夜の森


 パチパチと火が弾ける。

 日が暮れるのはあっという間だった。周囲に罠を張り、湧き水を確保し、火を起こして食事の準備を整えると辺りは闇に沈み、小さな焚火の光が唯一の光源になった。

 リアンは手に持ったパンをスープに浸しては口に運ぶ。スープにはざく切りにされた肉が放り込まれており、独特の野性味のある臭みが広がるが今の彼にとってそれは気にならなかった。


 ぼんやりと今日一日のことを思い返す。

 フィフィに連れられて、守られながらこの森までやってきた。

 それから森の中を回ったが、フィフィの先導は完璧で魔物や魔獣に接触する機会はただ一度もなかった。

 幾つかの魔力溜まりを確認したが異常はなく、日が暮れかけたところで野営の準備。

 色々と忙しかったように見えて、したことといえばひたすら走り回っただけのようにも思える。


(……いや、本当に俺は付いてきただけだな)


 どろりと痺れたような思考でリアンは考える。その瞼は半分閉じかかっており、覚醒と眠りの狭間を漂っていることは明らかだった。

 虚ろな瞳で炎を見つめながら、リアンは必死に食事を続ける。たとえ疲れ切って食欲がなかったとしても腹には何かを詰め込まなければならない。もし怠れば、回復は遅れまた次の日には更なる迷惑をかけることになってしまう。その一心だった。


(……フィフィさんはかなり速度を抑えてくれてたけど、全く追いつけなくて調査は遅れてしまったし。魔力のスポットだって……俺は何も気付けなかったし……馬を隠すときだって、あんなみっともない術式を……)


 靄のかかったような視界の中でリアンは今日の自分を振り返り、蔑む。何という役立たずの足手まといだと。


(……少しでも役に立てるかもしれないなんて、認めてもらおうなんて、なんて思いあがりを。……俺なんかと、この人達では住む世界が違う。少し優しく接してもらったからって、俺は勘違いをして……)

「――リアン、大丈夫?」


 自分を呼ぶ声に狭間を漂っていた意識が急速に覚醒へと傾く。慌てて顔を上げると目の前にはいつもの無表情な――いやそれよりは少し陰りのある、心配そうな――フィフィの顔があった。

 お互いの瞳にお互いの姿が映るほどの距離に驚き、リアンは慌てて身体を起こして反らそうとするがそれが良くなかった。

 朝から酷使し続けた肉体、擦り減った精神、加えて眠りから急に覚醒したばかりの身体。

 動揺から身体が緊張し、リアンは手に持っていた食器をぽろりと落としてしまう。


「「――あ」」


 二人分の気の抜けた声と、ぱしゃりという水音と、からんと木製の器が転がる音が重なる。器に半分弱残っていた熱いスープは殆どがフィフィの両足にかかっていた。


「――す、すみませんっ!! ぼーっとしてて……や、火傷はっ! 水をっ……!」

「――ん、大丈夫。落ち着いて」


 リアンが顔を真っ青にしてパニックに陥ろうとしているのを、フィフィはいつも通り平坦な声で宥める。


「私の服は熱を通さないから、この程度で火傷はしない。問題ない」


 フィフィはそう言って足に乗っていた肉片をつまんでパクリと口に入れる。

 彼女の両足は両腕同様に黒いなめし革のアンダースーツに包まれており、言葉通りその下の皮膚には一切の損傷はなかった。

 だが、リアンの顔色は変化しない。それよりも、事態を理解するにつれてますます青さを増す。

 リアンはその場で地面に頭が付くのではないかというほど深く深く頭を下げた。


「ほ、本当にすみません! 俺、こんな無礼をっ……!」

「――気にしない。疲れてたなら仕方ない。……私も、急に近づいたのが悪い」

「いえっ、そんな、フィフィさんに落ち度なんて、一つもっ……!」


 そこでフィフィは驚いたような表情を見せる。彼女と共に冒険を続けてきた仲間たちですら滅多に見ないような表情を。

 彼女の視線の先にあるのは少年が涙を流す姿。必死に堪えようとしているようだが、一度溢れ出した涙は止まらず堰を切ったかのように大粒の涙がボロボロと零れ、地面に新たな染みを作り出す。


「――す、すみませっ……俺、こんな、情けなっ……」


 少年の言葉は途切れ途切れだ。今まで押さえつけていた何かが弾けたかのように泣き続ける。そんな姿を見せるのも辛いのだろう。皮肉にもそれが少年の涙を更に増やす結果となる。


 そんな少年を少しだけ見つめて、何を思ったのか。フィフィはリアンの顔を両手で柔らかく包み込む。ひやりとした手がリアンの頬を冷やして、彼の理性を少しだけ回復させた。


「……フィフィ、さん?」


 怪訝そうに顔を上げたリアンはそのまま柔らかいものに包まれる。

 フィフィはリアンを抱きしめていた。人形のような細い腕で彼を護るかのようにその全身を包もうとする。

 リアンは何が起こったのか理解できず、ただ身を硬直させるしかない。顔はフィフィの胴に埋まり、呼吸をすれば彼女の肌の匂いが直に感じられて心臓が跳ねる。

 硬くなった彼の身体をほぐすかのように、フィフィは優しくリアンの背を撫でる。それは赤ん坊をあやす母親の仕草によく似ていた。


「――大丈夫。大丈夫だから」


 彼女の声はいつも通りの平坦なものだ。

 だがその声は、今の彼には何よりも優しい子守歌のように響いた。



      ◇      ◇



「……落ち着いた?」

「……はい」


 ようやく落ち着いたリアンは目元を軽く腫らしながらフィフィから離れて座る。

 その顔は先ほどまでの涙とは関係なく赤く、少し居心地が悪そうにしていた。


「……ごめんね」

「な、何でフィフィさんが謝るんですか。全部俺が――」


 フィフィの言葉にリアンは言い返そうとするが、その瞬間唇に指を当てられて制される。

 冷たく、小さな指。だがそれに軽く触れられているだけでリアンは何も言えなくなってしまう。


 焚火の炎がちらちらと揺れる。フィフィは軽く目を伏せて何かを思案するようにする。

 揺れる光の関係かフィフィの顔には影が落ち、リアンからはその表情が窺えない。

 ただいつも彼女が纏っている泰然とした空気はなく、ひどく落ち込んでいるようにも見えた。


「……浮かれていた」


 息が詰まるような長い空白の時間の後、フィフィはぽつりと呟いた。

 言葉の意味が分からずリアンは不安そうに眉を顰める。会話の流れから自分リアンのことを指している訳ではないだろう。しかし、フィフィに連れてこられて彼自身に浮かれた気分があったことは事実だ。それを指摘されたようで思わず唇を固く結ぶ。


「……リアンは何だか私と似てて、つい良いところを見せようとした」

「……俺が亜人の里の育ちだから、ですか?」


 コクリと小さくフィフィは頷く。彼女の短い前髪が小さく揺れた。


「私も里を出て、仲間に会うのは久々だった。だから気が良くなって……キミを振り回してしまった」

「……仲間」


 フィフィのその言葉にリアンは固まる。その小さな拳はいつの間にか強く握られていた。


「俺は……亜人じゃないです。ただの『はぐれ』で、そんな、フィフィさんの仲間だなんて」

「……リアンからは木と土の匂いがする」


 リアンの握った拳を包むようにフィフィの柔らかな手が重なる。

 リアンがその感触に驚いて顔を上げると間近からフィフィの瞳が真っ直ぐに彼を見つめていた。


「確かにキミは亜人じゃないけど、それでも森の子であることに変わりはない。それに、もうリアンは間違いなく私たちの仲間」

「……っ!」


 真っ直ぐに瞳を見つめられたまま言い切られて、リアンは胸が詰まる。

 そして先ほど一度泣いておいてよかったと思う。でなければ、ここで間違いなく涙が零れていただろう。

 彼が心の底で最も求めていた言葉。フィフィはそれを心からの正直な思いとして彼に伝えていた。


「……ごめん、迷惑だった?」

「そんなっ……そんなわけ、ないです……! ただ、その、嬉しくて。どうすればいいか分からなくて……」


 その言葉にフィフィの雰囲気が和らぐ。僅か、ほんの僅かではあるが彼女の瞳が優しく緩み、可笑しそうな笑みが浮かんでいた。

 見た目相応の少女のような、そんなあどけない笑みにリアンは見惚れる。


「……不器用なところまで、私にそっくり」

「……ぅあ」


 様々な感情が胸の中で入り混じり、リアンはぐるぐると回りそうになる視界を必死に押しとどめる。

 そんなリアンを見て、フィフィはますます笑みを深める。ただ、目の前にいるリアンは視線を逸らしてしまっておりそれを見る者は誰もいなかったが。


「リアンは頑張ってくれた、お陰で今日は助かった」


 フィフィが軽く口にした言葉。しかしそれを聞くとリアンの表情は見るからに暗くなる。

 その露骨な変化にフィフィは戸惑う。


「……そんな、嘘です。俺、フィフィさんの足を引っ張ってばかりで、何の役にも……」

「……何が?」


 きょとんと、本当に何を言っているか理解出来ないといった様子でフィフィはリアンを見つめる。

 あまりにも無垢な視線にリアンは一瞬たじろぐが、しばらくすると意を決したように口を開いた。


「馬を置いていくときには不出来な魔法しか使えませんでしたし、森を回るときも遅れてしまって……魔力溜まりを見たときも、俺には何の異常も見つけられなくて……」

「…………?」


 変わらずきょとんと、リアンの独白の意味が分からないといった様子でフィフィは小首を傾げる。一体何が問題なのかと、本気で分からないといった様子で。


「……整理。馬を隠すのに使った魔法は失敗した?」

「い、いえ。効力は出てるはずです。その、今も残ってるかまでは分からないですけど……」

「うん、魔法が発動してたのは私も確認した。……何か問題が?」

「……その、未熟者の俺の、不得意な魔法じゃ心配でしょう? 無駄に手数をかけて発動したのは、知っての通りですし」

「……ああ、なるほど。鎧やおっぱいが言ってたのはこれか、理解した」


 はあ、と気の抜けたようなため息をついてフィフィは言う。

 まさかとは思うがその妙に端的な呼称はロッケンさんとルシャさんのことだろうかとリアンは内心で戦慄する。

 そんなリアンの心中を他所に、フィフィは目を細めて呆れたような視線を少年へ改めて向けた。


「病的な自己評価の低さ。謙遜も行き過ぎれば不愉快」

「っ……、す、すみません」


 ぐさりと刺さるような言葉。フィフィから実際に責めるような言葉を放たれたのは初めてで、リアンは強いショックを受けつつも反射的に頭を下げる。


「……はぁ、こういうのは苦手だけど仕方ない。リアン、顔をあげる」

「は、はい」


 恐る恐るリアンは言われた通りに顔をあげる。

 目の前のフィフィには怒っているような様子はない。何とも言い難い、難しそうな表情を浮かべてリアンのことを見つめている。

 そのリアンといえば獲物に睨まれた小動物の如く委縮し、身を縮めるばかりであり、それがますますフィフィの表情を難解にした。


「……順番に話す。一つ目、隠す魔法について。私は魔法について詳しくない。けれど不得手なことを形にするのがどれだけ大変かは理解しているつもり。リアンは私の要求通りの魔法を使って見せた。それは誇るべき」


 ごく当たり前のことを確認するかのように、淡々とした口調でフィフィは話す。

 きょとんとした表情を見せるのは今度はリアンの方だった。まるで予想もしていなかったことを言われたとでもいうかのように、無垢な瞳でフィフィのことを見つめ返している。


「二つ目、森の移動について。移動で私の方が早いのは当然、というかこの分野で負けたら面目が立たない。リアンは十分速い、私の里でもそれだけ動ける者はそうそう居なかった」


 彼女はただ事実を話す。確かに木々から突き出した枝を足場に駆ける技術は森に住まう種族としては必須のものであったが、リアンの熟練度は並大抵ではなかった。

 亜人の特性とスカウトの技術と経験から極限の域に到っているフィフィと比べれば見劣りするのは当然だが、少年の年齢を考えれば彼の動きはフィフィをも感心させるに足るものであった。


「三つ目、ポイントの確認について。繰り返し言うけど、私は魔法に疎い。魔力を感知するだけなら可能だけど、それがどういった種類のものか見分けるのは難しい。だからキミに任せた。そのキミが問題ないと思ったならそれで良い」

「任せたって、そんな、俺が見落とししてる可能性だって……」


 戸惑うようにリアンは言うが、その点についてフィフィは一切の不安が無いらしく軽い調子で受け流す。


「おっぱ……ルシャにも確認して、リアンなら大丈夫と保証してもらってる。彼女と私が信じて任せたんだから、もし手落ちがあっても私たちの責任。リアンはよくやってくれてる、自信を持って良い」


 はっきりと言い切られてリアンは何も言い返せなくなる。

 全てを納得した訳ではない。しかし普段言葉数が少ない目の前の女性がこれほど真摯に語ったことを嘘だと跳ねのけるほど少年は捻くれてはいなかった。

 

 ふぅ、とそこでようやくフィフィは一つ深く息をつく。


「……はぁ、慣れないことは疲れる。少し寝るから、火の番よろしく」


 気疲れは本当なのだろう。ふらりと立ち上がったフィフィはそのまま毛布を全身に被って地面に転がる。

 あまりに素早い就寝にリアンは口を挟むことすら出来ず、少し茫然としてから焚火に視線を落とす。

 揺れる炎は先ほどまでより小さくなっている。まだ消えるほどではないが、念のためにとリアンは枯れ木を足して火を強めておく。


(……これだけ言われても、まだ正直ピンとこないけど)


 リアンは頭の中でフィフィの言葉を繰り返し噛みしめる。

 どれだけ鍛えて力をつけても満足することはなかった。少し前に進むたびに、更に先が途方もなく果てしないことを思い知らされて、遥か先を既に歩んでいる存在が数多あることを認識させられて、自分の未熟さを痛感させられた。

 先の見えない道を進み続けることは辛かった。それしか道がないと知っていても、何度も立ち止まろうと思った。

 だが進む以外に生き方が分からず、必死に足を進め続けた。いつの間にか足が痺れて、辛いとすら感じられなくなっていた。


 だが、今日初めて認められた。それまでの歩みを褒められた。

 自分よりも遥か先を歩む人に、間違っていないと言ってもらえたのだ。

 この救われたような気持ちは、きっと大切にして良いはずだ。


 リアンは火をかき混ぜながら、ちらりと毛布にくるまって静かに寝息をたてるフィフィを見る。


「――ありがとうございます」


 呟くような少年の言葉は、焚き木の弾ける音とともに夜の森に溶けて消えていった。

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