世界樹


 スクアーラ森林は王国南西部に広がる大森林地帯の一つだ。

 森林の中は常に薄暗く、下草も生えない。魔力のスポットが点在している影響で魔獣や魔物の数が多く、人はまず立ち入ろうとしない。

 時折ハンターと呼ばれる希少種狙いの冒険者が森へ挑むことがあるが、無事に帰れる割合はそれほど高くないのがこの森の危険性を示している。


 またその無人の地域は帝国との緩衝地帯でもあり、境界には高い山脈が連なっている。山々は険しく頂上付近には途切れることなく雪が吹きすさび、生き物が越えることは不可能とまで言われている。

 結果、周辺国家は森を大きく迂回して高原地帯を抜けるように街道を伸ばしているが、その街道も森林群の間を抜ける関係上決して安全とは言えないものとなっていた。




 森の中をフィフィとリアンは駆ける。

 より正確に言うならば、「木々の上」を二人は駆けていた。


 褐色銀髪の少女が宙を飛び、軽やかに枝の上に着地――したかと思うと次の瞬間にはまた宙へと飛び出す。まるで体重を感じさせない、羽毛のような立ち振る舞い。だがその速度は絞り放たれた矢の如く、凄まじい勢いで緑の屋根の下を潜り抜けていく。

 森の中を徘徊する獰猛な魔の物は数多く、彼女たちが駆ける木の下もその例外ではなかったが、それらに襲われることはなかった。

 先導するフィフィが安全なルートを選択していたこともあるが、そもそも彼女たちの気配に気付いたとして、視認するまでには遠く過ぎ去ってしまっている。それほどの尋常でない速度であった。


 全身黒色の少年はその背を必死に追う。

 少年も同様に木々の枝から枝へと飛び移り、危なげない様子で宙を駆けていく。


 しかし二人の速度差は誰が見ても明らかだった。

 リアンが10本の木を越える内に、フィフィは15か16の木を軽く渡ってみせる。

 木を渡る際に足場とした枝の揺れにも差がある。少年が足場とした枝は軽く揺れてささやかな軋み音を生みだしたが、先に立つ女性は一切の気配を殺す。

 加えるならば浮かぶ表情からして彼女の方にはまだ多分に余裕がある。時折立ち止まっては後ろを振り返って少年を待つ。


 一体どれだけ進んだのか。

 何の目印もない、似たような木々が延々と立ち並ぶ森の中だというのにフィフィの足取りに全く迷いはない。見えない道があるかのようにただただ駆ける。

 リアンの額に汗が滲み、髪が張り付く。表情は険しく、限界が近づきつつあるのは確かだった。


 再びフィフィが立ち止まる。ただし今度は後ろを振り返ろうとしない。

 ただ真っ直ぐに正面を見据えている。


 怪訝に思いながらリアンがその小さな背にようやく追いつく。そして目前に広がった光景に思わず目を奪われた。


 あまりに巨大すぎるそれは、最初はシルエットだけでは正体が掴めない。

 体を引いて、見上げて初めてその威容の一部を捉えることが出来る。


 木だ。高く高くそびえる大樹。

 冗談かと呆れるほどに、太く大きく凄まじい。

 周囲の木々と同じ森にあるものとは思えないほどの異常な巨大さだ。


 その肌は大きく波打ち、隆起し、複雑に絡み合った模様を浮かべている。

 うろらしき穴はあまりに大きく深く、どこまでも続いているかのような錯覚に陥らされる。

 森の中から突き出したその大樹という言葉では言い表せない程の極大樹は、遥か高くに自らの葉で緑の屋根を作り出しており、見る者の遠近感を容易に打ち砕いて見せる。

 まさに見る者を唖然とさせる、異常な光景であった。


「――これ……は……」


 リアンが声にならない声を辛うじて絞り出す。

 あまりに異様で、美しく、荘厳ですらあるその光景に、心を奪われるのを必死に抵抗しているかのように。

 その様子を見て隣に並ぶ小さな女性は愉快そうに眼を細める。


「うん、いい反応」


「……っ、フィフィさん、これって……まさか」


「――ああ、やっぱり。分かるんだ。そうだね、いわゆる『世界樹』と呼ばれるもの。……私のところでは、『天と地を繋ぐ柱』なんて言っていたけれど」


 どこか遠くを見る目をしてフィフィは言う。


 世界樹とは世界を支えると言われ、世界各地に幾つか存在している大樹だ。

 有名なものとしては大陸南方の魔法都市ナライの中心にあるものだが、それ以外では「そこにあるらしい」と噂されるだけではっきりとした所在が分かっているものは少ない。


 これほど巨大な木が見つからないのには理由がある。世界樹の周囲は木の放つ魔力により強力な結界が張られており内側は異界化しているのだ。

 そのため外からは見えず、近付こうとしても木に認められた者、あるいは結界の抜け道を知らなければ木の下へたどり着くことは出来ない。


 そしてその異界の中には森で暮らす亜人が集落を構えることがある。

 リアンがかつて暮らした村も世界樹――とはいえ目の前のそれより遥かに小さなものだったが――によって守られていた。口ぶりからすると、恐らくフィフィの育った場所もそうなのだろう。


 大きさこそ違えど、懐かしい空気に思わずリアンは胸が締め付けられるような思いに襲われる。

 周囲は恐ろしいほどに清らかで静かだ。少年が胸のあたりを強く掴むと、布地が擦れる音がやけに目立って響く。


「……ごめん、無神経だったかな」


「――いえ、いいえ、大丈夫、です。ただちょっとだけ……懐かしくて」


 リアンは俯いたまま小さく首を振る。

 声はまだ僅かに震えていたが、表情は元に戻りつつあった。


「えっと、最初の調査ポイントはここなんですか?」


 リアンが気を取り直すように質問すると、不安そうにしていたフィフィは少し安堵してそれに答える。


「……ん、そう。とはいえここで何かあったらもうお終いだけど」


 物騒な物言いだがそれは事実だ。

 世界樹の結界は強力であり、その清浄な気は悪鬼を払う。そして何よりも世界樹はその森の心臓のようなもので、それが無くなれば木々は著しく力を失う。少なくとも元のような大森林を維持することはできないだろう。


 リアンは周囲を見回すが魔物や魔獣がいる様子はない。こうして彼がこの場にいるのも、フィフィが抜け道を巧みに潜り抜けて先導した結果だ。本来であればこの場に人が辿り着くことなどあり得ない。


「ここの守り手は居ないんですか?」


「さあ、いるかもしれないけれど、まだ見たことはない」


「……それ、居たら縄張りに入ったことになるのでは」


「威嚇もしてこない向こうが悪い」


 悪びれず言うフィフィに「そんなものだろうか」とリアンはそれ以上の質問は続けずに飲み込む。

 彼は確かに森の育ちだが、種族全体の文化や交流に詳しい訳ではない。自分より遥かに経験値が上の人物が言うのだから、それで納得する他に無かった。


 そうしている間にフィフィは地に降りて世界樹の幹の方へと向かっていた。

 しばらく進んで、大きく張り出した巨大な根に囲まれたスペースまで進むとしゃがみ込み両手を組んで祈りを捧げるような姿勢をとる。

 後を追ったリアンも慌てて姿勢を真似るが、数秒もしない内に彼女は立ち上がってしまう。


「挨拶も済んだし、次に向かう」


「もういいんですか?」


「結界も無事だし、気配もない。これ以上は必要ない」


 肩を竦めてフィフィは再び軽く跳ねる。それだけの動きで遥か遠くの枝まで移動してみせる彼女の背を追うように慌ててリアンも踵を返し、一度だけ後ろを振り向く。


(……どうかご無事で)


 小さな人間が心配をしたところで意味はないだろう。不敬ですらあるかもしれない。

 しかし、リアンはそう願わずにいられなかった。


 脳裏に遠い光景がフラッシュバックする。

 灼ける木々、家々、そして空。全てが崩れ落ちたあの日は決して忘れることはない。


 だがそれも一瞬。


 リアンは遠ざかりつつある小さな背を見失わないよう、また懸命に走り始めた。

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