その6-2 や っ て ら れ っ か !


 その全身を覆うは杏色をした溶岩のような逆立つ毛皮。

 鮮血のように真紅の眼球は少年の頭ほども大きく、そして威嚇するように吐き出した鼻息はさながら暴風のようだった。


「何なんだよコイツ? 一体どこから現れたんだっつの?!」


 クマが可愛いレベルに見える。

 口の端をひくつかせながらカッシーは突如として姿を現した大鼠を見上げる。


「こんな化け物は初めて見たッス」


 十年前の冒険でもこんなモンスターとはあったことがなかった。

 せいぜいわかるのは見た目通りの『大鼠』――チョクは渋い表情を浮かべながら、我儘少年が放った言葉に答える。

 彼も目の前の未知なる化け物との遭遇から、幾分動揺しているようだ。

 

―ケケケ、元からこいつはそこにいただろ?―

「ナマクラ?」

―こりゃ、あの野人の成れの果てだ―


 さも嬉しそうに、そしてさも鬱陶しそうにそう答えた時任を唖然とした表情で見下ろしながら、カッシーは酸欠の金魚のように口を開閉させた。


「マジか……これがセキネ?!」

―妖気の質があいつと一緒だ。まあさっきとは比べ物にならないほどでかくなってるがな―

「つまりさっきより強くなってるってことか?」

―ああそうだ―


 変身。いや、質はそのままに肥大化した妖気から察するに抑えていたものが解けたという感じだろうか。

 いずれにせよ中々手応えがありそうだ――

 時任はその身を鈍く光らせながら、値踏みするように大鼠を眺めつつ少年の問いに答えた。

 対して妖刀のその言葉を聞いたカッシーはダラダラと脂汗を流しながら、思わず唸り声をあげる。

 

「ボケッ! そんな化け物相手にできるか!」

―だから言ってるだろ、早く俺に代われって。今のお前じゃこいつは手に負えねえ―

「い や だ っ つ の !」


 と、歯を剥いて時任を睨みつけたカッシーの言葉を遮るようにして、ホールに凄まじい咆哮が轟いた。

 

 もう一度言おう。

 やはりクマが可愛いレベルだ。

 はらわたがビリビリと震える程の、低くそして悍ましい大咆哮。

 ネズミだったらチューチュー鳴けっつの! なんだ今の? ガオーどころじゃないぞ、ゴォオアアアー! とかだったぞ――

 何とも語尾力の低いツッコミを心の中で入れつつ、カッシーは口をへの字に曲げた。


「柏木君!」

「くそっ、こんな時に何処に行ったんだっつのなっちゃんは!」


 横から尋ねるように投げ掛けられた東山さんの言葉に被せるようにしてカッシーは苛立たし気に怒鳴った。

 さっきだってギリギリの辛勝だったのだ。こんな奴とまともに戦っても勝ち目はないだろう。

 だが姿の見えない少女を放って逃げるわけにもいかない。まさに八方塞がり――

 カッシーは舌打ちする。

 

―あの女の気配は感じねえ。近くにはいねえな―

「いない? どういうことだよ!?」

―そこまで俺が知るか。で、どうするんだ? やるのか? 逃げるのか?―


 会話もそこまでだった。

 ホールに未だわんわんと余韻を残す咆哮をあげた大鼠セキネは、前肢を駿馬の如く振り上げて、突進を開始する。


「や っ て ら れ っ か !」


 もちろん逃げる!――

 ちっ、という時任の舌打ちが聞こえてきた構ってる暇はない。

 行方が心配ではあるが、なっちゃんがいないのならば選択は一つしかない。

 少年の言葉を合図に、三人は蜘蛛の子を散らすようにして各々別方向へ離脱を開始した。

 瞬時に三方向へと散った獲物を一瞥し、大鼠は戸惑うように嘶く。

 だがすぐに目標を一点に定め、甲高い鳴き声を一つあげると、獣は決定した最初の『獲物』目掛けて突進を再開した。


「ざけんなボケッ! なんで俺なんだよっ!」


 途端に背後から自分を追うようにして轟きだした足音に、最初の獲物カッシーは思わず叫ぶ。


―ケケケ、そりゃさっきお前にやられたからだろ?―

「執念深い奴だなっ!」

「カッシー! 気を付けるッス、撃ってくるッスよ!」

「はあっ!?」


 と、口早に叫ぶチョクの声が聞こえて、カッシーは全力疾走で逃げながらもちらりと背後の様子を窺った。

 その視界に見えたのは、はたして眼鏡の青年が言った通り、ぱっくりと開かれた口から灼熱の炎を迸らせる火炎弾を放とうとしていた大鼠の姿だった。

 

 ネズミになろうがやる事は一緒かよ!?

 まったくポンポン景気良く打ちやがって――

 

「くっそ!」


 叫ぶと同時に、我儘少年は横っ飛びで地に伏せた。

 刹那、背後から大砲が放たれたような空気を揺るがす低い音が聞こえたかと思うと、少年の脇を熱が通過する。

 恒星の如く煌々と輝くそれは一瞬のうちにホールの壁に到達し、そして爆音と共に壁を『吹き飛ばした』。


 そう、先刻のように壁で炎上するのではなく。

 壁を吹き飛ばしたのだ。

 

「は、反則だろ……」


 開いた口が塞がらないとはまさにこの状況のことだ。

 あんなの食らったら一撃で骨も残らないっつの――

 粉々になって火の粉を散らす壁を眺めながらカッシーは呟く。

 だが状況を思い出し、彼は慌てて立ち上がると額に青筋を浮かべながら大鼠を振り返った。

 

「ざけんなこのネズ公っ、逆恨みも大概にしろっつの! お前が勝手に襲ってきて勝手に負け――」


 と、威勢よく啖呵を切った少年に対し、大鼠は爛々と輝く紅い眼球をギロリと向けた。


 そしてすぐさま放たれる大咆哮。

 黙れこのガキッ! いいからそこを動くな。頭から食ってやる!――まるでそう言わんばかりに大鼠は吠える。

 

 その凄まじさにそれまでの威勢は何処へ行ったのか、カッシーは思わず後退りごくりと息を呑み込んだ。

 

「うっ……お、覚えてやがれ……」

「もうっ、なにしてるの柏木君っ!」


 喧嘩売ってる場合じゃないでしょ?――

 一直線に離脱していた東山さんは、駆け抜けざまになっちゃんのチェロとケースを拾い上げるとカッシーを振り返る。

 と、チョクも足を止め弾む息を抑えながらカッシーを振り返ると、彼は一点を指差し、誘導を試みる。


「カッシー通路ッス! 通路に逃げ込めばこいつは追ってこれな――」


 ドンッ!――と。

 眼鏡の青年の言葉を遮り、再び響く砲撃音。


 通路に逃げ込めば巨体が邪魔をして大鼠やつは追ってこれない――

 そう指示しようとしていたチョクは、しかし前方から吹いてきた爆風に絶句しながら、先導しようとしていた通路を振り返った。


「……野人の時より賢くなってないッスか?」


 特大火炎弾の直撃により崩落した通路の入口をまじまじと凝視しながら、彼は眼鏡を曇らせる。

 青年のそのボヤキに対して、大鼠は笑うように口元を歪ませた。

 これはまずい。ホールに通じている路はあと一つしかない。

 それを塞がれる前に逃げなければ――

 チョクは急ぎ踵を返すと、西へと続く通路目掛けて足を踏み出す。

 チェロを抱えた東山さんも彼の意図を理解すると、全力疾走で通路目掛けて走りだした。


 だがもう一人、獲物と認定された我儘少年だけはそうもいかない。

 二人の後を追うようにして同じく走り出した少年の背後から案の定大咆哮が木霊した。

 

 逃がさない。お前ら全員皆殺しだ―――と。

 

「しつこい奴だなちくしょう!」


 足には割と自信があるが、獣と比較にはならない。

 全力疾走で通路目掛けて走る少年の背後に迫る大鼠の足音は徐々に近づいてきていた。

 

「柏木君っ! 早く!」

「こっちッス! カッシー!」


 滑り込むようにして通路に飛び込んだ二人が、同時に少年を振り返って手招きする。

 だがしかし――

 二人の表情がみるみるうちに強張っていくのに気づき、カッシーは舌打ちした。

 同時に背後が陽の光のように煌々と明るくなり、逃げる少年の影を床に生み落とす。


 ま た か よ っ !


 もう見なくてもわかる。どうせあれだ。さっきからバカの一つ覚えのようにバンバン撃ってる火炎弾あれだろ!――

 膨大な熱がじりじりと首筋を焦がすのを感じながらカッシーは歯を食いしばった。

 間に合うか。入口まではあと少し、だがちょっとまずくないか? この向きでこいつが火炎弾を放ったら――

 

「こいつまさか――」

―こりゃお前ごと通路を破壊するつもりだな―

「嬉しそうにいうなこのナマクラ!」

―ケケケ、本当に賢くなってんじゃねえかこの鼠―


 少年の思考を読み取ったように皮肉な笑い声をあげた時任を怒鳴りつけ、カッシーは東山さんとチョクを向き直る。


「委員長、チョクさんそこから離れろっ! 巻き込まれるぞっ!」


 と――

 叫んだカッシーの声に押されるようにして音高無双の少女と眼鏡の青年がその場を離れようとした時だった。

 やにわに背後で唸るような風が吹き荒れたかと思うと、二人の真横を何かが通過する。

 滑り込むようにして通路に飛び込んだカッシーと入れ替わるようにしてホールに飛び出したそれは、今に火炎弾を放とうと大口を開けていた大鼠に襲い掛かった。


 途端にホールに轟く苦痛と驚愕に満ちた獣の咆哮――


 一体何が起きたのだろう?

 突風に吹き上げられた髪を押さえ、何事かと東山さんはホールを見据える。


 彼女の目に映ったのは、旋風つむじかぜ……いや小さな竜巻だった。

 ホールへと飛び出したその緑銀色に輝く竜巻は、まるで意思を持ったように大鼠を包み込み、動きを封じていたのだ。


「こりゃ……なんスか?」


 悶え苦しむ大鼠を呆然と眺めながらチョクが呟く。

 と、そこでカッシーと東山さんは気づいた。

 踊るようにして大鼠に襲い掛かるその竜巻の動きと合わせるようにして通路の奥から響いてくる馴染みのある音色に。

 音色は二つ、いずれも弦楽器では旋律を担当する『高』と『低』それぞれの花形。

 そして耳に届いてくるこの曲は、元の世界の楽曲。

 

 カール=ニールセン作曲 交響曲第2番 『四つの気質』 第4楽章 副題は『多血質』――


 そうつまり、この竜巻は――


「――魔曲か!?」

「カッシー! 委員長! 早く今のうちっ!」


 困惑と歓喜、二つの感情を言葉に乗せて呟いた我儘少年を通路の奥から誰かが呼んだ。

 振り返った二人に向かって大きく手を振ってみせたのは、つい先程まで演奏していたのであろうチェロを左手に持った、童顔な少年だった。


 そしてその傍らに立ち、今もなお謳うようにヴァイオリンを奏でているのはそう。

 音高最『凶』の少女、音オケの初代首席奏者コンミス――

 

「か、柿原に――」

「なつき?!」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔付きで素っ頓狂な声をあげた二人を、片目を開けてちらりと眺め、悠木なつきはにやりと強気な笑みを浮かべてみせた。

 と、三人の背後で怒りの混じった大鼠の咆哮が木霊した。

 刹那、その咆哮を追うようにしてホールの四方八方で爆発が起こる。

 竜巻を追い払おうと、大鼠は怒りに任せて火炎弾を放ったのだ。

 朽ちかけた古城のホールはその爆発に耐えられず、途端に揺らぎだす。


「まずい、崩れるッス!」


 パラパラと埃を落としながら振動を始めたホールを眺めチョクは叫んだ。

 同時にヴァイオリンの演奏が止まる。

 

「ちょっとぉ、何ぼさっとしてんの? とっとと逃げるよカッシーに恵美、それとメガネのオッサン!」

「オ、オッサ――」


 だが文句ありありで反論しようしたチョクの言葉は、勢いよく床に落下したホールの天井の衝撃によって遮られた。

 もはやホールは限界のようだ。

 魔曲の演奏が止まり、緑銀色の竜巻もその勢いを弱めつつある。

 三人はお互いを見合うと、なつきの手招きに従って通路の奥へと駆け出した。


 と――

 

 フシュルルルー……フギャアアアッ!!――

 

 一際甲高い大鼠の咆哮が少年を呼び止めるように聞こえて来て、最後尾を駆けていたカッシーは振り返る。

 瓦礫が降り注ぐホールの下、紅い毛皮を煌々と輝かせながら息巻く大鼠は少年を見据えていた。

 

 待てよガキ、逃げるのか?――

 

 獣の真紅の瞳がそう語っているように見えて、我儘少年は途端に額に青筋を浮かべ鼻を鳴らす。

 

―ケケケ、上等だ。買ってやれよ小僧―


 察した妖刀が小粋に笑い少年にはっぱをかけると、カッシーは『いっ』――と、歯を剥き大鼠を睨みつけた。


「うるせーこのネズ公! 覚えてろよ? 次に会ったら絶対毛皮コートにしてやるっつの!」


 

 ズシン――


 

 大きな振動と共に通路が塞がれ、大鼠の姿が瓦礫の向こう側に消える。

 フンと鼻息を一つ吐き、カッシーは踵を返すと通路の奥へ仲間を追って走り出した。

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