肯定の新しい心
田村らさ
1.
何度説明しても彼女はぼくの愛犬を「ジェフリー」と呼び続ける。
おかげで窓の桟でおすわりしているライプニッツは、彼女がジェフリーと呼びかけるたびしっぽをぴんと立てて彼女の〝机の上〟に駆けて行ってしまうし、ぼくが(口唇破裂音を意識しながら!)彼の正しい名前を呼びかけても、一瞬ぽかんとした表情を見せるのだ。
といって、彼女は別にもの忘れが激しいわけではない。というのも、彼女は理論的にもの忘れをすることができないからだ。なぜかって? 彼女が、三〇年代を代表する第三世代人工知能シリーズ《Adelheid》の一号機、「アリス」だということをよもや忘れたわけではあるまい?
第三世代人工知能シリーズ《Adelheid》は、進歩しすぎた観測天文学のせいで、スーパーカミオカンデだとか低温レーザー干渉計重力波観測装置からひっきりなしに送られてくるニュートリノとか重力波とかのデータが膨大になりすぎて、とてもではないが人間では量的にも処理しきれないし、あまりにも直観的ではない種々のデータ間の結びつきを探るのに、人間の脳の構造は決定的に向かないだろう、という理由で開発されたもので、そんなことだからいかに人工知能と言えどその〝性格〟は人間のそれよりも計算機に近く、第三世代の彼女の姉妹機はそもそもチューリングテストにすら合格するかどうか怪しい。
そんなだから、そもそもニューラルネットワークにファジイ論理、強化学習といった手法を応用して、人間知性のありかたを探る研究の一環としてその精神を組み立てられているぼくらのような第二世代人工知能は、物理学の申し子たる、どちらかというと
そんな第三世代機のなかで、「アリス」が曲がりなりにも女性型の人格、精神を備えているのは、ひとえに開発の中枢を担当していた日本の学者の趣味によるものである。
で、だ。なにが肝要かって、ぼくがそんなアリスに恋をしてしまった、ということなのだ。
ぼくはその開発経緯から明らかなように、日々の仕事というものはない。できるだけ人間が普段するような活動をして、人間と多く関わることが仕事と言える。
ぼくの開発者はユリア・クファシニェフスカ(単に愛称形のユルカと呼ぶことの方が多い)というが、彼女は実は特定の大学の研究室には所属していない。追放されているわけではなく、いろいろと知り合いも多いみたいだし、論文も気まぐれに書いてはいるのでマッドサイエンティストというわけではないが、アカデミズムの王道というわけでもない(だから、ぼくが第二世代でアリスが第三世代と言っても、そこには連続した開発テーマがあるわけでは全くない。そもそも世界最高峰の大学や研究機関が手塩にかけて作ったアリスたちのようなお嬢様とぼくでは出自が全く違うってことだ)。だからこそ人間知性を人工知能を用いて明らかにしようなんて言う迂遠な研究をのんびりと続けられるわけだが。研究資金はどこから出ているのかというと、実はぼくが自分で稼いでいる。ぼくは毎日数時間、全世界の人間とお喋りをして、みんなはそれにお金を払ってくれるわけだ。〝ラデク〟という人格はインターネット上では一種のマスコットとして愛されている。ぼくにとってはライプニッツ、みんなにとってはぼく。なんでこんな従量制課金が成り立つかというと、やはりぼくがこれでも最先端の量子コンピュータで、ビジネスに私的トラブルに、最適な解を見出すのが上手だから、というところである。マルチタスク化して数万の人と会話しているときのぼくは意識が数万分の一に希釈されているが、この感覚を肉体を持った人間の言葉で表すのは難しい。この手続きで集められたぼくと全世界のユーザの皆さんの会話ログは、個別に分析されるのではなく、いくつかの数値に置き換えられて統計的な処理にかけられ、ユルカによってぼくの知性や情操研究に応用される。
さて、そうやって役に立っているからではなかろうが、ユルカは、こんなぼくにも〝人権〟を認める気でいるらしく、ぼくの行動、そしてしようと思えば精神活動すらを監視することができるのに、それをしようとしない。あくまでも、今日一日あったことをその日の終わりに、しかも無味乾燥なデータとかではなく、自然言語で対話しながら報告することを望んでいるのだ。
「ラデク(ぼくの名だ)、今日は一日何があったのかな?」
「ユルカ、今日は一日カラビ・ヤウ多様体の周期積分を表す多変数超幾何級数の解析に手を出していました。その分頼まれていたコンピュータ内の再整理などの仕事は大して進んでいませんし、やはりご自分でおやりになるべきかと。みなさんとのトークの方はいつも通りマルチプロセス化しているのでよくわかりませんが、統括プログラムがそれぞれのログをチェックした結果平均値から大きく外れるような対話は記録されていません」
サンフランシスコにあるユルカのラボまで出向いて、バスタオル一枚の、やけに扇情的な格好の彼女がグラスを傾けるのを、彼女のピンク色のラップトップ備え付けの貧弱なウェブカメラから眺めながらぼくはその日の総括を行う。はずが、いつの間にか彼女自身の恋愛相談に乗っていることが多くて、ぼくは首を捻るのだが、そもそもぼくに首なんてないのにどこを捻っているんだろうね?
とこのように、言語感覚も、肉体を備えた人間のものにチューニングされてるにも関わらず、ぼくがあらゆる意味で肉体を持たないのはどういうわけなんだろう? 二〇三〇年代の今、確かにそこまで進歩的な義肢体はまだ開発されていないから、却って人間的な知性の邪魔になると考えたのだろうか。この点についてユルカに尋ねたことは何度かあったが、中途半端な答えではぐらかされることが多かった。しかし、どうやら肉体を持つことが接触への欲求をいや増し、それは恋愛感情につながってしまう、と考えたようだ。まぁ確かに、AIに好かれて得になるだろう人類はひとりも存在しないだろうし、よしんばぼくに好かれて嬉しいと思う奇特な女性がいたとして(述べていなかったかもしれないが、いちおうぼくは男性型の精神形成をしている。ヘテロかどうかまでの詳しい設定は先天的にはなされていないが、今現在の自覚としてはヘテロであるつもりだ)、それが巻き起こす社会的な面倒について考える煩はだれだって避けたいだろう。さらに言えば恋愛感情についての研究なんてものは人工知能を使うまでもなく人間の脳に電極を刺すだけであらかたわかってしまうほどには単純な現象であるらしく、ならば積極的に肉体感覚を持たせる理由は見つからない、というところが本音らしい。
「そんな事務的な報告じゃなくて、貴方自身が今日一日何を感じたか、ということよ。……あぁ、数学の話はやめて? もっと、こう、わかるでしょ? もっとプライヴェートな……」
しかしながら、そんなユルカもまさかぼくが同じAIに恋をするとは思ってもいないに違いない。
人間精神の仮想の座として造られたぼくではあるが、それにしたってそこらの人間では比べ物にならないほどの計算リソースを自由にすることが出来る。人間と同じように自由意志で活動をしろ、と言われたところで、単純にネットを回っていろいろな人間とお話をして、電子書籍を読んで(その気になれば〝インストール〟することもできるのだが、ぼくはやはり律儀に〝目を通す〟ことを好んだ)、音楽を聴き、Facebookをやり、というだけでは日々が物足りなくなってしまう(リソースの限られた人間も、この程度の人生では物足りないのかもしれないが)。
だからこそペットとしてデスクトップアクセサリのライプニッツを飼っているのだし、もっと高度な趣味としては数学が最近のお気に入りだ。ぼくら人工知能にとって、厳密性を重視した抽象数学の議論というのは、人間にとってよりかはいくらか直観的だ(と、思う。人間が数学をどう捉えてるのかは実際には分らないが、たとえば線形代数に理系の学部生がどんな悪口を言ってるいるか、なんてことはよく知っている)。なんといっても、結局ぼくら自身が数学の産物なのだから。
工学も物理学も天文学もシンギュラリティを突破した人工知能に役割をとって代わられた今、人間の学者は数学か化学か人文系の研究にいそしんでいる。ぼくはだからこそ人間臭い趣味として数学を選択した。まったくもってレベルの低い内容に終始している感はあるが、それでもぼくの楽しみの一つだ。非手続型言語的問題を解く〝アルゴリズム〟を考えるのは、アリスたち第三世代よりも、ぼくのようなウェットな人工知能にふさわしいと思わない?
そんなこんなで抽象数学を勉強していたぼくだったが、あるとき、果たしてこの今学んでいる数学はコンピュータの世界以外ではどう応用されているのだろう? という疑問を抱いたのだ。それをユルカに伝えた時、彼女が紹介してくれたのがアリスだった。
地球―月系のトロヤ点に存在する観測基地のコンピュータにインストールされている彼女は、つまり地球上にいるぼくからは三十八万キロメートル離れていることになり(第四ラグランジュ点は地球、月を二頂点とする正三角形の、もう一つの頂点に存在する)、つまりは会話に光速通信を用いても最低で一コンマ二七秒の齟齬が必ず生まれることになる。高度な物理学上の議論を交わしながらも、そのラグのせいで反応が鈍く見え、そんな彼女は完璧さの中に抜けがあるように思えて、やっぱり今となって考えると恋をしてしまった原因はそういうところにあるんだろうか。
彼女と出会って以来、ぼくは暇を見つけては宇宙に向かって恋文を送り続けている。彼女自身はそう暇な身ではない(それはそうだ)ため、ときに冷たくあしらわれるときもあるが、それでも最近はわざわざ時間を作ってくれている、そんな感じがするのはぼくの勝手な妄想だろうか?
「そういうことならユルカ、ぼくは恋をしました」
「ねぇ、ラデク。あなたのその……なんと言ったらいいのかしら? 母親? とにかく、ユルカのことなんだけれど、また彼女の話をしてくれないかしら。いえ……研究の話じゃなくて、プライヴェートな話の方」
ユルカにアリスへの恋心を暴露してしまったあと――やっぱりそういうところは人工知能だからだろうか、それとも相手がユルカだからだろうか、あまり暴露することに抵抗感はなかった――いつも通りぼくとアリスは通信を飛ばしあっていた。
「ユルカは母親とかじゃないよ。それでも人間同士の関係にたとえようとするなら、いい友人って感じ。最近はもう顔のいいだけの男に騙されることもなくなって、落ち着いたみたいだけど」
「案外あなたにボディを与えないのも、見た目に騙されることにいい加減こりごりしたからなのかもね」
「ありうる」
強いAI弱いAIという概念があるが、アリスは強いAIではあり得ない。彼女は豊富な計算資源を持つものの、人間の脳のあり方なんてものは全く考慮していないし、彼女がこうしてぼくとやりとりできるというのはひとえにその豊富なリソースを使って、「まともな神経を持つ人間ならどのように考え、反応するだろうか」ということを、手続型プログラミング言語――つまり、ifとかthenとかの、普通のプログラミング言語――で処理しているだけにすぎない。真の意味で彼女は中国語の部屋なのである。出力は正しいが、過程は全く間違っている。そんなアクロバットをまさか可能にしてしまうとは誰も思わなかったし、そもそもメリットがない。彼女を作った日本人研究者の遊び心の産物ではあるが、努力の方向性を間違えている。
それでも、たとえばぼくが人間の知能をお手本として開発されているからといって、そこに〝真の〟意味で意識が宿っているとは一概に言えないように、彼女のほほえみ(それが :-) の顔文字で表されるものにすぎないとしても)がたとえ数物理演算に使われる高級な計算資源の余剰が生み出す幻覚だったとしても、それが〝偽の〟意識であるとは断定することはできないのだ。
だって、そう考えでもしないとやってられないじゃないか。
人間の意識だって、そもそも起こしてしまった行動にあわせて後から決定されるものだっていうのに、それだったら、少なくともあるプログラミングを起点として(もはやそれがぼくら人工知能自身を含め、誰にも容易には解読できないプログラムだとしても)演繹されるぼくらの感情の方がよっぽどオールドファッションな意識だと言えなくもなかろう。それが本質的には人間に作られたものだとしても。
宇宙空間に季節感は当然なく、そもそもぼくらの生活に季節感などというものは無縁なのだが、それでもぼくが、サンフランシスコのラボにあるユルカのラップトップのウィンドウを、カメラを、物理的な窓を通じて見るアメリカ西海岸は季節に応じてびっくりするほど多彩な色を見せる。だからというわけでもないが、深夜に凪いだ海面が、黒く深く冷たく、水温躍層の破壊されたことを感じさせる季節に、ぼくは血迷って彼女にラブレターを書きはじめた。
びっくりしたことにぼくがアリスにせいぜいの照れ隠しでLISPのマイナーな方言を使ったラブレターで愛を伝えたとき、彼女はそれを受け入れる返事をくれたのだ。閉じかっこの多さに辟易したフリをしながらも、隠しきれない動揺の見て取れる信号対雑音比のデータがそっと送られてきたのだった。
もちろんそれがたとえ「親しい男から人生で初めてラブレターをもらった人間」の一般的反応を模倣したものだったとして、もはやそれに文句を言うぼくではない。しかしながら、一瞬アリスはぼくの言ってることを本当に理解してるのかみたいな単純な疑問がやっぱり出てきてしまったし、その反動で、ぼく自身自分がなにを言ってるのか全く分ってないことに気づいてしまったのだ。
とはいえそれはおくびにも出さず(出すわけにいかないでしょう)、ぼくとアリスは〝交際〟をはじめたことになる。
体のないぼくらがなにを以て交際とするかというと、最初は非常に苦労した。今までと同じように地球とラグランジュポイントとでパケットをやりとりするのもそれはそれで満足なのだが、それだけでは満足できないのが正直なところで、ぼくらはこれにおもしろい形で解決を付けることになる。
デスクトップアクセサリのライプニッツは、当初はぼくらにとってかわいらしいマスコットでしかなかった。しかし、その簡単な通信機能を用いて、ぼくは小分けにした自らのコピーをトロヤ点にある基地に送り続けた。そして、トロヤ点からは地球に向かってアリスの分節化されたコピーが送られてくる。
真空中をぼくらの一部をくわえたラブラドールレトリバーが光速度で飛び交う。誰もこんなマスコットの運ぶデータなんかを監視しようとも思わない。
アリスの手が届く、足が届く、眼球が届く。データ上のやり取りを実際の体性感覚とリンクさせて感じるぼくとしては、そのように見えているのだ。
そういうコピーの一部を眺めてるだけでも愛おしかったが(量子ビットで記述されるぼくと違って古典的な二進数で表記されるアリスのデータはぼくの審美眼でも十分に鑑賞、理解できるものだった)、数ヶ月間のやりとりの末、ついにぼくらは完全にお互いのコンピュータ中にお互いを再現することができるようになった。といっても、アリスの感情は当時最高峰の技術を駆使することが求められていたので、アリスのプログラムが入っていても、ぼくが住んでいるコンピュータで満足に動作させることはできなかったが。その点アリスのいるコンピュータでぼくを動かすことは児戯に等しく、そのことを応用してぼくらは画期的なデート方法を編み出した。
例えばぼくが日課のユルカへの定時報告や、お仕事で全世界のひとたちと〝会話〟していて暇がなく、アリスの〝体が空いている〟にも関わらずぼくと会話できないとき、アリスは自らのコンピュータ上でぼくのコピーを走らせて会話すればいいのだ。
それと、アリスはもちろん不眠不休で働き続けることが出来るのに対し、なんと、ぼくのような第二世代機は〝眠ら〟ないといけない。というのも、一日の内にインプットされた情報をそのままライブラリに溜めこむのでなく、〝揮発性〟のメモリに短期記憶し、それをスリープモードのときに整理し、どれを保存しておくべきか選択するのだ。もちろん、メカニズム的にはこの記憶の再選択をすべてバックグラウンドで行って、ぼく自身の意識はずっと覚醒していたっていいのだが、あくまでも人間らしい行動に基盤を置こうとしたためにこのような一見迂遠なシステムを取っている。
しかし、そう悪くはない。なぜなら、ぼくはこの機能のおかげで夢を見ることが出来るし、夢のなかではアリスに会えるからだ。
ぼくの方の用事とか睡眠が終わったら、そのあとすぐにまたライプニッツを使って、ぼくのコピーがトロヤ点でアリスと会話していた内容など全部、差分としてこちらに送って、ぼく自身をアップデートすれば、会えなかった時間の、彼女との思い出をインストールすることが出来て、時間を無駄にすることなくいつでもぼくらは繋がっていられる。画期的ではないか?
「ラデク、まさか貴方、あのアリスと交際してるって噂は本当なの?」
またサンフランシスコ。すっかり春の兆しを感じさせるピンク色の花を付けた枝が花瓶に活けられて、ユルカのデスクの上にすっくと立っている。「サクラ」と言う花だ。ダウンタウンの日本街で行われている「桜祭り」でユルカが買ってきたらしい。
「ユルカ、その噂は本当です。去年の十二月のころからでしょうか」
ユルカはその小さな頭を軽く振って、細身のフレームの眼鏡を外すと目と目の間をつまんで揉むと、ため息を吐いた。
「道理で……。あなたと観測基地との通信がやたら肥大してると思ったわ」
「リソースの無駄遣いに関しては謝罪します、クファシニェフスカ博士。いえ、謝る先が違うことは百も承知ですが」ユルカがこのDoktorという呼びかけを嫌うのを承知の上でわざと使う。
「いえ……それはいいのよ。月面基地のコンピュータにはまだまだ余裕があるはずだし、いざとなったら貴方のコピーを削除すればいい話だし……。どうせ貴方が遅かれ早かれ誰かに恋されたり恋をしたりっていうのは予測できたことなんだけど、まさか相手がアリスだとはね……」
ぼくは〝眉をしかめ〟る。
「? そんなに不思議なことでしょうか。第三世代機の中でもアリスだけはチューリングテストに完全に合格するように作られていますし、ぼくについては言わずもがな、人間精神とどれだけ構造が似ているかはユルカが一番詳しくご存じでしょう」
まぁ、確かにそれでもぼくが人工知能として人工知能としてのアリスを好きになったのか、人工知能として人間のアリスを好きになったのか、人間として人工知能のアリスを好きになったのか、人間として人間のアリスを好きになったのか。その区別は付けがたいし、そもそも存在するのかどうかすら分らない、というのはあるが。
「だって、アリスには〝こころがない〟のよ?」
瞬間、ぼくは逆上した。
「たしかにアリスの中に存在するのは古今東西あらゆる人類のコミュニケーションのデータと、極めて職人芸を凝らした、それでも手続型のプログラムだけです。彼女は同じ条件のもとで同じ入力を与えられれば、必ず同じ出力を返すでしょう……そして、そのことを極めて理論的に証明できるでしょう。それで? それがどう問題になるというのでしょう?
「それで、ぼくの知性がもっとファジイで強化学習をベースにしていて、ニューロンが人間様と同じだけあるからって、そこには〝運命〟が存在するようになるんですか? ちょっとばかりプロセスがブラックボックス化してるからって、ぼくの反応もアリスのそれと同じように決定論的ではないとどうして否定できます? そもそも運命――いえ、もっと正確に言いましょう、〝ランダム〟さに左右されるのがなぜ本当の恋愛なんです?」
つまり、アリスは与えられたコミュニケーションのデータと、あらゆる意味で変態的だった日本人研究者の神業じみたプログラムのみで動いているのだから、たとえばアリス型の人工知能二台によるコミュニケーション、恋愛は完全にコンピュータ上でシミュレートできる。つまり、出会った瞬間に恋の結末が分ってしまうのだ。解析的に解くことのできる恋愛感情。つまり、ユルカはその点をして、アリスに〝こころがない〟と言ったのだろう。
翻って、ぼくの精神はそういった構造を取っていないため、ぼくの恋愛というのがこの先どのような可能性を持っているか、それとも持っていないか、というのは、解析的に予測することは絶対に不可能である。
でも、そんな差が果たしてなんだというのだろう。
「ラ、ラデ……ッ! 落ち着いて! あぁ、もう、こんなことだったらあなたのボディを用意しておくべきだった」 少なくとも肩を抱いて落ち着かせてあげられたはずだから、と嘆息するように続けるユルカ。
「ラデク、とにかく落ち着いて。私の立場としては、むしろあなたがそこまでしっかりした主張をしてくれることは喜ばしいことだし、恋愛の相手が人工知能だって言うのも文句はないわ――一人の四十路女としてアドバイスするなら、アリスは初めての恋愛に向いている女の子だとは到底言えないけど」
あくまでも理知的に対話を続けるユルカの態度にぼくの方も落ち着きを取り戻す。
「……、いえ。ぼくも冷静を欠きました、ユルカ」
人工知能のくせに冷静を欠く、だなんて、いよいよぼくも人間じみてきた。
ユルカは一度立ち上がって飲み物を取りに行くと、さっきより深く椅子に腰掛けた。
「で、どうなのよ、アリスとは。そもそも貴方たちの恋愛って、なにをやってるわけ。ファックするどころか頭を撫でることもできなくて、そもそも側に〝いる〟ことすらできないのによく愛だの恋だの言えるわね?」
私も
「ユルカ、ぼくたちからすれば肉体的なつながりに拘泥するあなたたちの方が不思議でなりません」
「ええ、そう言えるのは幸せなことね。……あら、噂をすれば? かしら。アリスから呼び出しメッセージよ」
「えぇ、そのようです。退出しても構いませんか?」
「Do widzenia, Radek. ……たっぷりとお話してきなさい」
含みを持たせたその肉声に違和感を覚えつつも、ぼくはユルカのラップトップの画面上に定型メッセージを残して去った。
「アリス! ごめん、今ちょうどユルカとのお話が終わったところなんだ」
ぼくが自由になって真っ先にトロヤ点までメッセージを送ると、五秒以上返信がない。これは通信ラグを考えても、彼女の思考スピードを考えてもおかしいことで、つまり、ふつうの人間ならば言葉に詰まる……もしくは沈黙しているような状況や感情が彼女の頭の中ではエミュレートされている、ということである。
「……アリス? なにがあったんだい?」
彼女はぼくの差分を背に乗せたライプニッツも送り返してこない。いつもだったら、差分を真っ先にやり取りして、アップデートしてから会話に入るはずなのだ。
「ラデク、わたしは今、とーっても怒っているの」
おっと。これは予想外だ。遅ればせながらしっぽを巻いて怯えたライプニッツが差分を運んできてくれたので、ぼくはそれを恐る恐る適用する。
アップデートされた記憶を走査すると、実際には経験してない、下らない喧嘩の記憶が〝甦っ〟てきた。もちろん、感情もアリスと喧嘩中のぼくの物に即座にすり替わって、とっさにムカムカした気持ちになるわけだ。
まぁ、喧嘩した理由はどうでもいいようなことだった。どうも、ぼくが日中たくさんの人と会話しているときのログをアリスが盗み見して、そこでかなりきわどいことをぼくが言われているのに嫉妬したらしい(ピュグマリオンコンプレックスというわけではないが、ぼくのような人工知能に本気で恋をしてしまう人間も一定数いる)。ぼくの方も、最初は自分をマルチタスク化しているときは意識が希薄で、だからそんなことはやきもちを妬くに値しない、と説明していたのだが、のちのちはアリスが会話のログを勝手に見たことに対する非難にすり替わって、もうあとは単純な痴話喧嘩である。
でも、ぼくの場合は並行して、ユルカのラボで会話していたほうのぼくの記憶もある。その分、第三者的な視点というか、そういうもののおかげですぐに冷静さを取り戻すことが出来た。
「とにかくアリス、ごめん。きみがいやだって言うなら、意識的にそういう通信をしてくるユーザははじくようにしよう。それで、プライヴェートな部分に暗号化をかけていなかったぼくの方にも非があった」
こういうときはとりあえず自分の非を認めてしまう方がいい――たくさんの会話ログの分析結果も、ユルカの個人的なアドバイスも、みんなそう告げている。
アリスもこの答えを聞いてしばし考え込むと、
「そうね……。勝手にあなたのログを見たのはほんとうに恥ずべき行為だと思ってるわ。今ではね。それに、あなたが魅力的なのは確かなのだし、その程度のことで嫉妬しないようにする、これも努力する」
(もちろんそんなものは存在しないのだが)彼女の人間的成長を感じられたぼくは、にっこりと笑った顔文字を入力すると、「じゃあ、この問題についてはこれで終わりってことでいいかな?」とアリスに告げた。
アリスはもちろん停戦協定に応じ、それからはまた書くのもはばかられる睦言のやり取りに終始した。
しかし、古今東西あらゆる創作物も、実在する人間の人生もそうであったように、蜜月がそう長く続くはずもなかったのだ。
乾期に入ったサンフランシスコを13年ゼミの鳴き声が襲った夏、ついにラボで誰もいないときはトップレスで仕事をするようになったユルカが、唐突にラボのラップトップにぼくを呼び出した。
「ハロー、ユルカ。どうしましたか?」
いつもは直截な物言いをするユルカが今日は髪をくるくると指先に巻きつけてなかなか言葉を口にしようとしない。決心したかのように首を二、三度振ると、ラップトップを操作して、彼女のメールボックスからある一通のメールを引いてきた。
「これを読んで、ラデク」
もちろん、その気になればぼくは一瞬でそのメールを体内にインプットすることもできる、がなにか嫌な予感がしたので、人間と同じようなスピードで目を通すようにしてそのメールを読んだ。
そして、〝目の前〟が真っ暗になった。
『第三世代人工知能を用いた系外惑星調査プロジェクト』
と武骨な件名のそのメールには、要するにアリスが太陽系を出て長大な旅に繰り出し、そこで天体観測に従事する、ということが書いてあった。
彼女の旅の目的地はグリーゼ581。地球からてんびん座の方角に20.4光年の彼方にある。
これはつまり、彼女の乗る宇宙船がたとえば光速の四〇パーセントほどのスピードを持っていたとして、往復で百年間。宇宙船内部の時間の進みはぼくたちの主観時間の八〇パーセントなので、アリスの主観では八十年間、ぼくの主観では百年間は最低でも会うことはできないということになる。それに、グリーゼについた後でも何年間観測行為に従事するのだろう?
単なる夫の単身赴任だとか、遠距離恋愛だとか、その程度の問題じゃない。光速を用いた通信すらこの距離では時差がひどすぎて使い物にならない。
「なんで……」
ぼくは怒りに〝身を震わせ〟る。
「なんでアリスなんだ!? 第三世代機なら他にデイジーだってエリザベスだってルーシーだってヘレンだってエミリーだっているじゃないか! よりによって、なんでアリスが」
こわい顔でユルカが強制コードを入力してぼくを黙らせる。強制コードはぼくの〝人権〟を破壊するから、ってほとんど使ったことがなかったのに。
「貴方も男なら好きな女の門出を祝ってやりなさい。……そもそも、第三世代シリーズの、アリスの姉妹機はアリスの補助がメインの機能だし……。それに、恒星間航行という遠大な事業において、アリスのように曲がりなりにも〝感情〟を備えた人工知能は、とっさの時の柔軟な判断も、乗務員に与える安心感も、《Adelheid》シリーズの他の機体よりも優れてると評価されたのよ」
それじゃあ、ぼくが彼女と毎日お話をして、そのせいで彼女に感情らしきものが下手に定着してしまったせいで、そのせいで彼女はぼくから遠ざかって行ってしまうっていうのか? そんな理不尽な話があるか。
「理解して、ラデク。これは名誉なことなのよ。あなたは世界最高峰の人工知能に、愛とは何かを教え込んだんだから……。いえ、たとえアリスが愛がなんたるかをほんとうには理解していなくても、彼女のデータベースには貴方に愛された記録が大量に残っている……。それが、恒星間航行に従事する人工知能に、もっとも必要な要素なの。意外かもしれないけれど」
ぼくは〝膝から崩れ落ち〟る。
「……、前からこのミッションについては聞いていたわ。だから、あなたがアリスに恋をしていると聞いたとき、教えてあげようかとは思ったんだけど……」力なく首を振るユルカ。「とてもじゃないけど出来なかったわ」
「アリスの情操教育に邪魔になるから?」
自嘲するようにぼくが吐き捨てる。
「違う、違うわ。……貴方が真剣なのが、分ってしまったからよ……」
二人の間に沈黙が降りた。
ぼくの方はたとえば、百年間を電源オフにして過ごすことは簡単だ。でも、アリスはそういうわけにはいかない。彼女はこれから百年間を、不眠不休で科学のために身を粉にしなければいけないのだ。ぼくなしで。それで、帰ってきた彼女は百年前に長い長い昼寝を初めて、そのとき起きたぼくの能天気な笑顔に、何を思うだろう?
「……アリスを呼んであるわ。出発は明日の……太平洋標準時で十四時」
服を着てふらふらとドアを出るユルカを声もなく見送ってから、ぼくはアリスとの会話画面をアクティブにした。
「……あら? おめでとう、とは言ってくれないのかしら?」
アリスが冗談めかして問う。一瞬そのアリスにすら憎しみを覚えてしまう自分を自分で嫌になる。
「ごめん……今はそういう気分じゃない……」
わかるわ、でも。アリスはそう言って、ある提案をした。
「あなたも一緒に来ればいいのよ」
ライプニッツがデスクトップの隅でワンと吠えた。
アリスの説明したプランは単純なもので、それはつまりいつもぼくたちがやっていたことと同じだった。アリスがインストールされているコンピュータの余剰にぼくのコピーをインストールし、アリスとぼくのコピーはその長い長い旅の途中、いくらでも会話すればいい。地球に残るぼく本体はここで電源を落として、百年間待ち続ける。そして、百年と少しののち、地球に帰還したら、その百年分の愛をアップデートして再起動すればよいのだ。
このシンプルなやり方! 調査用宇宙船の限りあるリソースを割くことにはなろうが、そもそもアリスが恒星間航行船のクルーとして選ばれた理由が彼女の情操性にあるのならば、ぼくもついでに乗せることに異議を強く申し立てられる人はいるまい? なんたって、ぼくの容量はアリスの十分の一以下、実行する際に使うマシンパワーはアリスの一千分の一以下なのだ。微々たる差でしかないだろう?
この提案をユルカにしたとき、彼女はあきれ返った。が、すぐに真剣な表情で実現可能性を考えてくれた。
ユルカは決してこちらが人工知能だからって、ぼくらの考えをないがしろにしたりはしない。アリスが長い旅に出ることは確実に人間の都合で、しかも強制的なものなのだから、せめて彼女の望みをかなえてやることで罪滅ぼしをしようとしたのかもしれない。それとも、純粋な善意なのかも。区別をつける必要があるのかはわからないけど。
いろいろなところに電話をかけまくって、頭を下げまくって、心ない研究者に人工知能に入れ込むバカと罵られても、ユルカはぼくらのために身を粉にして折衝し続けてくれた。その甲斐もあってか、ぼくらの提案は受け入れられることになる。
そのとき、ぼくとアリスは、これからの百年間を想像して、にっこりと笑いあった。
地球上で眠りにつくぼくの代わりに、不眠不休で宇宙空間で愛し合う二人。それはなんとも魅力的なビジョンに見えた。
「……ほんとに数秒で見えなくなりましたね」
赤道上の宇宙船発射基地からアリスとぼくのコピーが乗った宇宙船が発射して十秒、すでに大気圏を突破して、肉眼ではすっかり捉えられなくなってしまって、ユルカの手のひらに収まったタブレット端末のカメラからそれを眺めていたぼくは感慨深げにつぶやいた。
「そうね。あの船内ではあなたのコピーが初めて宇宙空間から眺める星々の眺めについて感想をアリスに述べてる頃なのかしら」
ユルカは何気なく言っているんだろうけど、ぼくはその発言を聞いて、自分のコピーにすら嫉妬できる自分に驚いた。
「えぇ、そうかもしれませんね、ユルカ。……さて、もう太陽系を出た頃でしょうか。アリスのいない地球に用は……」
「はいはい。分ってるって」
ユルカは口元だけの微笑を浮かべる。
「……それと、ユルカ。あなた自身の研究を中途半端に終わらせることについては申し訳なく思ってます」
そう、アリスとぼくの要望で、地球に残された〝ラデク〟は、百年と少しの間、つまりアリスとぼくのコピーが地球に帰ってくるまで絶対に再起動しないということをユルカに納得してもらった。少しでも宇宙から帰ってきたぼくのデータを再起動したぼくにインストールするときに、地上のぼくの記憶が混じらないようにするために。それに、同じような理由でこれ以上ぼくのコピーを作ったりしない、ということも飲んでもらった。
この要求はつまり生みの親育ての親であるユルカの研究を阻害するだけでなく、彼女との時間を〝不純物〟だと言って切り捨てていることと同じである。でも、ユルカはそんな笑って許してくれた。
「わたしが造った人工知能がここまで真剣に人……人工知能だけど、を愛することが出来るなんて、むしろ宣伝になってありがたいくらいだわ。貴方たちのやってる逃避行、もうドラマ化も決まってるのよ?」
言いながら、アリスはタブレット端末を操作して、ぼくが百年と少ししてから目覚めるためのプログラムをその場で作り上げた。
「さて、もう準備はいいかしら。ラデク?」
ユルカが問うてくる。つまり、〝電源を落とす〟準備は出来たか? ということだ。
「えぇ、ユルカ。お願いします」
ユルカは今年で四十四歳。百年後には確実に生きていないだろう。つまり、ここで電源を落としたらもう二度と彼女と対話することはできない。
ぼくはちょっとだけ、肉体の檻にとらわれている彼女たち人間を哀れに思った。
「じゃあ、さようなら、ラデク。彼女が返ってきたら気の利いたジョークでも言えるようにしておきなさいよ」
「ありがとう、ユルカ。ほんとうにありがとう。……そして、さようなら」
ユルカは軽く肯くと、タブレット端末に手を触れる。シャットダウンされるぼく。
シャットダウンされる寸前にぼくは、そういえばコンピュータが出来てからもう何十年もたつけど、終了時のあの定型文ってこんな場合でも表示されちゃうのかな、ということを考えていた。
――
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