ナベやん

別府崇史

ナベやん

 十年来の友人がいる。ナベやんという。

 大学入学二日目につけられたあだ名である。


 愛媛出身の彼とは神奈川の大学で出会った。

 卒業後も縁は切れず、三十を超える今でも週末となると生中一杯二百九十円の居酒屋でとりとめのない話をする。

 互いにボンクラ同士。女の話とギャンブルの話。二、三ヵ月後の果たされないであろう約束の話である。

 中性的な顔立ちにちょこんとのった髭、学生のようなカジュアルなファッション。趣味嗜好も大学生とさほど変わらない。新宿と風俗遊びが大好きである。

 ルックスは悪くない。酔っ払った私が容姿を褒め称えることをやけに嫌う。


 私はここ四五年、ふと思い立ち怪談蒐集を始めている。趣味として何十人にも話を聞いたが彼くらい怪異への吸引力がある人間は知らない。

 つい先日も阿佐ヶ谷の立ち飲み屋で飲んでいると「こんなことがあったんやけど」と話し始めた。

 深夜ぼんやりとドラマを見ている。

 某アイドルグループ(あの男版AKBのグループだ)が主演する、深夜の枠に入るドラマ。

主演男優が自室で一人苦悩するありがちなシーンだった。ナベやんは乾いていく鼻くそを眺めるように見ていた。

 男の後ろにモザイクがかかっている女がいる。切断されたように腹から下は無かった。

(この女性は何かの伏線なんかな)

 展開に期待して最後まで眺めたが、ついぞ終わるまでその女性の存在には触れられなかった。

 意味がわからなかったという。

 終了後どれだけネット検索をしたところで、そのことについて言及している情報は拾えなかったそうだ。

「ああいうのなんやろうなぁ、俺だけが見えてんのかなぁ」


 怖い話コレクションに行脚していると金縛りの話は度々耳にする。

 ある女性からは金縛りの解決策としては「身体の一部に意識を集中するのがいい」と教わったことがある。

 例えば足の親指に意識をする。すると身体はそこを基点として解凍されるように動き出す。

 しかしナベやんの長年続く宿痾のような金縛りはそれくらいではビクともしない。

 覚醒するも、身体は動かない。

 ナベやんは気づかざるをえない。

 腹部の上に座る女に。垂れる髪が頬に触れ、むず痒い。

 髪の隙間から見える表情は木炭を思わせる真っ黒だ。女は首に両手を回してきたり、視界ぎりぎり部屋の隅に佇んだり、一瞬の意識の沈殿の隙に添い寝をかます。

 その状況からナベやんが抜け出すには絶叫しかない。悠長に爪先に力をこめることなぞできないという。

 彼はこの悪夢を、思い返せば十代前半の頃から現在まで隙間なく続けている。

 私は直接二度聞いた。

 普段のけだるそうな愛媛弁とは一変した、鶏の放つ断末魔の悲鳴のような高い声に身震いした。雑魚寝したニセコの民宿とゴキブリ這う初台のシェアハウスで。「あああああああああ!」飛び起きるとナベやんは痴呆老人のように目を口を、だらしなく開けきって振動させていた。その瞳の中には何も映っていなかった。「ナベやん、なぁナベやん」反応はなかった。私の戸惑いは彼のピンクな口腔に吸い込まれていった。ああああああああ!

 薄暗闇の中、悲鳴を垂れ流すナベやんが、私の目には灰色の死者の顔のように映った。


 この手の話を彼は学生時代から続けている。

 大学生の頃、ナベやんは不可思議な事故に巻き込まれている。事故自体はありがちだが短期間に四つも重なるケースの確率はどれほどのものなのだろうか。

 国道246号をボンボンのインプレッサで疾走していると、まるで東北の雪道を走っているときのような強烈なスピンが起こる。交差点が赤信号でなければ対向車からの一撃がナベやんの横面をしたたかに引っぱたいたはずだ。

 大学からの帰路、ヤマハTWを運転していると前日の台風のせいで垂れ下がった電線に首をもっていかれ、まるでジャッキー映画のように転倒する。

 当時の住まいである川沿いのマンション。六畳プラスのロフトで寝ていると、天窓が降ってくる。七十センチ四方はある枠と、はめられたガラスが頭上に落ちてくる。間一髪で無意識に頭を動かしたのか、はたまた僥倖なのか枠の角が頬を直撃するのみに終った。あと数センチずれていれば彼のどちらかの目は潰れていた。

 講義が終わりアパートにたどり着く。マンションのまわりには消防車が捨てられた老犬のように鎮座している。階段を昇る。びしょびしょに濡れたドア。隣室から小火が起きていたという。天窓が降り落ちてきた日から三日と経っていなかった。

 この間、深夜三時に鳴る非通知からの電話は連日続いていた。

 録音した音声を当時聞かせてもらったが機械音のような声で「もしもしぃ。もーしもーしぃ」と続けるばかりだった。彼は寝る前に携帯の電源を落とす習慣がこのときについた。


 彼の母親の身にも全く同じ金縛り現象が起こるそうだ。

「妹がな、気味わるいわおかんーって怒るんやけど、しゃーないんよ」

 正直いって、呪いという言葉が脳裏をよぎった。

 二十一世紀にあるのかと驚いたが、彼の地元の町ではいまだ御祓いのシステムが現存しているという。彼の妹も兄も、もちろん母親も御祓いを受けている。

「兄貴はあれやもん、俺と一緒でそんなん金の無駄やろって嫌がってたんやけど」

 高校陸上の大会直前に二度足を骨折する出来事から、素直に御祓いを受けることにしたという。

 ナベやんは「高いやろあんなん」といまだ御祓いの類は受けていない。


 現在の話をしよう。

「掃除をしようって思っとたんよ。話したやろ、二年前の街コンであった女に久々連絡いれたって」

 今の四畳半の部屋に? という言葉は飲み込んだ。親しい仲だからこそ指摘すべきでない事柄がある。

 彼の部屋は女子高の通学路に面するアパートの角部屋にある。2階だが道路を挟んだ向かいの家から覗かれることを恐れ、彼は窓ガラスに射光性のテープを全面に張ってある。そのせいで外から眺めると、やや病んだ空気が見受けられるが本人はそれ自体には気にしていない。せっかくだから空気の入れ替えをしようと窓に手をかけたが開かない。

 よくよく見ると出窓にはめられたガラスにはことごとくひびが入っていた。テープのせいだろうきっと、と互いに話し合ったが真相はわからない。

 ともかくナベやんはデートする女の子が部屋に来たときの為に一応掃除をした。

 机の下に潜る。

 蛍光灯の白光が、パソコンデスクの下に嘘臭い影を作る。万年床のカーペットをまさぐるとゴキブリの触覚じみた陰毛が指に挟まる。

 端を掴むとぐじゅりと指が沈む感覚があった。

 濃緑の黴がびっしりと生えていた。

 うわうわぁぁぁと雄叫びをあげながら確認すると黴は床から壁まで続いている。

 なんだこれはと指で追いかけると壁紙の裏まで変色していた。接着がゆるくなった壁紙に触れるとぺロリとめくれる。壁に触れるとあるべき弾力がない。押すと穴が空いていた。隙間風が彼の指を撫でる。

「穴があいてたんよ。こんなん、ある?」

 ない、と私は答えた。


 ナベやんは祟られているのだろうか? だが前述の体験でも、今までの彼の半生でも、致命的な大怪我というものは起きていない。

 身体を壊せば一発で破綻するような生活を送るが、卒業後十年近くも精神も身体も病むことなく過ごせている。まともな人間からすれば綱渡りのような日々に映るだろうが、ナベやんは気にしていない。

 ゆえに私は安心していた。守られているのではないかと。

 彼の一族を見守る強力な守護霊がいるのではないかと妄想じみた仮説をたてていた。

それはさほど間違っているとも思えず、どこか安心して彼を眺めていることができた。

 あの晩までは。


 名古屋の友人が東京に出張にきたときだ。

 私のアパートを宿にするため、取引先にしこたま飲まされた彼は千鳥足で向かっていた。

 大学の同期であるためナベやんとも友人だ。

 酔った彼はナベやんの家にも酔っていこうと考えたという。

 覚束ぬ足取り、吐瀉物を数歩ごとに撒き散らしさながらなめくじのようにのたくった歩きだった。

 幾度目か電柱に腕を預けていると、私のアパートまでもう少し。ナベやんのアパートが見える。道路に面する部屋は明かりがついている。目を擦る。

 女が立っていた。身長4メートルほどの長髪の女だ。顔は真っ黒だった。木炭のように。女は覗き込んでいる。部屋を。太い指を口元と思われる箇所からナベやんの窓に。まるで障子に穴をあけるようだったという。

 友人は焦る手で携帯を取り出し、ナベやんに電話をした。

「おー久しぶりやん。東京いつ来るんやったっけ?」

 学生時代から変わらないソプラノの声だった。

 あまりに普段通りすぎる声に、自分の見ているものは何かと間違いだと友人は思った。こんなことがある訳がない。アルコールが見せる幻覚だと思った。

 友人は眩暈を感じたまま明日の昼食を約束し、電話を切ったそうだ。

 私の家に着くころにはすっかり酔いが覚めた友人の説明を聞きながら、私は自分の仮説が間違っているのではないかと思い始めた。

 その晩、二度私はナベやんに電話をかけたが出なかった。

 翌日の昼に電話がかかってきた。

「わりぃわりい。寝とった」

 昨晩友人から電話があった時はすでに布団の中、寝る直前だったそうだ。

 ――女は待ち構えていたのではないか。

 ナベやんの部屋へ。布団に忍び込むタイミングを。

 そば屋で合流してから私は尋ねた。

「お前昨日金縛りあった?」

「おお、なんでわかるん」

 なんとなく。

 そう言い返しながら、頭をひらめくものがあった。

 思い立った新たな仮説。

 ――守護霊なんてものはいないのではないか。

 だがただ憑いているのとも違う気もする。

 ――離すつもりがないのではないか。ずっと手元にナベやんを置いておくつもりなのではないか。いつまでも、いつまでも。

 流石に友人といえど不吉すぎる発想を口に出すことが憚られ、解決法も持ち合わせていない私はその時の飲み代をもった。

「ピンサロいこうや、この時間なら安いやろ」

 ナベやんの笑顔は一切の邪気を感じさせない。

 数少ない友人がどこか暗くて深いところに引きずられていかないことを願うばかりである。


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ナベやん 別府崇史 @kiita_kowahana

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