社畜

あめのあいまに。

第1話

■5月17日 火曜日

 日が暮れてから大分経つ頃、俺はまだパソコンの前に座って黙々と仕事をしていた。

「お先でーす」

「お疲れ様です」

 形式的な退社時の決まり文句に、これまたこちらも素っ気なく決まり文句で返す。彼が退勤したことで、ついに室内には俺一人となった。

 最近はいつもこんな感じだ。失敗は大学時代から始まっていた。なかなか就職先が決まらない俺は当時焦っていた。大してアピールポイントもないのに、いわゆる大手病に罹っていたせいで春はまるまる無駄にした。

夏採用があるさと切り替えてみたものの、結局こちらも駄目だった。秋になると周囲は就活どころか内定式や入社前研修の話をし出す。ここまで来るともうなりふり構っていられない。どこでも良いから雇ってくれと目に付いたところに片っ端から応募した結果、内定をくれたのが今の会社だ。

当時の俺は何も考えられなかった。ただただ、就職活動が終わったことに安堵と喜びを感じていた。聞いたことのない会社だが、入ればなんとかなるだとうと、そう思っていた。

 入ってみてすぐに気づいたが、入社した先はブラック企業だった。額面給与は意味のわからない大量の手当で水増しされ、年四ヶ月を謳う賞与は雀の涙ほどの基本給をベースに計算される。残業は当たり前だし残業代が出ないのも当たり前だった。教育体制なんて整っているはずもなく、上司の理不尽な叱責が毎日のように新入社員を襲った。

 第二の失敗はその時期だった。転職を考えないわけではなかったが、つい半年とかそれくらい前まで就職活動をしていた自分は、もう一度同じことをするのに躊躇いがあった。いつ終わるかもわからない恐怖、安いプライドをズタボロにされる苦痛。最初からそうだったわけではないが、長く続ける間に、だんだん一社落ちる度に自分の全てが否定されたような気がして夜ごと枕を濡らした。

 そんな記憶が蘇って二の足を踏んでいるうちに、同期はどんどん転職していった。先輩も辞めていった。後輩も辞めていった。辞めない俺にはどんどん仕事が回されるようになり、転職活動なんて考える余裕もいつしかなくなっていた。

 そして気づけば数年が経っていたというわけだ。同期は既に一人もいない。後輩は一人だけ残っている。その状況で仕事は常に上から下へ流れてくる。これ以上後輩に辞められては堪ったものではない。後輩の分の仕事も一部引き取って、おかげで帰り際に会社の鍵を閉めるのが俺の日課となっていた。

 カタカタとキーボードを叩く音だけが響く。そうしているとどんどん視界が狭くなって、音もにおいも、何も感じなくなってくる。感覚の全てがそぎ落とされて、ただ仕事をするだけの機械になっていく。このまま本当に機械になってしまえれば楽なのだろうか。

「あら、今日も残ってたの」

 突然、声をかけられて現実に引き戻された。

「先輩こそ毎日遅くまで」

 顔をあげた先にいたのは、社会人としては若干ラフな格好をした我が社の数少ない女性社員だった。

「私は良いのよ。ほら、コーヒー買ってきてあげたから、これでも飲んで少し休みなさい」

「ありがとうございます」

 先輩はいつも皆がいなくなってからやってくる。俺ほどではないにしろ、相当仕事を抱えているようだ。彼女がやってくるようになったのは今年度に入ってからだ。見かけない顔だったので、もしかしたら転職組なのかもしれない。最近では、この先輩と夜の密会……というには慎ましすぎる世間話をするのが、働くうえでの数少ない楽しみの一つとなっていた。

「私が言えたことじゃないけど、あまり根を詰めずに体を大事にしなさいよ?」

「ええ。わかってます」

 三十分ほど話し込んだところで先輩がそう言った。自分としてもそうしたいのはやまやまだが、とはいえすぐにどうにかできる問題でもないし、当分は気合で乗り切るしかないだろう。

「それじゃあ私はそろそろ失礼するわ。くれぐれも無理は禁物だからね」

「気をつけます。お疲れさまでした」

 夜も大分遅いのだが、危ないから送りますとは言えなかった。まだまだ目の前にある仕事を片づけなくてはならないからだ。せめてもの気持ちとして、先輩が部屋を出るまで静かにその姿を見送った。


■5月18日 水曜日

 クソみたいな会社だが、交通費だけは満額出る。夜はタクシーで帰宅して、朝はぎりぎりまで寝て通勤中にコンビニで昼飯を買うというのがルーチンだ。それでも睡眠時間は全然足りない。多少遅刻しても気にしないと上司は言うが、それで仕事の量が減るわけでもなし、結局睡眠時間を犠牲にするしかないのだった。

「あれ、足りない」

 いつものように立ち寄ったコンビニでレジに商品を持っていき、いざ会計という段になって小銭が足りないことに気づいた。確かにあまり入っていなかったが、ギリギリ足りるくらいはあると思っていたのに。

「すみません、ちょっと変えてきます」

 気づかないうちに使い込んでいたのかもしれない。数百円の買い物すら満足にできないことと自身の資金すら把握できていないことに、恥ずかしさと情けなさに包まれながら、俺はレジを離れ商品棚へと向かった。


■5月20日 金曜日

 今日も今日とて残業である。片づけても片づけても終わらない仕事に嫌気が差してくる。何が悲しくて俺はこんなことをしてるんだろう。誰もいないオフィスで。考えないようにしていたことを考えてしまい、モチベーションが一気に下がる。仕事をする手が止まり、上の空で座っていると、扉が開く音がした。

「お疲れ様。毎日大変ね」

「お疲れ様です」

 いつも通りそこには先輩の姿があった。こんな時間だというのに彼女は疲れた様子一つ見せず、まっすぐ背筋を伸ばして立っている。

「調子はどう?」

「ばっちりですよ」

 さっきまで完全に心が折れていたのに、つい強がってしまうのは男の性というところか。

「そんなこと言って、死んだ魚みたいな目してたわよ」

 せっかく格好つけてみたものの、残念ながらお見通しだったみたいだ。執務室に入った先輩が近くの机に腕をつく。大胆に開かれた胸元が目の高さにきて少しドキリとする。誰もいない夜のオフィスで、こんな、俺が男だということを忘れているんじゃないだろうか。もちろん、俺にどうこうする度胸もないのだけど。見破られているのか、信頼されているのか、はたまた異性として見られてないのか。聞くわけにもいかないので、こういうときはプラスに取っておこう。

「あんまり無茶はしちゃダメよ。体壊したら元も子もないんだから」

「わかってますって。それに今さっき先輩から元気貰いましたからね」

「? そう?」

 疲れて頭が回らなくなっているのか、つい余計なことを口走ってしまった。幸い先輩は意味がわからなかったらしく、不思議そうな顔をしていたが。先輩に嫌われたりしたらこの先生きていける自信がない。発言には気をつけないと。

 それからいつもみたいに雑談をして、先輩は帰っていった。

 ……もうちょっとだけ頑張るか。


■5月21日 土曜日

 休日、それは休む暇のない平日を過ごす者にとってまさしくオアシスのようなものである。

 多くのサラリーマンがそうであるように、俺も特になにをするわけでもなく惰眠をむさぼっていた。何もしないことの有難さを実感できるのは、平日が忙しすぎるおかげだな。

 自嘲気味にそんなことを思っていると、スマートフォンが突然震えだした。

 着信だ。俺の体も震えだした。俺には休日に連絡をくれるような友人の類はいない。そもそも電話番号を知っている人間が数えるほどしかいない。もしかけてくるとしたら家族か、もしくは……。

 悩んでいる間もスマートフォンは鳴動をやめない。取りたくない、取りたくないが、最悪の可能性を考えると取らないわけにもいかなかった。

 果たして電話の相手は最悪の想像通り、上司からだった。

「おはよう。今からちょっと会社来れるか?」

「……わかりました」

 断る勇気は持ち合わせていなかった。カレンダーを見て溜め息をつく。今月はまだ三日くらいしか休めていない。GWなんてもってのほかだ。完全週休二日制ってなんだっけ。

 そんなことを考えながら、俺は出社の準備を始めたのだった。

 休日出勤に無理やり良いところを見つけようとすれば、それは人の少なさだろう。平日のラッシュでは味わえない開放感を全身で感じ取ることができる。だが、ぽつりぽつりと存在する同乗者たちがこれから遊びに行くのだろうと考えると、やっぱり清々しい気分にはなれなかった。

 職場と自宅は数駅離れたところにある。ドアツードアで四十分かからない程度だ。もっと近くにすることもできたのだが、精神衛生上あまり会社の近くに住みたくなかった。むしろ始めのうちはもっと遠くに住んでいたのだが、働くうちに今の場所に引っ越したのだった。残業してもなんとか帰れる近さで、職場をフラッシュバックしない程度には遠い。

「きゃっ」

 駅を出てから上の空で歩いていると、曲がり角で誰かにぶつかってしまった。

「大丈夫ですか? すみません、ぼーっとしてて」

 ぶつかったのは十五、六歳くらいの少女だった。制服を着ていることから中学生か高校生だろう。

「はい、全然大丈夫です……痛っ」

 少女は元気よく立ちあがろうとして、苦痛に顔を歪めてすぐに座り込んでしまった。靴下を脱ぐと、足首が酷く腫れていた。白い肌と対比して余計痛々しい。折れてはいなさそうだが、安静にして冷やしておく方が良い。

「無理しちゃ駄目だ。運んで行くよ。どちらだい」

「いやいや、大丈夫ですよ。大した怪我じゃないですし、ご迷惑おかけするわけには」

「そんなこと言って、その足じゃまともに歩けないだろう。ほら、乗って」

 それじゃあお言葉に甘えて……と申し訳なさそうに言った彼女の目的地は、会社と反対方向だった。


 俺は柔らかな感触に包まれながら驚くほど軽いその少女を背負って歩いていた。さっきは疲れからか頭が回っていなかったが、冷静に考えるとこれはかなりヤバい絵面ではないだろうか。幸いというかなんというか、彼女の方は気にしていないようだが、俺は周囲の視線に殺されそうな気分だった。今からでもタクシーを呼ぶか……と考えて、財布を忘れてきたことに気づいた。急いで家を出たので、定期くらいしか持っていなかった。

「お仕事は何してるんですか?」

「システムエンジニアだよ」

「なんだか格好良いですね!」

 こちらの気も知らないで、女の子は無邪気に話しかけてくる。というか絶対どんな仕事かわかってないで言ってるだろ、この子。

「そんなに良いもんじゃないよ。激務だし、給料安いし、休めないし」

「そうなんですか。じゃあ転職とか考えてるんですか?」

「まあ、考えなくはないけど、なかなか動けないまま歳ばかり取っちゃったよ」

「そんな、まだまだお若いじゃないですか」

 とはいえ、若い女の子と会話することなんてあまりないから、普段以上に口が動いた。職場には若い子どころか女性自体いないからな。それに誰かと話す余裕もない。朝から晩までひたすらに仕事をする毎日だ。そう考えると、いかに異常な環境に身を置いているかがわかってしまって、なんだか悲しくなってくる。

「本当にここで大丈夫かい?」

「ええ。ありがとうございました」

 俺はバスターミナルで彼女を降ろした。バスなら座っていけるだろうし、降りたら家はすぐ近くだと言っていた。自宅まで送っていくことも考えたが、やめておいた。知らない男に自宅の場所を知られても落ち着かないだろう。俺も時間的にそろそろ会社に向かわないとまずかったので、ここでおわかれとなった。バスが走り去った後、駄目もとで連絡先の一つでも聞いておけば良かったかなと少しだけ後悔した。

 会社では上司がカンカンになって待っていた。それはそうだ。連絡があってから大分時間が経ってしまっている。しかし、いつもなら気が滅入る上司の叱責も、今日の出来事を振り返るとまったく辛くなかった。当然予定されていた作業は終わらず、俺は日曜日も一人出社することになった。

 もしかしたら明日も会えたりして、なんて都合の良い話は流石にないか。


■5月22日 日曜日

 人もまばらな朝の電車で、俺は見知った顔を見つけた。

「あ……」

「あ、おじさん! 昨日はありがとうございました」

 まさか本当に会えるとは思っていなかった。彼女は俺に気づくと元気いっぱいにこちらへ寄ってくる。

「足はもう平気なのかい?」

「おかげさまで。ほら、ご覧の通り」

 そう言って彼女は片足でけんけんしてみせる。危ないからやめなさいと言うと、はあい、と苦笑いしながら上げていた足を下げた。だが、どうやら本当に治ったようだった。大事にならなくて良かった。

「日曜なのに朝早くからどちらまで?」

「うん、ちょっとお出かけ。おじさんは?」

「おじさんは仕事だよ」

 それから少女と少しの間他愛もない話をした。こんな働き方をしていると日に日に何も考えられなくなっていってしまうが、昨日今日とこの少女が日常の一場面に加わったことで、なんとなく気持ちがリフレッシュされた気がする。

「それじゃあ俺はここだから」

 少女との別れに名残惜しさを感じつつ、俺は日常へと降り立った。走り去る電車を見送りながら、彼女はどこまで行くのだろうと考えた。そういえば名前も聞いていなかったな。少女のことは何も知らないが、そんな彼女とのひと時が働く元気をくれるというのだから不思議なものだ。


■5月23日 月曜日

 今日も今日とて週の頭から残業をしていた。外はとっくに真っ暗で、オフィスの中には自分一人しかいない。

「なんだか楽しそうね。いいことでもあったの?」

 気がつくと隣に先輩が立っていた。全く気づかなかった。この人は忍者の末裔か何かなんだろうか。

「いや、大したことじゃないんですけど」

 そう言って俺は先輩に、この土日に起きた出来事について話した。少女と出会って、ふとしたきっかけから縁ができて、何も知らない少女から少し元気をもらえたこと。珍しい体験だったので思わず話す方も知らず知らずのうちに力が入ってしまったが、聞いている先輩がなんだか悲しそうな顔をしていることに気づいた。

「安心してください。俺は先輩一筋ですから!」

 何が先輩にそんな顔をさせたのか俺には全くわからなかったが、ただそんな顔の先輩は見たくなかった。本当に俺が他の女性と親しげにしているせいでこんな顔をしているのなら男冥利に尽きるのだが、流石にそうじゃないことは俺でもわかる。それでも俺は先輩の気を紛らわせようと道化のように振る舞った。

「馬鹿」

 そう言って笑った顔はやはりどこか悲しそうだった。


■5月28日 土曜日

 俺は朝早くから電車に乗っていた。通勤時と同じ時間に通勤時と同じ経路を辿る。別に仕事があるわけじゃなかった。ただ、なんとなくあの少女に会えるんじゃないかと思ったのだ。仕事がない時は通りもしない道や乗りもしない電車も、こうやって休みの日に眺めるとまた違って見える。毎日のように通っていたはずなのに、立ち並ぶ店や道端に生える草花に初めて気づき、普段いかに視野が狭くなっているのか思い知らされる。

 そうこうしているうちに会社に着いてしまった。流石に働く気にはなれないので中には入らないが。

 残念ながら彼女に会うことはできなかったものの、良い気分転換になったと考えれば悪くない。最近はコンビニ弁当続きだったし、途中で飯でも食べて帰ろう。


■6月4日 土曜日

 中一週での休日出勤。平日より空いた電車に彼女はいた。

「やあ」

「おはようございます。また会いましたね」

 もはや慣れたものである。俺は流れるように声をかけ、相手も自然に返してくる。

「そちらこそいつもいるね。先週はいなかったみたいだけど」

「ええ、ちょっと。先週もお仕事だったんですか?」

 痛いところを突かれて俺は適当に誤魔化した。まさか君を探してうろついてましたなどと正直に言えるはずもなく、苦笑いを浮かべる。

「そういえば、あの店って知ってますか?」

 彼女が口にしたのは、会社の近くにある洋菓子店の名前だった。

「ああ、知ってるよ」

 危なかった。ちょうど先週会社近くを歩いた時に発見したのだった。怪我の功名というかなんというか。おかげで流行についていけないイケテないオジサンの烙印を押されずに済みそうだ。やはり視野を広く持つことは大事だなあ。

 働く前から一つ賢くなってしまった。もう今日はノルマ達成ということで良いんじゃないだろうか。

 勿論実際はそんなわけにもいかず、無情にも会社の最寄り駅に着いた電車から俺は降りて、少女との短い癒しのひと時を終わらせたのだった。


■6月10日 金曜日

 最近なんだか社内の様子がおかしい。なんか落ち着かないというか慌ただしいというか。別に仕事の量が減るわけでもなければ後輩が入ってきたとかそういうわけでもなかったから気にしてこなかったが、今日に至っては社内全体が浮ついた感じというか、落ち着きのない様子だ。

寝不足や疲労も相まってとても周中できそうにない。少し休憩しようと給湯室の前を通りかかった時、偶然たむろしていたOLの話が耳に止まった。

「……ういえば……さんなんだけど、こないだの……曜日に忘れ物を取りに戻ったら、誰もいないオフィスで……独り言って感じでも……怖かったわ」

「私もあの人のこと休日に見かけたんだけど、……虚空に向かって……り手振りしてて、あまりに不気味でせっかくの休みなのに台無しの気分だったわ」

 断片的にしか聞こえなかったが、彼女らの指す人が自分であることはわかった。

「そんなことよりさ、聞いた? うちもついに……噂は本当だったのねえ」

「あそこはメリハリはあるらしいけど、その分うちらまでキツくなりそうで複雑だわ」

 気づけば彼女らは別の話題へと移っていたが、俺は動悸と目眩に襲われて今にも倒れそうだった。陰口を叩かれていたからではない。あの日は、先輩といたはずだ。あの日は、少女と同じ電車に乗っていた。それなのに、なんで。

 まるで彼女たちの存在がいないかのような言葉に、俺は気が狂いそうだった。

その日のことはそれ以上あまり覚えていない。気がつけば自宅の布団に倒れこんでいた。


目を開けると、オフィスにいた。さっきまで自室にいたはずだが。

「おはよう、よく眠れた?」

 聞き慣れた声に振り向くと、そこには記憶通りの先輩の顔があった。

「先輩……」

「情けない声出して、どうしたの」

 思わず泣きそうな声を出した俺を心配してくれる先輩。何が変わっても、彼女の優しさだけは変わらないと信じられる。

「皆が、おかしなことを言うんです。それで、そんなはずないって。でも不安でどうしようもないんです。何を信じれば良いのかわからないんです」

 心のうちを抑えきれずぶちまけてしまった。子供のように必死に、支離滅裂に、出てくるがままに言葉を口にした。

「大丈夫ですよ」

 そう声をかけたのは先輩ではなく、あの少女だった。どうして、ここにいるはずのない彼女。

 そこで気づいた。窓の外の景色が物凄い速度で流れていることに。いつの間にか俺は電車の中にいた。

 いや、そうではない。室内の景色は変わっていないし俺は一歩も移動していない。ここは元からオフィスでもあり電車でもあった。

「あなたはとても頑張っています。それは他ならないあなたが一番知っているはずです。だから安心してください。きっと救われる日が来ます」

考えるまでもなくこれが夢であるとわかっていた。そしてそのことに甘えてされるがままにしている俺を、現実ではけして出会うことのない二人はとても優しくなぐさめてくれた。




 あれから特に変わったことはない。俺の噂話を耳にすることもなかったし夢に彼女たちが出てくることもなかった。残業すれば先輩に会うし、休日出勤すれば少女にも会った。変わったことと言えば、理不尽の塊みたいな存在だった上司が若干優しくなったことくらいだ。それを除けばいつも通りの毎日が続いた。

 そういう日々が幾日か続いた時、うちの会社が買収された。最近急速に成長していた準大手の同業他社だ。ブラック中小だった勤務先は、一晩でそこそこの規模のグループの一員になってしまった。突然のことだった。いや、皆は薄々気づいていたらしい。俺には誰も教えてくれなかったのに……。へー。

 急に会社の立場が変わりましたと言っても、仕事の内容が変わるわけではない。だけどまず上司が変わった。前の上司がどこへ行ったのかは知らない。役員も変わったらしいが接点もないし俺には関係ない。他には、フクリコーセーというものも変わったらしい。なにそれおいしいの。

 驚天動地の日から一日経って、俺は新しい上司に早速呼びだされた。俺みたいなノロマは新体制に不要だからクビだとでも言われるんじゃないかと内心怯えていたが、どうやらそうではないらしい。親会社、すなわち買収元の企業の基準に照らし合わせると俺は過残業というものらしく、グループ会社の社員なら誰でも利用できる産業医というものを紹介された。俺以外にも何人か、部署で残業が多かった人は同じような話をされたらしい。さらに新しい上司は頭を抱えながら、詳細な記録がないから出来ることは少ないが、先月の残業時間だけでも後で申告するようにと付け加えた。どうやら生まれて初めて残業代を貰えるらしい。今まで上司に呼ばれるときは、怒られる時か残業確定の仕事を任される時か休日出勤を言い渡される時だけだったのに、今度の上司はどれも言わなかった。

フクリコーセー、おいしい。

 

 平日に休みを取って、早速医者のもとへ行ってみた。医者にかかることなんて滅多にないし、平日に仕事をしていないのは就職して以来初めてのことだった。せっかくの休みだと言うのに、なんだか申し訳なくて落ち着かなかった。

 待合室で待ってる間はすることもなくて時間が経つのが遅く感じた。名前を呼ばれた時はただ部屋を移動するだけだというのに、とても解放された気分になった。

「今日はどうされました?」

 通された部屋にいたのは女医さんだった。俺より少しだけ年上だろうか。頼りになる姉さんオーラを全身にまとっている。

「いえ、働き過ぎだからと上司に言われまして」

 とりあえずはここに来るに至った経緯を話し、それからいくつかの質問に答えたり、一見診察と関係ないような世間話をした。最初は医者なんてと思っていのだが、流石プロというか、話しているうちにどんどん口が軽くなっていき、会社の愚痴やら不満やら言う気のなかったことまでボロボロ喋ってしまった。久々の有給休暇で少し浮かれていたのかもしれない。気がつけば“彼女たち”のことまで話していた。

 女医さんは俺が話し終えるまで黙って聞いていたが、俺が口を閉じると反対に口を開いた。

「防衛機制というものを知っていますか」

 女医さんが言うには、人には元から心身に対する負荷を軽減する機能が存在している。そのものではないが、俺の症状も過度な労働からくる心身負担が原因で起きている、すなわち彼女たちは妄想だと言うのだった。

「俺はですね、先生。残業も休日出勤も本当はしたくなかった。だけど、彼女たちと会えなくなる方が嫌なんです」

 なんとなく自分でも分かっていた。それでも受け入れるのは怖かった。今まで辛い時苦しい時になんとかやっていけたのは、彼女たちがいたからこそなのだ。俺にとっての真実はそれだけだ。

「大丈夫です。無理に治す必要はありません。ただ、定期的にこうやってお話をしましょう。他には何もいりません。それだけです。ですから、約束できますか?」

「まあ、それくらいなら」

 てっきり、治療をしろと言われるのかと思っていた俺は拍子抜けして女医さんの言葉に承諾してしまった。職場のOLにキモいと言われたこの症状を、手術も投薬もしないからゆっくり向き合っていきましょうとだけ言ってくれた。だからというわけではないが、しばらくは騙されたと思ってこの先生の元へ通うことにした。


 何も変わらないと思っていたが、日が経つに連れ仕事の環境はどんどん変わっていった。人員整理が行われた。配置転換で顔ぶれもガラッと変わり、知らない人が職場に増えた。仕事の量も現実的なものになって、休日出勤や行き過ぎた残業もほとんどなくなった。そのせいで彼女たちとも会う機会がなくなってしまった。その代わりというわけではないが、女医さんと話すことが数少ない仕事以外での会話という役割を担うようになっていった。彼女はとても優しいし、なんというかナイスバディで二人にはなかった魅力もあって目の保養にもなる。一緒にいて悪い気分はしなかった。

 そんな日が続いて、ある日、夢に二人が出てきた。俺は何も言えずに、黙って彼女あちと向き合っていた。二人もただ黙って微笑んでいた。俺は根拠もなく、これが最後なんだと確信していた。

「さよなら……ありがとう」

 せめて後悔だけはしないよう、別れの言葉を告げた。最近は人間らしい生活も送れているし、新しい楽しみも見つけられた。なんとか生きていけそうだ。ここまで辿りつけたのは間違いなく彼女たちのおかげである。

もしもっと早く辞めていたら、もっと早く同じような境遇になれたかもしれない。だけどIFの話をしても仕方がない。それを言うなら、もしかしたら転職活動に失敗してフリーターになっていたかもしれないし、転職先がもっと過激で彼女たちすら現れる余裕がないくらいだったかもしれない。一つ言えるのは、俺は辞めなかったし、彼女たちは俺を支えてくれたということだけだ。

 これは新たな始まりなのだ。笑顔で見送らないと彼女たちに失礼だ。俺は涙を堪えながら無理やり笑う。とても不細工な笑顔だったと思うが、彼女たちは優しい顔をしてゆっくり薄らいでいき、刹那目の前が真っ白になった。


 朝、今までにないくらいすっきりとした目覚めだった。まるで靄が晴れたように世界が鮮やかに見えた。同時に、やっぱり彼女たちは行ってしまったのだということも分かった。俺は出社すると上司に半休の申請をした。女医さんに経過報告と、お礼を言いに行くためだ。夢の二人が俺を支えてくれたように、彼女もまた現実へと俺を引っ張りあげてくれた恩人なのだ。

 いつかのように待合室で落ち着きなくそわそわしていると、ついに名前を呼ばれた。

最初にいう言葉は決めている。ただ素直に感謝の言葉を伝えるのだ。

頭のおかしい俺の言葉を馬鹿にしたりせず優しく受け止めてくれた。俺にしか見えない彼女たちのことを、邪険にしないで認めてくれた。

正直なところ、俺は彼女に惚れていた。チョロいと言いたくば言え。不釣り合いにもほどがあるし迷惑だろうからそっと心にしまっておくが、限界をとうに過ぎていた状態が続いた後であんなに優しくされてしまったら、落ちないほうが嘘というものだ。っと、少し調子に乗りすぎたか。とにかく、心の底から感謝しているというのは本当のことなのだ。それだけは真っ先に伝えたかった。

そして、弾む心を抑えきれずに開けた扉の向こうに、でっぷり肥えた白髪のオッサンが座っていた。

「誰だお前」

以上

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社畜 あめのあいまに。 @BreakInTheRain

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