の言葉に、灯里へ百円玉を渡していた裕哉が反応した。全くもって自分は無関係、背景ですよという気分でいたために、狐につままれたかのような顔をしてしまっていた。


「は、はい。ちょっと、ここでは。少し付き合ってもらっても良いですか」

「まぁ、構わないが。ええっと、本当に俺?」

「そうです。すみません」


 わけがわからなかったが、裕哉は用があるならと女生徒に続いて外へと出て行った。残されたメンバーはというと、女生徒から裕哉の名前が出た瞬間からすっかり固まっており、二人が出て行き、閉じられた扉の音が響いてから、ようやく動けるようになっていた。


「いやー、まさか裕哉君が呼び出されるとはねぇ。これはこれは」

「……ま、男子相手に聞きたいこともある、わよね」


 椅子から腰を浮かしかけたまま固まっていた海塚が、そう言って頷きながら席へと腰を落ち着け、大神田はその海塚を覗き込むように机へと身を乗り出した。


「あれあれ、どしたのヅカチー。嫌よ嫌よと言いながらも、さて仕方ないから相談に乗ろうかと思ったら、自分がご指名じゃなかったという。それは私の仕事だったのに、みたいな。それとも裕哉君が呼び出されたことが気がかり?」


「萠、あんたは毎度毎度よく飽きないわね。あ、結構おいしい」

 海塚は動じず、大神田の置いていたピーチティ―を手早く奪うと、その中身を口に含んでいた。なかなか好みの味だったのか、続けて更に二口ほど流し込む。


「あ、ひどい。一口って言ったのに。ヅカチーの八つ当たりだ」


「ま、まぁ兄様ですからね。そうですよね。頼られて当然でした。私も何度も助けられていますし」

 もう一人、大袈裟に頷きながら財布を鞄にしまう灯里の姿を見て、大神田はなんだかなーと思いつつ息を吐いた。


「こいつは一波乱、かな」

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