東京の冬*

カワヤマソラヒト

東京の冬*


 ドアを開けると、そこにボリス・ヴィアンがいた。

 愛用のトランペットを片付けるところだった。

 ヴィアンは椅子に座っていた。


「今日はもう吹かないぜ」


 心臓が抜かれそうに痛いんだ。

 ヴィアンはそう理由を補足した。

 冗談に聞こえるが、ヴィアンはに心臓が弱かったのだ。


「さっきまでダリウス・ミヨーがいたんだけども。紹介してやれなくて残念だ」

「ミヨーなら、私も会ってみたかった。もっと早く来ればよかったか……」


 私は言った。


「それと、セルジュがおまえによろしくってさ」


 ヴィアンはトランペット・ケースからクロスを取り出しながら言った。


「セルジュ? ああ、ゲンズブールか」


 ヴィアンは答えなかった。

 銀色に光るトランペットをクロスで拭きながら、ヴィアンは話題を換えた。


「そろそろ違う楽器も試したい。実はテナー・サックスに興味ありだ」

「テナーをやるなら、ヤスアキ・シミズの『北京の秋』というアルバムが最高にイカしてるぞ」


 私はヴィアンに教えてやった。


「どこかで聞いたことのあるタイトルだ」


 ヴィアンは言った。


「そう言えば……北京には、赤い草が生えているらしい」


 ヴィアンは思い出したように言うと、トランペット・ケースの蓋を閉じた。

 赤い草だなんて、今度は本当に冗談かもしれない。

 私はそんな気がした。


「ちょっと歩いてみるか」


 ヴィアンはうつむくと、床に話しかけるようにつぶやいた。

 私はヴィアンの後から階段を上がった。


 外に出た。

 深夜のパリは不思議なことにまったく人影がなかった。

 街中が寝静まっているようだ。

 ヴィアンと私は静けさを味わいながら歩き続けた。


 突然、静けさは破壊されてしまった。

 裸の女性の一群が嬌声を出しながらヴィアンに近づいて来たのだ。


「冗談じゃない。逃げるぞ」


 ヴィアンは走り出した。

 仕方がないので私も走った。


「彼女たちには……判らないんだ」


 ヴィアンは言った。

 息が切れそうだった。

 私はヴィアンが心配になった。


「つらそうだぞ。もうまいたようだから、少し休もう」

「そうか……どうにか、助かったようだな」


 ヴィアンは喘ぎながら言うと、なおも続けた。


「あんなに騒いだら、安らかに……眠っている奴等も、みんな起きちまう」


 私はヴィアンらしい言い回しだと思った。


「アンダンの騒乱じゃあるまいし、せめてもう少し静かにしてほしい」


 そう言うと、ヴィアンは右胸を右手で押さえてしゃがみ込んだ。


「おい、心臓なら左胸だぞ」

「おっと、そうだったな」


 ヴィアンはしゃがんだまま、左胸を左手で押さえた。

 とぼけたヤツだ。


「最近、忘れっぽくてね。そのくせ、まだボクはくたばりたくないんだ」


 落ち着くまで休むと、ヴィアンはまた歩きだした。

 私はヴィアンについて行った。

 少し先に墓地が見えてきた。

 ヴィアンの声が聞こえた。


「40になる前に、死んじまうつもりなんだけどな」

「物騒なことを言うのはよせ」


 私が止めても、ヴィアンは話し続けた。


「もしボクがくたばったなら」


 ヴィアンは私の目を見て言った。


「この墓地のどこかに埋めてくれ」

「なんで私が?」

「おまえだっていつかはくたばる。おまえが先なら、ボクが埋めてやる」

「そうか……」


 ヴィアンを葬る、そんなことは考えたくなかった。

 しかし、ヴィアンが私を頼りたい気持ちは分かっていた。


「そういうことならお互いさまだ。引き受けてやる」


 私の言葉に、ヴィアンはニヤリとした。


「おまえもボクも、死の色はみな同じだからな」


 ヴィアンは何か思うところがあるようだった。


「ボクが先になったら、ボクの墓に唾をかけてくれ」

「何を言ってるんだ! いくら私たちの仲だって、そんなことはできない」


 私は声を荒げてしまった。


「ちょっと待ってくれ」


 ヴィアンは明らかに戸惑っていた。


「おまえがそうしてくれたら、ボクは人狼になって蘇れるんだ」


 それはヴィアンお得意の冗談だと、私は思った。

 けれども、もしそれが本当なら、どうなっていようとヴィアンがいてくれるなら、私に迷うことはない。


「冗談にしてもそれは面白そうだ。乗ってやろう」

「よかった。頼りにしてるぜ。お礼にメドゥーサの首でもとってきて、おまえにプレゼントする」

「そんなの要るもんか」

「蘇ったら、その瞬間からボクはヴァーノン・サリバンと名乗る。覚えておいてくれ」


 ヴィアンと私はまだしばらく歩いた。


「クロエのことだけども……」


 唐突にヴィアンは言った。

 クロエとは、ヴィアンの恋人の名前だ。

 私はクロエが入院していることをヴィアンから聞いて知っていた。


「もう危ないらしいんだ」

「だったらこんなところを歩いてる場合じゃないだろう」


 私の方がかなり慌てていた。

 ヴィアンは薄ら笑いを浮かべると、こう言った。


「肺の中に睡蓮の蕾ができたんだ。現代医学じゃお手上げさ。ボクにだってどうすることもできやしない」


 そんな病気があるなんて信じられない。

 私には冗談にしか聞こえない。

 本当に……。


「ジャン=ソオル・パルトルの著書に書いてあるんだが」

「パルトル? 誰だそいつは? 私はサルトルしか」


 ヴィアンは私を遮るように言った。


「ボクの友人のシックが……シック、知らないか」

「ああ、紹介されてないな」

「シックがパルトル好きで、一冊貸してくれてね。読んでみたのさ」

「パルトルって、実存してるんだろうな?」

「してようがいまいが、ボクはどっちでもかまわない」


 ヴィアンは何故かほくそ笑みながら言った。


「だが、書いてあるんだ、そこに」

「何がだ?」

「うたかたの日々はもう終わり、だと」


 私の目の前にドアがあった。

 ドアは開いていた。

 ヴィアンは私を一瞥してから言った。


「じゃあ」


 ヴィアンはそっと目を閉じ顔を伏せると、片手を挙げた。

 もう片方の手はトランペット・ケースを大事そうに抱えていた。

 来た道をのそのそと戻るヴィアンを見送りながら、私は昔ヴィアンから聞いた言葉を思い出していた。


── 北京にも、秋にも、関係ないんだ。


 ヴィアンはうそぶいていた。

 だからヤスアキ・シミズのアルバムを教えてやったのに……。


 私はドアを閉めた。

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東京の冬* カワヤマソラヒト @sorahito-t

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