第七章 日常へ

日常へ1








 龍は自分のベッドで目を覚ました。誰かに邪魔をされたわけでもなく、自然に目を覚ましたのだ。机の上に置いてある時計は8時を知らせていたが、ベッドに横になっている龍からは見えない。そのため、まだ少々のんびりとしていた。

 自分の腕の中で眠る白龍を見て、龍は小さく息を吐いた。馬車に乗り家について自分の部屋に入り、ベッドに白龍を横にして自分も眠ろうとベッドに横になる前に、時計を確認したのは午前3時だった。それからどのくらいたったのかは、今の龍には分からなかった。ベッドに白龍を横にするとき起こさないように気をつけたのだが、ベッドに寝かせたときの僅かな振動に目を覚ましてしまった。

 しかし、今自分が何処にいるのかを理解したのか、自分の横に寝た龍に抱きついて眠ってしまったのだ。それは、離れたくないとでも言う様に力強く。そのため、龍は扉に背を向けて眠ることにしたのだ。動いて白龍を起こしてしまうのも可哀想だ。角も翼も消しているため、今日は仰向けで眠ろうと考えていたのだが仕方がない。そう考えて、龍も白龍を抱きしめて眠ったのだ。

 眠る白龍の赤くなってしまっている目元を、起こさないように右手で触れる。泣き腫らして赤くなっているそこは、僅かに痛むだろうことが分かる。

 白龍が起きたら冷やそうと考えて、龍はゆっくりと体を動かした。そして、自分の背中にくっついて横になっている人物を見た。背後からお腹に両手がまわされているので、そこに誰かがいるということには気がついていた。

 ただ、安心出来る自宅の部屋で寝込みを襲われるとも考えていなかったので、龍は正直なところ驚いていた。いつ部屋に入って来たのかが分からなかったからだ。

 たとえ安心出来る場所にいたとしても、誰かが入ってくれば気がつく。だが、龍は気がつくことなく眠っていたのだ。疲れていたために気がつかなかったのかもしれない。

「あの……起きるんで離れてもらっても良いですか、ツェルンアイさん」

「ツェルって呼んでくれて良いのよ」

 そう言いながら、龍に背中から抱きついていたツェルンアイは両腕を離すとゆっくりと起き上がってベッドから下りた。龍も白龍を起こさないように服を握る手を慎重に離して起き上がり、床に足をつけてベッドに座った。

 両腕を上に伸ばして軽く伸びをして、机の上に置いている時計を見た龍は驚いた。寝た時間から考えれば、寝足りないのだが、いつもより遅い起床だった。何も仕事を入れていないとはいえ、寝坊である。

「あの……男の部屋に女性が入るのはいかがなものかと……」

「大丈夫。私、貴方が好きなんだもん」

「それは帰ってきたときに聞いたけど……そういう問題じゃ……」

 それは、スレイの屋敷から帰ってきたときのことだ。昨夜は、自警団本部から馬車に乗って帰宅をした。家の前に馬車を止めたラアットが扉を開いて黒麒から先に下り、最後に龍が白龍を抱き上げたまま馬車から下りた。白龍を起こさないようにゆっくりと下りた龍を、ツェルンアイは黙って見つめていた。

 白美に促されて、家の中へ入ったツェルンアイはリシャーナの後ろに続いてリビングへと向かった。そこで、何を思ったのか龍が入ってきたのを見て口を開いたのだ。思わず口から出てしまったのだ。

「私、貴方が好きなの」

「え、ああ。ありがとう。でも、それは俺が最初に助けたからだよ。ただ、好きだって勘違いしてるだけだよ」

 突然のツェルンアイの言葉に龍は驚いたが、そう返答した。捕まっていたところに、やって来た人が自分を助けてくれれば、その人を好きになるというのは良くあることだと龍は思ったのだ。だから、ツェルンアイの言葉を本気だと思うこともなくそれだけを言ったのだ。

 そのあとは何も言われることがなかったため、諦めてくれたのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。

 ツェルンアイは龍に言われたことには納得した。だが、自分ではなく白龍を助けだそうとした龍を好きになったのは本物だと思ったのだ。

 だから、龍が白龍を連れて部屋に消えても何も言わずに見つめ続けていた。立ったままのツェルンアイに近づいた白美は、何も言わず右腕を握るとソファに座らせた。それは手当てをするためだ。

 ツェルンアイに微笑むと、白美は怪我に手を翳して治療をしていく。その様子を見つめるツェルンアイの左肩を、誰かが軽く叩いた。それはリシャーナだった。

「さっきのイヤリング、ピアスにしてあげる」

 そう言った右手を差し出すリシャーナに、ツェルンアイは素直に白い毛玉がついたイヤリングを渡した。それを見ていたエリスは、何も言わなかった。いつものリシャーナであれば、助けたのだからとそれを貰ってしまう可能性があるのだが、今回はその心配はないだろうと考えたのだ。

 階段を上がっていくリシャーナを見て、エリスは衣装部屋へと向かう。ツェルンアイが着ることの出来る服を探そうと考えたのだ。本人に選ばせても良いのだが、今何もしていないエリスが何着か選んだ方が良いと思ったのだ。

 手当てをされながらツェルンアイは考えていた。自分の気持ちは本物だと信じているが、本当は龍が言うように助けてくれたから好きになったのではないかと。

「好きだと思ったのなら、それが本物だと思ったのなら、それでも良いんじゃないの?」

 声の主はリシャーナだった。どうやら、もうイヤリングをピアスにしたようだ。右手に持っているのは、先程渡した白い毛玉のイヤリングだったものだ。

 左手には一本の針。それは耳にピアスを通すための穴を開けるために持ってきたのだろう。ツェルンアイはそれを見て、そう思った。ピアッサーというものは、この世界には存在していない。

 だから、耳に穴をあける場合、多くの人は病院に行く。しかし、リシャーナのように自分で開けようとする人は多いのだ。

「さて、どっちの耳にピアスをする?」

「右耳で」

「了解。少し下で大丈夫?」

「大丈夫。……お願い」

 ツェルンアイがそう言ったと同時に、自分の獣耳に手が添えられたことを感じられた。そして、右耳に痛みが走った。突然の痛みに体に力が入ったが、リシャーナは気にせずに針を抜くとハンカチで血を拭いピアスを右耳につけた。

「白美。あとで構わないから右耳にも治療しておいて」

「了解!」

「暫くはそれ、つけたままでいてね」

 そう言うと、リシャーナはツェルンアイの頭を左手で撫でて一度欠伸をした。何故頭を撫でるのか、リシャーナを見上げながらツェルンアイは僅かに首を傾げた。リシャーナもツェルンアイの頭を撫でた理由は特にないのだろう。

 今まで眠いのを我慢していたのか、リシャーナは目を擦って何度も欠伸をしている。階段の上を見上げ、ツェルンアイから手を離す。どうやら、ツェルンアイの頭を撫でていた左手に針を持ったままでいたようだ。

「それじゃあ、私はもう無理だから寝るわね。階段を上って左手の真ん中の部屋が空いているから、そこを使えば良いと思うけど、エリスに聞いてみると良いわ。それじゃあ、おやすみなさい」

 そう言ってリシャーナは手を振ると、ゆっくりと階段を上って行った。余程眠いようで、少しフラフラしている。それでも、途中で眠ることもなく無事部屋へと入って行った。もしかすると、部屋の中で倒れているかもしれないが、部屋に入ったのだから大丈夫だろう。ただ、持っていた針で怪我をしていなければ良いとツェルンアイは思った。

 それから、白美の手当てはすぐに終わった。リシャーナに言われた通り、右耳の手当ても忘れることはなかった。ツェルンアイに傷は残っていない。満足気に微笑む白美に、数着の服を持ったエリスが近づいた。白美に何も言うことなく、ツェルンアイを見ると微笑んだ。

「とりあえず、この中から着れる服を選んでもらっても良いかしら? 貴方の服は明日……ってもう今日だったわね。午後にでも買いに行きましょう」

 午前中はもしかすると、起きれないかもしれないとエリスは考えたのだ。エリスの言葉に頷くと、ツェルンアイは迷うことなく薄いピンクをしたスウェットを手にとった。サイズはエリスが見て着れそうなものを持ってきたのだろうと思い、ツェルンアイは動きやすいものを選んだのだ。

 それに、これから就寝するのだ。それを考えると、フリルのついた服は寝ずらいだろう。スウェットを手にとると、エリスに右腕を掴まれた。何故掴むのかと、エリスを見上げると口を開いた。

「部屋に案内するわ。着替えは部屋でしてね。それと、下着も新しいのを持ってきたわ」

 立ち上がったツェルンアイの手を離すと、右手に持った袋に入ったままの新しい下着を渡した。それを受けとったことを確認して、エリスは階段へ向かう。その後ろを、ツェルンアイは何も言わずについて行く。

 案内された部屋は、階段を上って左にある五つ並んだ扉の真ん中だった。そこは、エリスとリシャーナの隣でもある。エリスが扉を開くと、そこにはベッドと机があった。布団は定期的に洗濯をしているのか、見ただけでも分かる程ふわふわしている。エリスが部屋へと入ると、ツェルンアイも中へと入った。

「ここを使って。申し訳ないけど、電気は今は使えないわ。明日は使えるようにするけれど……構わないかしら?」

「ええ、大丈夫よ」

「そう、良かった。それじゃあ、私も寝るわね。私の部屋は右隣だから。それじゃあ、おやすみなさい」

 自分の部屋がある方の壁を叩いて言うと、エリスは手を振って部屋から出て行った。扉も閉められ、部屋は明かり一つないため真っ暗になってしまう。

 しかし、ツェルンアイには見えているので、電気がついていなくとも心配はなかった。とりあえず今日は、このまま眠ろうとツェルンアイは素早く着替えをすませ、着ていた服などは床にそのまま置いて、ベッドに横になった。だが、眠ることは出来なかった。目を閉じても睡魔は訪れなかったのだ。

 どうしてかと考えて気がつく。最近はずっと白龍と一緒に眠っていたことに。それに慣れてしまい、1人で眠ることが出来ないのだ。暫くすれば1人で眠れるようになるだろうが、今は無理だと思ったツェルンアイは起き上がって床に足をつけてベッドに座った。

 どうすれば良いのか。そんなことは、考えずとも分かっていた。しかし、それをしても良いのかという考えはあった。それでも、自分も睡眠をとりたいと思ったツェルンアイはゆっくりと立ち上がった。

 静かに扉まで歩き、音をたてないように開く。耳を動かし、音がしないことで全員が眠っていると分かる。音をたてぬように扉を閉めると、目的の人物が消えた部屋へと向かう。間違いはないかと、部屋の前で立ち止まり、耳を扉へと近づけて室内の音を確認しようとした。小さな寝息が聞こえ、一度頷いて静かに扉を開いて室内に入って扉を閉めた。

 ツェルンアイが部屋に入ってきたことに気がついていないようで、部屋の主は扉に背中を向けてベッドに横になっていた。布団をしっかりとかけて眠る龍へと近づくと、ツェルンアイは黙って見下ろした。龍は白龍を抱きしめ、白龍も同じように抱きしめて眠っているようだ。

 それを見て、自分はどうしようかと右手を顎に当てて考える。だが、ツェルンアイが眠ることが出来るスペースがあるのは1か所しかない。一度頷くと静かに布団をめくり、ベッドに上がりそこに体を横たえた。

 温かくなった布団の中に、僅かに冷たい空気が入り込んだからなのか、龍が僅かに身動いだ。だが、ツェルンアイが背中にくっつくとまた静かに寝息をたてはじめた。

 そのまま黙って様子を見ていたが、龍も白龍も起きる様子はなかった。ゆっくりと背中から龍のお腹に両手を回す。それでも起きない龍に、ツェルンアイは隙間なくくっついて目を閉じた。

 すると、先程まで訪れなかった睡魔がやってきた。一緒に眠る人がいて、安心したのかツェルンアイはそのまま眠りについた。龍が目を覚まし、動くまでぐっすり眠っていた。夢を見ることもなかった。

「ツェルは……本当に俺のことを好きって思ってるのか?」

「ええ。嘘でも、偽物でもないわ」

「……そうか。好きって言ってもらえるのは嬉しいけど……」

「私を助けたのが龍だから、好きだと思ってるだけって言いたいんでしょ? それは聞いたわよ」

 そう言われて龍は頷いた。ツェルンアイに好きと言われたときに、そう言ったことは覚えている。言ったのに、また同じことを言うということはツェルンアイも考えたのだろうと龍は思った。そうでなければ、同じことは言わないだろう。

 龍はツェルンアイの目を見て黙ったまま、寝起きの頭で考えた。どうすれば良いのか。このまま同じように断っても良い。だが、それでは考えてまで同じことを言ったツェルンアイに申し訳ない。

「分かった」

「え? 何が?」

「俺は、まだツェルのことを良く知らない。それはツェルも同じだろ?」

「ええ。そう、だけど……」

「だから、これからツェルがどこで暮らしていくのかは分からない。でも、これから様々な場所に行って、いろんな人に会って、いろんな経験をすると思う。だから、それでも俺のことをまだ好きだと思っていたら、もう一度言ってほしい。俺も、ツェルのことを気にかけるようにする。それじゃあ、ダメかな?」

 その言葉にツェルンアイは目を見開いた。また龍に自分の気持ちを否定されるか、はっきりと断られるかと思っていたのだ。しかし、龍は断るのではなく、気にかけるようにすると言った。

 それは、龍を好きだと言うツェルンアイを見て、自分の気持ちに変化があるかを確認するということなのだろう。もしかすると、ツェルンアイがもう一度好きだと告げたとき、龍も気持ちが変わり好きだと言う可能性だってあるのだ。好きだと言わない可能性の方が高いのだが。

 だから、ダメかと聞かれてダメだと言うはずがない。好きになってくれる可能性は低いだろうが、少しでもその可能性があるのなら良いのだ。

「ダメじゃ、ない。ダメじゃないよ。少しでも私のことを気にかけてくれるのは嬉しい。可能性は低いけど、好きになってくれるかもしれないから」

 両手で口元を覆い、嬉しそうに微笑むツェルンアイは嬉しさのあまり涙目になっている。そんなツェルンアイの反応に、龍は間違っていなかったことに安心して息を吐いた。

 もしも返答を間違えていたら泣かせてしまっていたかもしれない。そうなっていれば、申し訳なく思っていただろう。それに、ツェルンアイのことを知ろうと思ったのは本当だ。だから気にかけるようにすると言ったのだ。

 龍は、人間だった頃から今まで一度も恋をしたことがない。だから、ツェルンアイを好きになるとは限らない。もしかすると、好きになることもあるかもしれないが、それは絶対とは言えない。それもあって気にかけるのだ。

 両手を下ろして、微笑むツェルンアイに、龍は何かを言おうと口を開こうとしたが、その前に部屋の扉が開かれてしまったため、何も言うことなく扉を見た。

 そこにいたのはユキだった。それを確認して、ノックがされなかった理由を知った。他に誰かが一緒にいればノックはするが、動物であるユキではノックをすることは出来ない。扉を開いたユキは、ツェルンアイを見て首を傾げて龍を見た。その目は、邪魔をしたかと問いかけてくるようだった。

「ユキ、おはよう。邪魔はしてないから心配しなくて大丈夫だよ」

「おはよう。それは良かったわ。ツェルンアイに言いたいことがあるけれど……まあ良いわ。起きたなら、下りてきて。みんな起きているわ」

 ユキのその言葉に、龍とツェルンアイはベッドで静かに眠っている白龍へと視線を向けた。それは、もしも目を覚ましたら泣いたりしないかと心配になったからだ。

 漸く戻ってくることが出来たのに、目を覚ましたら部屋に1人。戻ってきたと思ったら、部屋には誰もいない。そのことで、本当は戻ってきたのは夢での出来事だったのではないかと思うのではないかと考えたのだ。

 どちらかが残った方が良いだろうと考えて、龍は自分が残った方が良いだろうと考えた。もしもツェルンアイを残したら、まだあの地下にいると思ってしまうかもしれないと考えたからだ。明かるい場所にいるとしても、寝起きでは頭がしっかりと働かないだろう。それならば、ツェルンアイと2人きりにするよりも龍がいた方が良いと思ったのだ。

「白龍が心配なら、私がついているわ。それなら心配ないでしょう?」

「ああ、ありがとう」

 階段へ向かおうとしていたユキが足を止めて龍を見上げて言った。ツェルンアイが残るよりは良い。龍も身支度がしたかったので、取り敢えず下に行きたかったのだ。安堵の息を吐いた龍は、部屋の中に入ってくるユキにお礼を言ってベッドから立ち上がり部屋を出た。

 ベッドに上がり、白龍の横に丸くなるユキを見てツェルンアイも部屋を出た。扉は閉めない。もしもユキに呼ばれたときや、白龍が起きて呼ばれたときにすぐに反応出来るようにと。

 部屋から離れて、ゆっくりと階段を下りる。すると、何故か全員がキッチンに集まっていた。そこには悠鳥の姿もあった。全員が同じ方向を見ているため、何を見ているのかと思った龍は同じ方向へ視線を向けた。

 そこにあったのは、龍にとっては見慣れているものであり、この家に来てからも特に気にしたことはなかったものだった。だが、気にしていないといっても、それが変わっていればすぐに気がつくことが出来るものだ。

「あれ? 冷蔵庫、新しくなってる」

「あら、龍とツェルンアイ。おはよう。そうなの、冷蔵庫新しくなったのよ」

「いつ?」

 今にも壊れてしまいそうな古い冷蔵庫から、汚れひとつない冷蔵庫に代わっていれば新しくなったことにすぐに気がつくことが出来る。だが、最近は周りを気にしている余裕もなかった。もしかすると、何日か前に新しくなっていた可能性もないとは言えない。

 いつ新しくなったのかを問いかける龍に、エリスは「さっき新しくなったの」と答えた。だから全員が、新しくなったばかりの冷蔵庫を見ていたのだろう。

「誰かが運んできたのか?」

「ウォーヴァーが運んできたの」

 1人ソファに座り紅茶を飲んでいるリシャーナが、カップをテーブルに置いて答えた。ウォーヴァー・ファロッター。彼は魔物討伐専門組織『ロデオ』のリーダーだ。今回、白龍を誘拐した3人組の男が所属していた組織のリーダーではあったが、ウォーヴァーは白龍を誘拐したことを知らなかったのだ。

 そんな彼がどうして新しい冷蔵庫を持ってくるのか、龍は不思議で仕方がなかった。そして、ツェルンアイにとってはウォーヴァーが誰かであるということは分かったが、冷蔵庫がみんなが見ている白い箱だということしか分からなかった。

 それが何なのか、何に使うものなのかも森に住んでいたツェルンアイには分からないのだ。冷蔵庫が、目の前にある箱だと分からなければ、ツェルンアイにとっては呪文を聞いているかのようなものなのだ。スレイに渡された本にも、冷蔵庫なんてものは書かれていなかったのだから知らなくて当然だろう。

「1人で運んできたのか?」

「そうよ。知人から送られてきたけど、自分たちは使わないからって持ってきたのよ。力持ちよね」

「力持ちって問題なのかな?」

 エリスの言葉に白美が首を傾げた。冷蔵庫を1人で持ち上げてしまうのは、力持ち以上だと思ったのだろう。しかも、それを1人で運んだのだ。彼のどこにそんな力があるのか。

「それで、古いのは?」

「ウォーヴァーが持って行ったわ。きっと孤児院に持って行ったんだと思うわ。子供が多いから、古いのでも冷蔵庫が多いと喜ばれるみたい」

「それなら、新しいのを持って行った方が良かったんじゃないのか?」

「冷蔵庫で子供たちが遊ぶから、すぐに壊されちゃうらしいの」

 だから新しい冷蔵庫を孤児院に持っていくことはないのだ。しかし、全てが古いものであると、子供が壊さなくてもすぐに壊れてしまう可能性が高い。

 そのため、何度かに一度は新しい冷蔵庫を持って行く。だが、子供の手が届く場所に置くことが出来ないため、孤児院のキッチンに置くのだ。

「それにしても龍って冷蔵庫を見ても驚かなかったわよね。……もしかして……」

「ああ。俺のいた世界にもあったからな」

「龍のいた、世界?」

「やっぱり。それで驚かなかったのね。つまらない」

 どうやらエリスは、龍が冷蔵庫を見て驚く顔を見たかったようだ。つまらないと言って小さく息を吐いた。そう言われても、龍は苦笑をすることしか出来なかった。

 そんな龍の横で、ツェルンアイは白美から説明してもらっていた。『龍のいた世界』とはいったい何の事なのか、ツェルンアイは分からないのだ。だから、白美が本当は龍は異世界からエリスに呼ばれた人間だったのだと話したのだ。

 それでも、ツェルンアイにはよく分からなかった。それは、仕方がないだろう。ツェルンアイは森で暮らしていたハイイロオオカミの人よりの獣人なのだから。

 スレイの屋敷の地下で、本を与えられて知識をつけたとしても、未だにツェルンアイにとっては理解することが出来ないことばかりなのだ。

「今回の冷蔵庫は最新ですので、水を凍らすことも可能なんですよ」

「それは出来なかったのか。……そう言えば、氷は白美が出してたもんな」

 言ってから氷は白美が出していたことを思い出した龍は、そう呟いて白美を見た。だが、目が合ったのはソファに座ろうと歩き出した悠鳥だった。

 黙って龍の目を見つめる悠鳥に、何故見つめてくるのか分からずに龍は首を傾げた。だが、ツェルンアイ以外の全員が自分を見ていることには気がつかなかった。

 龍は話していなかったのだ。冷蔵庫が自分のいた世界にもあったことだけではなく、冷凍室のことを。この世界では今までの冷蔵庫には冷凍室はついていなかった。最近新しく増えたのだ。

 だが、龍のいた世界の冷蔵庫にはすでにそれらがあることを知って驚いたのだ。龍のいた世界と比べても仕方がないと思い、エリスは小さく息を吐いた。そして、冷蔵庫を持ってきたウォーヴァーが帰ってすぐにやってきた人物のことを思い出した。

「そういえば、ウォーヴァーが帰ってからアレースとエードが来たわ。龍に頼まれていたものを持ってきたって言って冷蔵庫に入れていたけど……」

「思ったより早く入手出来たんだな」

「何を頼んだんですか?」

 持ってきたものを冷蔵庫に入れているエードの後ろ姿を見ていたが、何を入れたのかを見ていないため黒麒は気になっていたようだ。別に、見てはいけないとは言われていないのだから見ても良かったのだが、『龍に頼まれたもの』と言われたため確認しなかったのだ。

 どうやら持ってきたものが何か気になっていたのは、黒麒だけではなかったようだ。龍のそばにいるエリスたちだけではなく、ソファに座っているリシャーナまでもが黙って龍の言葉を待っていた。

 それぞれの様子を見て、龍は口元に笑みを浮かべた。アレースが教えなかったのなら、教えなくても良いだろうと思ったのだ。それに、時間がかかるかもしれないと言っていたのに、すぐに揃えてくれたのだ。きっと、アレースも楽しみにしているのだろう。

 本当は、白龍に喜んでもらうためだけに頼んだのだが、それが出来れば白龍以外も喜んでくれるだろうと思った龍は、少し考えるように右手を顎に当てて口を開いた。

「アレースが言わなかったのなら、出来るまで楽しみにしていると良い」

「龍くん、酷い! 教えてくれても良いでしょ!」

「ああ。俺は酷い。だから、みんなに手伝ってもらおうかな。勿論、ツェルンアイにも」

「私……も?」

「ああ。手伝ってくれるか?」

 龍に微笑まれながら言われたツェルンアイは大きく頷いた。今まで生きていて、誰かに手伝ってと言われたことが一度もなかったため、そう言われたことが嬉しかったのだ。

 自分は必要とされていて、邪魔でもなく、ここにいても良いと言ってもらえているようで、ツェルンアイはとても嬉しかったのだ。手伝いと言われると、誰もが一度は嫌がるものだ。実際、エリスはあまり良い顔をしていない。

「何を作るのかは教えないけれど、作り方は教えてくれるのね」

「そういうこと。それに、1人で作るには少し大変だと思うから、みんなで一緒に作ればそこまで大変ではないと思う」

 そう言ってゆっくりと冷蔵庫に近づくと、両手で冷蔵庫を開いて龍は目を見開いた。頼んだのは龍だが、量がとても多いのだ。アレースに告げた以上の量に小さく息を吐いた。

 そして、一つの瓶に紙が貼ってあることに気がついた。それを瓶から剥がすと、一度冷蔵庫の扉を閉じた。長い時間開いてると、中のものが悪くなってしまうからだ。

 剥がした紙に書かれていたのは、『俺たちの分もよろしくな』というアレースからの短い言葉だった。だから量が多いのかと納得したと同時に、もしも直接アレースがこの言葉を言うのだとしたら笑顔を浮かべているだろうと思った龍は、手にしていた紙を強く握った。

 思い浮かべた笑顔のアレースに、自分は作らずに全て作らせるつもりでいることに少し苛立ってしまったのだ。だが、用意してくれた礼を兼ねて作ろうと決めてもう一度小さく息を吐いた。

 そんな龍の様子を後ろで見つめていたエリスたちは、何も言わずに首を傾げていた。龍は作り方を教えて、自分とツェルンアイは取りあえず身支度と着替えをしようと考えた。だがツェルンアイは自分の着替えが無いので、リシャーナの服と靴を借りることになった。








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