それでも僕らは息を吸う。

森音藍斗

それでも僕らは息を吸う。

 時間と金の無駄じゃない?

 ああ、まあ、うん。

 え、認めるんだ。——じゃあ、何でやめないの?

 何でって。

 無駄なんでしょ?

 じゃあ、やめればよくない?

 やめればよくない?


 はっと目を覚ました。

 薄暗い寝室。正午。遮光カーテン。アナログ時計の音が耳障りで、背面の蓋を開けて電池を抜いた。汗ばんだ肌。昨夜のままの服装。喉が渇いた。水を求め体を起こす。いや、その前にトイレに行きたい。何だそれ。水が要らないのか欲しいのか。面倒になってまた寝転がる。やはり我慢できなくて立ち上がる。

 我楽多に溢れた部屋の隅に、自分と別の生物がいる。生きている。人間である。理性もある。が、今は眠っている。転がしておいたら勝手に寝たのでまだ転がしてある。別に特段構ってやる必要もない。いつもこんな感じだ。

 奴に誘われ、初めてその店に足を踏み入れたのが、昨日のことだった。よくもまあ借金の借主を、自分が金を失くしていく歓楽地にお誘いしようと思ったものだ。入った瞬間は兎にも角も五月蝿くて、頭が痛かった。そのことについて文句を言おうとする声も届かない程、音で溢れていた。俺は仕方なく、無音のイヤホンを耳栓代わりに耳に刺した。

 自分が誘った癖に奴は俺に構わず、慣れた様子で店内を歩く。目にも耳にもがらがらとやかましい機械が延々と並ぶ。幾つか見知ったアニメの絵柄のものがあったが、殆ど見分けがつかない。そのひとつひとつの前に座る人間は、老いていたり若かったり、男だったり女だったりする訳であるが、矢張りその顔に区別はつけられない。皆一様に無表情で、自分だけの世界に浸っている。

 奴が選んだ機械は、特に変哲もない台だった。何のアニメの何とも分からないもので、つまり俺には区別がつかないもののうちのひとつ、それでも手練れから見れば特徴めいたものがあるのか知らないが。

 一応二台並んで空席である場所を選んではくれたようなので、隣に座る。奴がこちらをちらりと見る。声が届かないのは大前提だ。奴と同じ動きをする。

 無機質な闇の中に千円札が吸い込まれていく。画面を繰る。何だかよく分からないレバーやハンドルをがちゃがちゃと回す。何をどうするのが目標なのかすら分からない。そのうち奴も俺を見ず、正面の機械とのみ対話を始めた。お前は生身の人間よりその、日本語を言うのかさえよく分からない機械の方が大切か。それともお前の機械はお前に返事をするのか。俺の機械が俺に返事をしないのは、俺が新参者だからなのか。お前が新参だったときはどうだった。お前だって生まれたときから玄人だった訳ではなかろう。今だって別に玄人ではないだろう、玄人だったら親から仕送りを貰って、大学に行っている振りをする必要はない。これで稼いでいる人だって、世の中にいるそうだ。奴は残念ながら、そうではない。だったら何故続けるのか。

 どうして。何故。何で。やめない。

 五千円を機械に食べさせたところで、自分は何も旨くないぞと苛立ちが限界を超えた。俺は、こちらを見ない奴には黙ったままで席を立った。財布は尻ポケットの中、イヤホンは何も奏でないまま。回転しても自然に機械を向くようになっている椅子がまだ俺の座っていた余韻を揺らしているのを視界から追い出し、俺は、まるで世界の陰鬱を誤魔化すかのように明るい、騒々しい、天国のような店を後にした。


 時間と金の無駄じゃない?

 ああ、まあ、うん。

 え、認めるんだ。——じゃあ、何でやめないの?

 何でって。

 無駄なんでしょ?

 じゃあ、やめればよくない?

 やめればよくない?


 耳栓としてよく頑張ってくれたイヤホンに本来の仕事をさせてやろうと、プレイヤー本体を取り出したところで、後ろから小突かれた。

「いいところだったのに」

 じゃあ追ってこなくてもいいだろう。

「いや、誘ったの俺だし。楽しくなかった?」

 その言葉に、俺は足を止める。

 お前は、楽しくてやってたのか?

「いや——楽しいかと言われたら、別に」

 じゃあ、何で続けるんだよ。

「うーん……たまには稼げることもあるしねえ」

 始めてから今までのプラマイで言うと?

「それは多分マイナスだけど。初めの方はほんと、機械に紙食わせてるだけだったから」

 今だってそうだろ。

「そう……かなあ。成長はしてると思うよ」

 成長、ねえ。

 成長したところで、って感じだけど。

 成長して結局、何になるんだよ。

「金になる」

 その金は何処に消える?

「まあ、出どころと同じ、パチンコかな、結局」

 だろ?

 時間と金の無駄じゃない?

「無駄だよ」

 無駄。

「無駄だよ」

 奴は、じゃあ、逆に訊くけど、と首を傾げる。

「無駄じゃないことって何だよ」

 機械に紙食わせてるよりは、無駄じゃないことあるだろ。

「例えば?」

 旨いもの食うとか。

「消えるけどね」

 記憶には残るだろ。

「忘れる癖に」

 でも幸せじゃない?

「幸せだったら何?」

 幸せじゃなかったら生きてるの大変じゃない?

「幸せでもどうせ死ぬことない?」

 ……いつの話してるんだよ。

「明日の話」

 そう言う奴の目は、機械に向けられるときと、俺に向けられるときと、全く同じ感情を宿していた。

「いや、今日かな」

 即ち無。

 勉強とか、そういうもっと、意義のあることに人生使おうぜ。

「勉強には意義があるのか?」

 人生の役に立つだろ。就職とか。

「就職してどうするんだよ」

 いや金稼いで食ってかねーと。

「何で?」

 何でって。

 死ぬぞ?

 奴は失笑し——嘲笑だったのかもしれない——言った。

「どうせ死ぬ」

 ……それを言ったら元も子も無いだろう。

 確かにどうせ死ぬんだろうけど。

 ほら、自分が死んだ後も世界に何か影響が残るとか、子供生んで育てて、血が受け継がれるとか、そういうのは、あるじゃん。

「だから何?」

 死んでも、自分の生きた証は残るだろ。

「だから何?」

 奴の顔は感情を宿していなかった。

「どうせ死ぬ」

 どうせ死ぬ、そんなこと分かっていたけれど、分かっているけれど、でも、そんなこと言ったら、今すぐ死なない理由が、無い。だからずっと、考えないでいた。目を逸らしていた。でも、目を逸らしていただけで、消えた訳でも、消せた訳でもなかった。正面にいた、真正面に。隣の俺よりずっと分かりやすい位置にそれはずっと在って、俺は、見ていなかった。奴は、見ていた。無表情で対話していた。無表情だけれど、目を逸らさず、呼びかけをし、応答を聞いていた。

「俺が例えば、世の中が変わる大発明をしたり、その可能性のある子供を生んだりしたとする」

 奴は指を一本立てて、そう話しながら歩き出した。俺はそれに従った。

「だから何だ」

 話が終わるのは早かった。

「変わった世界と変わらなかった世界、どちらがより良いかなんて知らない」

 奴は俺の前を歩いていたからどんな顔をしているのかはもう見えなかった。しかしさっきの現実逃避のための無駄に明るいパチンコ屋とは違い、静かな街灯と月明かりしかない夜の道は、奴の声をよく拾った。

「そして俺は、俺が死んだ後の世界に興味は無い」

 ……例えば。

 海の中で呼吸をするような感覚。ブラックホールのようなものだと思っていた。実際は、人が作ったパチンコ台、金を入れれば延々と出続ける銀色の球と、言うことを聞かないスロットマシン、極彩色の痛い画面と、混ざり合って脳を麻痺させる効果音、そんな陳腐なものだった。

 例えば、お前の好きなひとが、お前の死んだ後も幸せに、

「生きるかどうか俺には感知する術はない、そして、感知できないことまで心配しているほど俺の人生は暇じゃない」

 暇じゃないって。

 授業出ずに親の金でパチンコしてるだけだろう。

「忙しいよ?」

 カンカンと、踏切の音が聞こえる。奴の声が聞きづらくなって俺は声を一段張り上げる。

 無駄だって、肯定したよな、さっきは。

 時間と金の無駄。

「そうだね」

 だったら。

「でももう終わるし」

 終わるのか。

「時間と金の無駄」

 時間と金の無駄。

「稼いだ金もどうせまた消費する」

 喜びも忘れる。

「幸福も忘れる」

 どうせ死ぬ。

「どうせ死ぬ」

 街灯の真下で振り返った奴は、青白い顔で、気持ち悪く笑った。

「じゃあ、いつ死んでも同じじゃない?」

 駄目だ。

 それは駄目だ。

 何で駄目なんだったっけ。それは。

 駄目だから。駄目だから、駄目だから、駄目、

 お前はパチンコを続ける。生きることも。やめていない。今まで、一度も、やめなかった。お前は。

 踏切の音が消え、停まっていた車が、自転車が、歩行者が、動き出す。俺らはそれを視界の端に感じながら、踏切の手前で立ち止まる。

「やめなかった、そうだね。どうしてだと思う」

 どうして。何故。何で。死なない。やめない。生きることをやめない。生きるのは無意味だ。無意味な上に、時間と金とエネルギーを浪費する。じゃあ、何で死なない。

 答えが出ない俺に、奴は笑った。さっきとは打って変わって、無邪気な笑顔だった。

「死んでないからだよ」

 奴は心底楽しそうに、可笑しそうに、無邪気に、無垢に、笑う。

「死んでないから生きている。それだけ」

 じゃあ、死んだら死ぬの。

「死んだら死ぬね」

 例えば。

 あの線路に身を投げるとか。

「ああ、うん、死ぬだろうね」

 死ぬだろうな。

「ただ、上手にやらないと、痛いのは嫌だなあ——死に損なうとそれはそれで面倒だしね。医師とかカウンセラーの相手したり、尤もらしい理由考えて親を家に送り返したり」

 確かに。

「でもまあ、電車に引かれれば大体死ねるだろう」

 彼が線路に向かう。赤いランプがリズミカルに点滅し、日本人なら誰もが聞いてそれと分かる独特の音とともに、踏切のレバーが降り始める。

 それは、とても死に相応しい音に聞こえた。

 でも、電車を止められた乗客と、罪の無い不運な運転手が可哀想だ。

「どうせ車庫に向かう回送車だよ、明日の始発までにはダイヤは戻る。それに」

 運転手は。

「俺の死後の世界に興味は無い。死後の世界で知らない誰かが苦しむことを俺は感知しない」

 それに、トラウマを植え付けられた哀れな運転手だって、

「どうせ死ぬ」

 じゃあいいか。

 肩を竦め俺も線路に入る。

「ただ、死体は無残になるだろうね」

 もっと綺麗な死に方考え直す?

「いや、もう電車来てるし、面倒だし。片付けるの俺じゃないし」

 じゃあいいか。


 時間と金の無駄じゃない?

 ああ、まあ、うん。

 え、認めるんだ。——じゃあ、何でやめないの?

 何でって。

 無駄なんでしょ?

 じゃあ、やめればよくない?

 やめればよくない?

 やめればいいと思う。


 意義無し。


 トイレから出て、冷蔵庫から冷えた水を出し、コップに注ぐのも面倒なのでそのまま直接口をつける。再びそれを仕舞おうとしたところで、掠れた声で、俺も、と言うのが聞こえた。

 キャップを半分回した状態で、二リットルのペットボトルを部屋の隅に投げる。呻き声が聞こえる。キャップの隙間から水が零れて毛布を濡らす。下の階に響いたかもしれない。知ったことではない。奴が喉を鳴らすのが聞こえる。俺より長いことそれを飲んだ奴が毛布を剥いで、くしゃくしゃの頭を澱んだ空気に持ち上げる。

「俺は、後世の人が、やめたいときに人生をやめられないような発明はしないと誓う」

 初めて、自分の死後の幸福を願ったんじゃねぇか。

 そう笑ってやると、奴も頬を緩めて溜息を吐くように笑った。

 煙草、要る?

「一本頂く」

 自分の分を口に咥えて火を付けてから、いつもよりワンランク高い紙巻煙草を奴に放る。次いで、百円ライター。

「いつもこんなん吸ってんの」

 今日だけ。昨夜そこで買った。

 空いた左手で真下を指差しながらそう言う。アパートの目の前に自販機があるのだ。生きやすい世の中だ。

 死ににくい世の中だ。

 安全装置だか何だか知らないが、急ブレーキは運悪く俺らの命を救い、俺ら二人は道じゃない道を選んで逃げた。顔と身柄がバレたのかは知らない。ひょっとしたら防犯カメラなんかがあって、今にも警察がうちのインターホンを鳴らすところかもしれない。ひょっとしたら午前中に一度来ていたのに、二人とも爆睡していて気付かなかったのかもしれない。

 どうする、と、宙に向かって言う。奴に向けた訳でもない。強いて言うなら、目の前に漂う頼りない煙に尋ねたようなものだ。奴もそれを分かっていて、答えない。自分の紫煙を眺めている。俺の煙が答えない代わりに、奴の煙が答えるかもしれない。

 旨いな、と奴は言う。これもまた、煙に向けられた声である。俺が答えるためのものではない。

 奴の吐く煙は正真正銘奴の吐く煙であり、着実に酸素を消費して、二酸化炭素を生成していた。奴はまだ生きていた。奴が息を吸うと、煙草の先が紅く灯った。それは何となく、美しいなと思った。

 お前、死ななくてよかったよ。

 気が付いたらその台詞は、口を突いて出ていた。

 奴は驚いた顔で俺を見た。俺は酷く困惑した。そんなこと言うつもりも無かったし、奴がそんな顔をするとも思わなかった。

 奴がそんな風に、静かに涙を流すとは思わなかった。

「どうして」

 どうして。何故。何で。

 さあ。

 どうしてだと思う。

 俺がそう言うと、奴は苛ついた様子で舌打ちをした。

 それでも俺は何も言わなかった。その涙が自分の恣意的な物差しのうちで、『美しい』の枠に入れられるかどうか思案していた。

「どうして」

 奴は醜くももう一度同じ台詞を吐き、俺を睨んだ。

 ここで機嫌を損ねたくはない。奴に貸した金が返ってこなくなるかもしれない。無い理由を捻り出す。

 ほら、俺の周り、煙草吸う人間殆どいないからさ。

「お前も死ねば同じだろう」

 まあ、そうだけど、そうだけど、うーん、何て言うか。

 俺、昨夜死ななくてよかったと思うんだよね。

「どうして」

 さっきから奴の返事は『どうして』ばかりだ。全く面白味が無い。不合格。

 俺は、まだ考えていないから。

 昨日お前が言ったことを、自分でまだちゃんと考えていないから。

「無駄」

 奴はそう切り捨て、立ち上がって、やつれたジーパンに財布だけ捻じ込み、玄関に向かった。小さな部屋だ。たかが数歩。

 何処に行く。

「パチンコ」

 まだやるのか。

「次顔合わすまでに結論を出せ。それで、俺を説得してみろ。生きる意味を捏造してみせろ」

 顔も洗わずに出て行った奴が警察のお世話にならないことを祈りながら、俺はまたベッドに寝ころんだ。

 奴もどうやらまだ死にたくはないらしい。

 理由なんてそれでよくないか、と気付くまであと三分。

 警察署にて奴と再会するまで、あと三時間。


 時間と金の無駄じゃない?

 ああ、まあ、うん。

 え、認めるんだ。——じゃあ、何でやめないの?

 無駄だからやめろなんて誰が言った?

 無駄遣いの楽しさを教えてあげよう。

 さあ、息を吸って。

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それでも僕らは息を吸う。 森音藍斗 @shiori2B

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