その16 どちらさまですか?
サヤマ邸 三階来賓用客室前―
「……なんだこの音は?」
部屋の中から漏れ聞こえだした初めて聴く音色に、男は不思議そうに呟いていた。
彼と同じく、扉を挟んで見張りをしていた同僚であるもう一人の男は、その呟きを受け小さく首を傾げる。
「さあな、多分中の奴隷が持ってた楽器の音じゃないか?」
「楽器?」
「ああ、あのガキは楽器だと言い張ってた」
この部屋に連れてくる途中、布に包まれた長方形の箱を大事に抱えていた少年を思い出し、男は言った。
武器の類かと思い没収しようと手を伸ばした男を頑なに拒否し、これは大事な楽器であると少年は言い張ったのだ。
サヤマに確認したが、どうせ何もできぬだろうと容認したのでそのまま部屋に通した。
男は懐疑的であったが、どうやら少年のいった通り本当に楽器だったようだ。
「なるほど、しかし珍しい音をだす楽器だな」
こんな音色を生む楽器なんてあったのか。
楽器なんて儀式の時に使う太鼓とラッパくらいしか知らなかった男は、感心しながら呟いた。
楽器を何かの合図として使用する道具としか認識していなかった彼は、聞こえ漏れてくるヴァイオリンのその哀愁漂う悲しい調べにうっとりと目を閉じる。
『曲』など聞いたことがなかった。いや『曲』という概念を知らなかった。
だから男は『音』としか認識できていない。
しかしそれでもその『音』が――
男の瞼の裏に鮮明に少年時代を過ごした村の景色が浮かび上がらせる。
日暮れの畑の向こう側から夕飯だ、と手を振る母親、姉、そして妹。故郷の家族は元気だろうか――
そこで誰かの鼻を啜る音が聞こえて来て、はっとして男は目を開いた。
「おい、どうした?」
「えっ?」
と、同僚から心配そうに尋ねられ、そこでようやく鼻を啜っていたのが自分だという事に男は気づく。
その目は真っ赤に腫れて、目の端からは涙が溢れていた。
「大丈夫かよ、どこか具合でも悪いのか?」
「ああ……すまん。なんでもない」
慌てて恥ずかしそうに目元を拭い、だがそこで男は同僚の「異変」にも気づくと涙声で尋ね返す。
「おまえこそ、大丈夫かよ?」
「あ?」
「泣いてるじゃねえか」
と、不思議そうに首を傾げた同僚の頬にも涙で濡れた跡が見え、男は苦笑した。
「……本当だ。なんでだ?」
さっぱりわからない。
同僚も吃驚しながら涙の後をごしごしと擦り、鼻を啜りながら口を押さえる。
「この音聞いてたら、なんでか故郷に置いてきた恋人の事を思い出しちまって…」
「おまえもか、俺はおふくろや姉妹の事を思い出してた」
突然胸の中に沸き起こった望郷の念。
とめどなく溢れてくる寂しさと懐かしさが胸一杯に広がり、耐え切れなくなって二人は尚もグシグシと鼻をすすりだす。
しばらくの間、廊下には少年が奏でる独奏がと男達のすすり泣く声が響き渡っていた。
三階来賓用客室内―
廊下に「異変」を起こしたその『曲』の主は。
豪華な装飾品の数々と、立派なベッド、そしてクローゼットが置かれている、軽く何十畳はありそうなその部屋の中央で――
愛用のヴァイオリンをバリバリに弾いていた。
ベドルジハ・スメタナ作 交響詩『わが祖国』より『ヴルタヴァ(モルダウ)』――
先刻から彼が弾いている曲の名前である。
静かで切ない、故郷を懐かしむようなその旋律とは対称的に、細身で長身の少年――浪川は貴公子の如く優雅にそして激しく弓を操り、語り弾いてゆく。
浪川財閥の御曹司として幼少の頃より、帝王学の一環として教えられたヴァイオリンの腕は部内でも一、二を争うものだった。
事実、技術面ではコンミスのなつきと同等、いや下手をすると上かもしれない。
にもかかわらず、あれは二年生の演奏会が決まった時だ。
だれが
独特の観念と、マイペースな性格の持ち主である彼は首席奏者など面倒くさいと思っていたからだ。
比較的寡黙で目立つのが苦手な自分より、明るく活発ななつきの方が皆を引っ張っていくのに向いていると判断したからでもある。
と、まあそのような経緯があり。
「ま、アンタがそれでいいなら私はいいけどさ?」
なんとなく『譲られた』という気がしてならないなつきは、納得いかなそうな顔付きではあったが彼の推薦を受け
以後彼は演奏会ではできる限り後ろの
そんな『まつ毛の貴公子』浪川の奏でるヴァイオリンは、少年の想いに共鳴するかのように、先刻から仄かな光を帯び始めていた。
額を汗が流れる。身体の自由が奪われかけようとしている。
だがそんなことはお構いなしに、少年はその長い睫毛を激しく瞬かせながらいよいよもって曲の終盤に入ろうと、一際高く弓を引こうとした。
だが――
コンコンと、何かを叩く音がして浪川はピタリと弓を止める。
「誰ですか?」
静寂が舞い戻った部屋の中を、彼は不審そうに見渡した。
気のせいだろうか。扉は閉まっているし、部屋の中に誰かがいる気配はない。
何故か廊下からはすすり泣く声が聞こえて来ているが。まあそれは関係ないだろう。
気を取り直し、ふうと息を吐くと少年は独奏を再開しようと弦上に弓を置いた。
と、再度窓をコンコンと叩く音が聞こえ、彼は音のした窓辺を向き直る。
ここは三階だが、一体――
手にしていたヴァイオリンを絢爛豪華なベッドの上に置き、少年は音のした窓辺に歩み寄った。
そして――
「……東山さん?」
窓の外に逆さまになり、屋根にぶら下がるようにして中の様子を窺っていた顔見知りの少女の姿を発見すると彼は訝し気に呟いた。
どうして彼女は逆さまなのだろうか。
服がめくれて健康的なおへそが露になっておりちょっと可愛い。
スカートの下は――キュロットとレギンスか。無念だ。
しかし何故彼女がここに?――
ふむ、と唸って浪川は顎に手を当て考え始める。
ちなみに口調も素振りも落ち着き払っているが、あまり表に感情を出さないだけで、少年はこれでも内心かなり驚いている。
と、さらにもう一度窓がコンコンとノックされ、浪川は顔を上げた。
窓越しの東山さんは眉間にシワを寄せ、こちらを睨みながらちょいちょいと窓を指差していた。
その口がパクパクと何か言っている。
開けて――
ということらしい。
なるほど、と頷いて浪川はそそくさと窓のカギを解くと、両側に開くタイプの窓を押し開けた。
「そこをどいて浪川君」
窓が開くや否や、少女は早口でそう言って身体を揺らし反動をつける。
彼女の足を掴んでいた手が離されると、東山さんは小さく息を吐き、部屋の中に飛び込んだ。
そして見事空中で身体を捻ると一回転して着地する。
その様子を脇に避けて眺めていた浪川は、思わず拍手をしていた。
屋根を伝って目的の部屋まで近づき、窓から侵入。それがサクライの作戦だった。
結果は見事成功。運動神経抜群な東山さんであったからできた作戦であるが。
だがしかし。
「まったく、気づいたなら早く窓を開けてよ浪川君」
こっちに気づいたというのに中々窓を開けようとせず、呑気に考えに耽りだすとは一体どういう事なのか。
東山さんは先刻の少年を行動を思い出し、呆れ気味にそういって浪川を睨みつけた。
そんな東山さんの苦言もなんのその。
長い睫毛を再び瞬きし、浪川は不思議そうに首を傾げた。
「何泣いてるんですか東山さん?」
「えっ……」
と、少年に指摘され、東山さんは自分が目を真っ赤にしながら涙ぐんでいたことに気が付き、慌ててごしごしとそれを拭った。
もちろん先程目の前の少年が奏でていた『モルダウ』の曲のせいにほかならない。
ZIMA=Ωの光を浴びた楽器により奏でられた曲は、曲に込められたイメージや感情といった、ひどく抽象的な物を具現化する――ササキはそう言っていた。
どうやらモルダウには、聴いた者に郷愁の念を抱かせる効果があるようだ。
しかしなんてはた迷惑な曲の効果だろう。東山さんはぐしぐしと鼻を擦る。
「あなたの演奏のせいでしょ? まあいいわ、久しぶりね浪川君」
「こちらこそ、お久しぶりです東山さん。ところで僕との再会がそんなに嬉しかったんですか?」
「ち、ちがうわよ!その……それもないわけじゃないけど」
恥ずかしそうに慌てて否定して、東山さんは浪川に詰め寄った。
「エミちゃん、声が大きい」
と、すぐに屋根上から諫めるような声が聞こえてきたかと思うと、サクライが屋根にぶら下がり反動をつけて部屋に飛び込んでくる。
ちなみに彼の眼も涙で潤んで赤く腫れていたが。
東山さんは解せないといった顔で部屋に入って来たサクライを睨みつけたが、正論であるため何も言い返せず悔しそうにそっぽを向く。
やれやれとそんな少女をちらりと見た後、蒼き騎士王は傍らにいた浪川を見た。
「君がナミカワ君か。なるほど瓜二つだな」
この目で見るまで半ば信じられなかったが、確かに生き写しだ。
これでは『隠し子』と言われれば疑う者はいないだろう――
叔父の若い頃を思い出しながらサクライは、しげしげと少年を眺め、納得したように小さく頷く。
当の浪川は、突如現れ自分を見つめる長身の男の様子を訝し気に窺っていた。
「どちらさまですか?」
「君を助けに来た者だ」
「僕を?」
「呑気にヴァイオリンの練習している場合じゃないの。このままじゃ、あなた王様にされちゃうのよ」
「……どういうことです?」
さっぱり訳が分からず、浪川は首を傾げた。
東山さんはこれまでの経緯を掻い摘んで浪川に話す。
この世界に飛ばされた理由。楽器に起こっている不思議な現象。どうすれば元の世界に戻れるか。
どうして自分達がヴァイオリンに来たか。そして浪川を利用してサヤマが何を企んでいるか。
もちろんサクライがいたので、この世界がカッシーの妹が描いた絵本と酷似した世界であることは伏せていた。
話を聞き終えると浪川はパチパチと瞬きをし、大きく一度頷いてみせる。
「なるほど把握しました」
「なるほどって……それだけ?」
「びっくりしましたが?」
全然驚いているようには見えない、いつもの口調と素振りでそう言って、浪川はもう一度感慨深げに頷いていた。
マイペースな子だとは知っていたがここまでとは。やはり財閥御曹司となると肝が据わっているというか落ち着いているというか。
中井君とは別のベクトルでブレないわね浪川君――
と、顔見知りのクマ少年を思い浮かべつつ、もう少しリアクションを期待していた東山さんは、眉間にシワを寄せながら溜息をつく。
少女には伝わらなかったが、先程も言った通り、彼は彼なりに驚いてはいるのだ。
あの生徒会長のせいでいい迷惑だとか、まさか異世界転移とかどんなSFだとか、もろもろだ。
ただやはり顔や口調に出さない性格なだけである。
「しかしまあ……マーヤから聞いていたが、君達が別世界から来たというのは本当だったんだね」
そんな二人のやりとりを聞いていたサクライは、ややもって話しに割って入った。
謁見の間での出来事の後、妹から掻い摘んで話は聞いていた。
そして依頼もされていた。彼等の仲間捜しに協力してほしいと。
当たり前だが妹が嘘をつくとは思っていない。
とはいえ、流石に異世界からやってきたなどという話を彼はそう簡単には信じられないでいた。
しかし、この二人はその突拍子もない事象についてしっかり意思疎通をしている。
もし嘘であれば、出会ったばかりで簡単に口裏を合わせられるような話ではないのにだ。
半ば信じられないがどうやら妹の話は本当らしい。しかしまあ、世の中には自分と三人似た者がいるというが、異世界にもいたとはね――
サクライは改めてまじまじと浪川を見ながら感心したように、息を一つつく。
「ですがあのサヤマという方、恩人だと思っていたのに、まさかそのような事を企んでいたとは――」
と、テクテクとベッドの脇まで歩いていき、浪川はヴァイオリンを片付けながら意外そうにつぶやいた。
意外な言葉が出て来て、東山さんは眉を顰める。
「恩人?」
「ええ。奴隷として売られる所を助けてくれたと思っていました。では僕はただ買われただけだったのですね」
「奴隷って……そういえばあなたはどこに飛ばされたの?」
「パーカスという町ですが?」
聞き覚えがある。確か舞ちゃんの絵本にも出てきた町だ。
それに昼間女王様も言っていたはず――
「大陸の丁度中央にある港町だ。貿易で賑わう商業の町でもある」
と、記憶を辿っていた東山さんに説明するようにサクライが口を開く。
少年はサクライの説明に一つ頷くと、ここまでやって来た経緯を東山さんに話始めた。
彼の話はこうである。
ZIMA=Ωの暴走でこの世界に飛ばされた浪川は、意識を取り戻すとパーカスという港町の片隅にいたそうだ。
まったく持って見た事もない世界に突然飛ばされ、彼ははとりあえず辺りを歩きまわったのだが、すぐにガラの悪い連中に捕まってウエダという商人に奴隷として売り飛ばされてしまった。
そこでしばらく、彼はこき使われていたのだが、ある日奴隷を買いに来た貴族らしき男が突然少年の顔を見て何やら騒ぎ出したのである。
やれアルマート公のご子息ではないか? とか、やれ前王の隠し子ではなかろうか、似すぎだぞ? とか、そんな事を彼は言っていた。
もっとも、マイペースな彼はなんのこっちゃと我関せずを貫き通し、黙々と命令された店の掃除をしていた。
だがその次の日、浪川はいきなり馬車に乗せられてウエダと共にヴァイオリンへ行く事になった。 そして着いたと思ったらこれを被れと外套を渡され、ガラの悪い男達の集まる酒場に連れていかれた。
後は東山さんも知っている通りだ。
サヤマに買い取られてこの部屋にいるというわけである。
「そんな事が……大変だったのね」
「ええ。まあ、それなりに」
自分達はたまたまチェロ村の近くに飛ばされ、そしてたまたまチェロ村の人達が良い人達ばかりだった。
本当に運が良かっただけなのかもしれない。
もしかしたら自分だって浪川のように奴隷として売り飛ばされ、とんでもない目にあっていたかもしれないのだ。
話を聞いた東山さんは、心底同情するように浪川を見つめていた。
だが当の浪川は少女のその言葉を聞いても、表情を変えず黙々とヴァイオリンを片付けていたが。
「さてお二人共。積もる話もあるだろうが、そろそろ良いかな?」
閑話休題。
懐から取り出した懐中時計にちらりと視線を落として時刻を確認すると、サクライは脱出を促す様に東山さんと浪川の顔を一瞥した。
「行きましょう王様。浪川君もいい?」
「わかりました」
と、丁度ヴァイオリンを片付け終え、パタンとケースの蓋を閉めた浪川はそう言って立ち上がる。
さて、どうやって脱出するかだが――
「で、帰りはどうします王様?」
「できれば同じルートで来た道を戻りたいが、それは無理か」
流石に屋根の上を通るのはこの少年には厳しそうだ。
ちらりと浪川を見てからサクライは眉を顰める。
「ではこの際一気にショートカットで戻るとしよう」
「ショートカット?」
てっきり強行突破をするつもりだと思い、腕を鳴らしていた東山さんは拍子抜けしたようにサクライに尋ねた。
やる気満々の少女を余所にサクライは部屋を一望してから、よしと頷く。
「古典的だが、カーテンやシーツを繋げてロープを作り窓から降りる」
「なるほど、いいですね」
「二人とも手伝ってくれるかい?」
悪くない案だと話を聞いていた浪川は賛成する。
東山さんは少しがっかりしながらも渋々ながらその案を承諾していたが。
だがしかし――
誰かが部屋に近づいて来る気配がしてサクライと東山さんははっと扉を振り返る。
間違いない。誰か来る。もう少しなのだ。できれば穏便に事を済ませたい。
どうしよう?三人は顔を見合わせた。
刹那――
コンコンと部屋がノックされ――
扉は徐に開かれた。
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