第4話 深淵
「…最悪だ」
教室の中は泉の言葉通り最悪だった。
皆川を捕まえるのを諦めて教室に戻った泉は、この驚愕の状況に鬱気した。
教室事態は、今までと本質的には変わってないが、変わってないからこそ傷つくこともあるわけで、クラスのこのいつも通り具合が、なんか非常に恨めしいっ!
教室に並んでいた机や椅子は、全体的に右斜め前方に綺麗によって一つの孤島を作り出す。教室という海にただ『ポツン』と浮かぶ、一番後ろの左端。孤立無援の,無人島。
その島の住人、室戸泉は力なく座席に鎮座した。
「もうヤダ…このクラス…」
クラスメイトには昼休みの追いかけっこがかなり効いたらしい。泉と距離をとって失ったスペースを、クラス一致団結して残りのスペースで人が通れる位の通路と、机の配置場所を見事に作り出していた。その上、机には紙が張られてあり『婦女暴行』『サイテー』などとも書かれてある。
「本当に終わったなぁ…俺の高校生活…」
そう爽やかに呟く顔は、並々ならぬ悟りの道を開いていた。この状況下で、泉は授業を受けるかはかなり悩んだが、風紀委員の仕事もあったので何とか放課後まで耐え抜いた。
「ハァー」
授業が終わり、机に突っ伏したまま、泉はまたため息を漏らした。本日何回目かわからないため息。本人は気づいてないが、その若さで背中に哀愁が漂っている。
「イズミン…その、大丈夫?」
水谷(みずたに)が珍しく気を使って話しかけてきた。
「お前、こんな俺でも話しかけてくれるのか」
少し涙目になりながら、泉は素直に喜んだが、
「いやー実はイズミンの周りにバリケード張っていいか聞いてくれって、女子に頼まれてさーwwww」
前言撤回。水谷はこんな奴だった。
「水谷、そんないじめんなよ」
柏田(かしわだ)がそうい言って横から声をかけてきた。
「泉、今日部活行くだろ」
「悪い。今日は風紀委員の掃除当番なんだ。だから多分、行けないと思う」
「それは、少し残念だな」
「じゃあイズミンはさぼりかー」
「お前は週に一度しか来ないだろうが」
能天気な水谷の発言に、泉は辛辣に言い放った。
「泉っ」
少し声のボリュームを上げて、柏田が言う。
「その、あんまり気にするな。これぐらいのことは人生で沢山ある」
こんなクラス全体でのいじめは沢山は無いだろうが、柏田のフォローは素直に嬉しい。
「ああ。流石に今回は堪えたよ」
「そうか」
二人がそう言って無意識に苦笑していたそんな中、若干、疎外感を感じる水谷は面白くなさそうに唇を開く。
「なんだよー。さっき『話しかけるの、ちょっと勇気いるな』とか言ってたくせにー」
「んなわけねーだろっ。お前じゃあるまいし。なっ柏田」
「……(ササッ)」
柏田が目を背けた。
(うん。なんだ。このやり場の無い怒りはとりあえずコイツにぶつけよう)
「おい水谷…テメェはこの俺の逆鱗に触れたみたいだぜぇ…なんせ知りたくもない事実を無神経に伝えたんだからよぉぉ」
「そこで僕に怒りの矛先が向かうのが…なんとも解せないんだけど」
そう、とても不公平感を感じる水谷だった。
「すまんっ、水谷が言ったことは本当だ。ここまでされてるとさすがに声かけづらくてな」
柏田は泉に近寄り、申し訳なさそうに深々と頭を下げて陳謝する。相変わらずどこまでもお堅い性格。泉はこういう柏田の男気あるところが好きだった。
昨年の六月、新体操部設立のために柏田は、部活に入ってない泉と水谷に頭を下げた。最初は全然興味なかったが、柏田の熱意に負けて結局入部することにした。練習熱心で、人数あわせの泉達にもきちんと指導してくれる。そんな誠実で真面目な部分が柏田のいいところであり、自然と人が集まってくる理由でもあるのだろう。
「俺が逆の立場なら、話しかけねーよ。だから全力であやまるなよ」
「ねぇ、僕も話しかけたんだけど、イズミン」
「……死にてぇのか水谷、視界に入るな」
「ここまで鋭い返しだと、なんか逆に快かぁブフェッツ」
「だからいっただろ。視界に入るなとっ」
「泉…殴るのはさすがにやりすぎだと思うぞ」(汗)
柏田がそう真面目に感想を漏らし、彼の言葉を受けた泉は、面倒臭さそうに水谷の体を起こしてやる。
「泉、今日弁当だったのか?」
泉の机の横にかかっていた弁当箱を柏田が発見し、唐突に彼に尋ねてきた。
「いや違う。これ皆川のだよ。アイツに今日、昼飯おごらされたからな。それとまあ色々あって、それら全部ひっくるめた謝罪の気持ちだと。まだ中身入ってるぞ」
正確には泉の机に置いてあった。昼休み終了間際に帰ってくると、メッセージカードと一緒に置いてあったのだ。ちなみにカードには『少しやりすぎた。食べていい』とだけ書いてあった。
「泉、皆川と付き合ってるのか?」
単刀直入に柏田が尋ねる。その顔が少し強張って、若干、汗で額が湿っていた。
「ああ、親友としてな」
「そうか」
柏田は端的に返答すると、まじまじとその弁当箱を見ていた。
「えー、皆川ちゃんの弁当なのこれー。ねぇ箸は?はシィティブッ」
「だから視界に入るなといってるだろうが、この水虫野郎っ」
「泉、容赦ないな」
それから、いくらたたいても起きない水谷を、柏田は引きずってそのまま体育館に向かっていった。その際、柏田の足取りが少し重く感じたのは、恐らく気のせいじゃない。柏田は我慢していた。溢れ出る感情を押し殺して、気丈に振舞っていたに違いなかった。
「ふっ…そんなに食べたかったなら言えばいいのになー。まぁでも、それを言わない所が柏田らしいな。全く…いやしんぼめっ☆」
そんな痛い勘違いを、恥ずかしくもこの男はしていた。
*
風紀委員による一斉掃除は、学校の下駄箱から希望坂までと掃除範囲はかなり広い。担当する区域は各クラスの風紀委員ごとに決まっており、風紀委員は集合場所に集まって、そこで先生から掃除に関する説明を受ける。それが終わった後、各掃除場所に向かって大体一時間ぐらいの清掃作業に勤しまなければならない。今回の集合場所は希望坂の入り口付近、今日泉が担当する掃除場所だった。
「ハァ、ハァ、セーフ」
放課後に少し時間を使ったので、泉は集合時間に遅刻しそうになっていた。集合時間に遅れると、最悪な事態になるのは今朝身を持って経験した。そこで本日二度目の全力疾走をかまし、何とか死の境界ラインを踏まずに今に至る。
「ぎりぎりだね」
水月が、誰にでも見せる笑顔を振りまいて、泉に無言の陳謝を要求する。
「悪い。ちょっとクラスの奴らに捕まっー」
「言い訳は、話さなくていいよ」(笑顔)
もう…これがデフォルトみたいである。しかも遅刻してないのに発言がキツイ。
「あの…室戸君。私、提案があるんだけど、いいかな?」
「ああ」
「室戸君、車間距離って言葉知ってる?」
「あー、知ってるよ。車と車が事故を起こさないようにとる距離のことだろ。それがどうしたんだ?」
「んー私ね、それって人間にも必要だと思うの」
「というと?」
「ほら、接触したら危ないじゃない。その…色々と」
(いや…危なくねぇだろ)
「だからね…私達もとらない……車間距離。じゃなくて人間距離(じんかんきょり)」
(つまり…俺に近づくなと)
「車だと大体五メートルだから、私達は十メートルとりましょ」
(俺は…車より危険だと)
「それでいいかな?」
「もう…好きにしてくれよ」(涙)
「ありがとう。やっぱり室戸君はいい人だね」
にこやかにはにかむ笑顔が、より一層泉を傷付けた。
やはり水月はどこかずれている。水月は車間距離の例で、近づいて欲しくないという気持ちを隠そうとしてるみたいだが、はっきり言ってかなり逆効果だ。ホンッと見事に、ハートを鋭角に抉ってくる。水月と話していると、人種差別に反対したガンジーにひどく共感できる。
「じゃあ私、室戸君の十メートル離れたところで掃除するから、近づいちゃだめだぞ」
「うん」(涙)
水月はよほど嬉しいのだろうか。彼女の意外な部分を初めてみた気がする。
なあ水月、距離を取れるのがそんなに嬉しいなら、俺帰っていいか?そんな感想が、泉の脳内でこぼれていた。
そうして、泉と水月は先生の説明を受けた後に、人間距離をとりながら掃除をし始めた。箒で落ち葉を掃いて、一箇所にまとめる。そして、軍手を装備した手でどんどん落ち葉をゴミ袋に入れていく。
希望坂は、夏に登校するときは蝉でうるさく、冬に登校すると落ち葉で一杯になる坂なのだ。樹木は坂の入り口から頂上まで、坂の両側に万遍無く生えている。それ故、掃除するにはかなりの時間と労力を要する。
「ハァー、終わんねー」
こんな変化の無い作業は本当に退屈だ。
十メートル離れたところで水月がてきぱきと仕事をこなしていく。泉は希望坂の入り口付近、水月はそこからきっちり十メートル坂を上ったところを掃除していた。
「水月は本当に真面目だな」
三十分ぶっ通しで作業を続けているのに、手を抜く気配さえ感じられない。
「室戸くーん、サボっちゃだめだよー」
十メートル先から笑顔で水月が叫ぶ。こういう作業は本当に好きなんだろう。
「分かってるよー」
そう返事した直後に、泉の隣を小太りの男がすれ違って坂を登っていく。
「ん?」
青い清掃服を着ているので、多分新しく学校が雇った清掃員だろう。最初、泉はそう思った。しかし異常に周囲をきょろきょろし、失礼だがかなり挙動不審にも見える。
泉は気になって、後ろから男をずっと観察していた。するとズボンの後部ポケットに、何やら柄のようなものが見えている。それは身近にあって、見たことある。そんな黒い柄だ。
「もしかして…あれは包丁の柄か?」
確信は持てなかったが、脳裏に浮かんだのは不審者のニュースだ。小中高と被害者はいないものの、怪しい人物が徘徊しているのがニュースで話題になっていった。確か犯人の特徴は、身長は百六十センチ位ほどで、小太りで、髭面……。
(全部…一致してる…)
いやしかし、考えすぎだろうか。泉がそう思った一瞬、あの日の映像が蘇った。
白と紺のセーラー服に血を染み込ませ、体をぴくぴくと引きつかせながら、
「…イズ…ミ…」
そう、呼ぶ姿、冷涼とするあの顔。死ぬ直前の…姉の最後を。
「……クソっ…」
封じ込めていた不安とやりきれない自責の感情が、彼の中で再燃した。
(…水月っ)
そう思ったのと同時に、泉は水月の方へ走り出した。
水月は熱心に落ち葉をゴミ袋に入れていた。熱心すぎるあまり、後ろから近づいてくる人影に気づかないでいた。
「あの」
低い声で、小太りの男が水月に声をかける。声をかけられてはっとしている水月は、動揺を隠すように笑顔で返答した。
「あっ、どうされたんですか?」
「ねぇ…見せてよ」
「えっ?」
「ねぇ…君の中身…見せてよ」
そう静かに呟くと、男はポケットから包丁を取り出し、右腕を大きく振り上げた。男の顔は不気味なほどに笑顔で、それは、今からとるであろう行動を、全く想像させないほど嬉々とした表情だった。
水月はまだ動けないでいた。一瞬のことで、理解が追いついていない。まだ悲鳴も、出ていない。
「水月ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃー逃げろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ」
水月の耳に、同級生の声が飛び込んできた。それは最近少し気になる、不器用な同級生の声だった。
(あれ…私)
水月が最悪の事態に気づき始めた時、男の手に持つ包丁が水月向けて一気に振り下ろされた。やっと水月も理解が追いついたのだろうか、顔が恐怖で歪み、差し迫る包丁に視線が釘付けになる。
《もう誰も邪魔できない…やっと人の中身が……》
グサッ
何かに深く包丁が刺さる。男の顔が紅潮し、恍惚の表情を見せる。が、すぐその表情は、意図しない方向へと変化する。
包丁が捕らえた獲物は…泉の左胸だった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー」
水月が遅れて悲鳴を上げ、膝から力が抜けて座り込む。
「水月、早く行けぇっ」
泉は強く叫ぶが
「ぁぁ…ぁああ…ぁ」
水月は気が動転し、地面にへばりついたように体が動けないでいた。恐怖で震える手と足が、まるで別の生き物のように彼女の意志を拒絶する。
(おい…どうすればいい)
泉にとっても初めての経験だった。何をすれば水月が逃げられるだろうか。どうすればこの男から水月を守ることができるだろうか。ただただそのように思考をめぐらせ、その結果、泉はひとつの結論にたどり着いた。
(コイツを…潰すっ)
刺さった包丁を握る手、それを泉は握りつぶすかのように掴む。
「ひっ」
男の声が漏れる。恍惚の表情が、苦痛にゆがむ表情へと変化した。
男は必死に包丁を引き抜こうとするが、泉の力が強すぎた。部活で培った握力が、そうすることを許さない。
「何なんだよお前っ」
男は包丁を抜き取るのを諦め、焦りと憎しみが織り交じったような声を上げながら、泉を突き飛ばそうとする。
しかし、泉の左手からはどんなに体を動かしても、逃げることができない。
男は後悔し始めた。
こんなはずじゃなかった。中学生にすればよかった。大体こんなすれた時代にこんな高校生がいることがおかしい。俺は悪くない。俺は悪くない。おれはー
男がそう反芻していたときには、彼の体は宙に浮いていた。
泉渾身のアッパーカットが既に男の顎に直撃していた。そして、男の体は何度もバウンドして、泉から一メートルほど離れたところで、口から泡を吹いて動かなくなった。
「水月っ、ここから…はや…く…」
男が動かなくなったことを視認した泉は、水月に逃げるように言いかけて初めて、自分の体の異変に気づいた。
意識がはっきりしているのに、体はぐらつく。まるで、泥酔したかのような酩酊感。
「……や…ばい…」
そう乾いた声を上げ、泉の体は後ろ向きにゆっくりと倒れた。
「ムロトォクン…ねぇダイジョブなの。ムロトォクゥンっ」
目尻に沢山の涙を溜めて、声にならない声で水月が尋ね続ける。
「水月は……優しいな」
「こんなときになにいってるのよ。体は平気なの?」
徐々に落ち着きを取り戻して、水月がそう聞いてきた。
「そんな心配すんなよ。何でもいいから先生呼んで来てくれ。このままじゃマジ死ぬって」
そう、飄々と泉は答えた。
「私……本当に心配したんだよ。待ってて。すぐ救急車と先生を呼んでくるっ」
そう力強く答えて、水月は希望坂を全速力で上っていった。
泉はまた…水月に嘘をついていた。
包丁が刺さっている部分を確認してみる。左胸、心臓を一刺しだ。倒れてからだ。手足の先から感覚が消えていってる。視界が霞む。体温が著しく低下してきた。
これで…水月が襲われる心配はなくなった。腰なんて抜かすなよ。周りには、誰もいないよな。あれ…おかしいな。俺…こんなときまで人のこと考えてる…
脳裏に妹の顔が浮かんできた。これが…走馬灯というものだろう。家族や水谷、柏田、そして皆川と、思い出が溢れて流れ出す。
「岬(みさき)ねぇ…ちゃん」
子供の頃の…泉の…姉の呼び方だ。最後に出てきたのは姉の顔だった。
死ぬ間際は、姉もこんな感じだったんだろう。そう泉は思った。
いよいよこの世を去るときが近づいて来た。体からは大量の血が流れ出て、十分前からは想像もできないくらい、アスファルトを真っ赤に染めていた。
意識が朦朧とする中、泉は空を見た。
空はあの日と似て、少し赤い、オレンジ色をしていた。
「ああ…これが………死ぬって…ことか…」
そう最後に呟いて、室戸泉はこの世を去った。
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