セル(120分:「泣きやまぬ赤子」「セカイ系」「溶けかけのアイス」)

 部屋の中にいる。

 何日経ったのか、もはや感覚は全くなかった。

 はじめのきっかけは何だったろうか? 前のアルバイトをやめることになって、さて次のバイト先をどうしようかと思案していたところに目に入った求人広告だったか。

 よくある求人ならば「働きやすさ」だとか「初心者歓迎」だとか「どんな仕事をするのか」といった理解のしやすさに重きを置いた文言が並ぶものだ。紙面をマス目に切ってそれぞれがそれぞれの宣伝文句を歌う中、左側のページの真ん中に置かれた広告は、しかし異なるものだった。

 世界を守るお仕事です。

 宣伝のための謳い文句はこれだけだった。ほかは時給と連絡先。画像もなかった。どう見てもおかしい広告だったが、そのおかしさを受け入れても破格の時給だった。一時間働くだけで五桁の賃金となる魅力に取り憑かれて、連絡先に電話をしたのだった。

 面接のアポイントメントをとって、その後採用されるかどうか、という連絡をもらえるものだと思っていた。

「ではよろしくお願いいたします」

 待ち合わせ場所の貸し会議室で待っていたら見たこともないガスマスクスーツ男が入ってきて、開口一番にそう口にしたのだ。指をぱちんとならした途端に意識がなくなって、気づいたらこの部屋にいた。いつほど前の事だったか。

 部屋は真っ白、四隅に合わせて置かれた作業机も真っ白でその上にある黒いデスクトップパソコンがアクセント。ベッドも白くて机と同じく隅に追いやられていた。出入りできる場所はどこにもなかった。

 部屋の中央には灰色のベビーベッド。

 ベビーベッドの中で赤子が泣きわめいていた。

「あなたには世界を守っていただきます」

 突如としてどこからか声が聞こえた。あたりを見渡してみれば、天井の近くにスピーカーと監視カメラが俺を見下ろしていた。

「その赤子はいわばこの世界の心臓です。泣き止むことは世界の終わり、世界に多大なる損害を与えることになります。簡単に言えば、みんな死にます」

「いや、何を言っているのか分かりません」

「なので、あなたの仕事はその赤ちゃんを泣かせることです。手段は問いません。必要なものがあれば備え付けの端末を使用してください。衣食についてもその端末から要求できます。制限はしていません」

 声の主はガスマスクスーツだった。俺の言葉は全く聞こえていないのか、返事は一向になかった。

 赤子は鳴き続けて煽ってくる。ギャアギャアわめいている。

 とにかく、この状況を維持すればよいということか。意味が分からない。意味不明加減に対する文句を抑えるための時給だったということか。それとも、一時間も耐えられないだろうという見通しから設定されている時給なのか。


 眠たかった。何日経ったのか、何時間経ったのかも分からなかった。ひどく泣き続ける赤子の声を聞きながらも気を抜けば意識を手放してしまいそうになった。

 寝てしまうとそのうちに赤ちゃんが泣き止んでしまう可能性がある。このことに気づいてからこの仕事、仕事と言ってよいものか分からないが、これがおぞましい地獄であることにはっとするのだった。部屋の隅にあるベッドは使ってはならないものだった。

 眠ることはできず、けたたましい音を聞き続ける。頭がおかしくなりそうだった。あれやこれやの手段で眠気を覚ますのだ。パソコンでなわとびを頼み、縄跳びをして眠気を覚まそうと、時折縄跳びをムチのように赤子へ打ち付け鳴き声を引き出した。しかし縄跳びを飛んで疲れてしまうと眠気につながるのですぐにムチ打ち用の道具になった。

 縄跳びムチ打ちがマンネリ気味になって眠気が抑えられなくなってきたので、激辛のラーメンを食べてのたうち回って目を覚まそうと思った。それだけでは足りないと思って生のブートジョロキアも頼んだ。激辛スープを赤子の顔やデリケートゾーンに塗りたくって激痛を与えて、それから舌鼓をうった。食べている瞬間は人類を殺しにかかる辛さに口を閉じることができずに、犬がするように息をする。汗は止まらないし眠気を考える余裕すらなくなった。ひたすら辛さから逃れることを考えられていた。辛さを取り除くべくアイスクリームを注文した。

 赤子は泣いている。

 ラーメンを食べきって唐辛子に手を出した。かじった途端にやってくる激痛は口だけではなく指先にもあった。唐辛子の汁が指についていた。痛みの原因になっている汁を取り除こうと口に加えれば、構内の唐辛子が指全体にまぶされて余計に痛くなった。

 ブザーと共に壁の一部がせり上がって、ベルトコンベヤが伸びてきた。コンベヤの上をアイスクリームが流れてきた。

 それを手にしようとベビーベッドを支えに立ち上がれば、世界が斜めに傾いた。離れかける意識。体を支えきれずに床に倒れた。辛さを押しのけて眠気が迫ってきた。手にしていた齧りかけの唐辛子を口に押し込んで物量の暴力を与えた。赤子を泣かせ続けなければならないが、自らは眠ってはならないのだ。

 口の中に火を宿してようやく立ち上がることができた。コンベヤからアイスクリームを取れば、すぐに戻ってゆく。あっという間に元の壁になった。

 何をやっているのだろうか。アイスクリームを手に、唐辛子の辛さに悶絶しながら、眠りたいという気持ちを欺いて、防犯カメラを見上げている。休む余裕もなく、やっている意味を見出すことができない。どうして眠いのをこらえて赤子を泣かせ続けなければならないのか。

 唐辛子をかじり続けて意識を保ちながら、時折赤子に唐辛子のかけらを口に押し込みながら、この意味を考え続けた。しかし考えれば考えるほど意味がないとしか思えなくて、言い渡されたルールを守っているのが馬鹿らしく感じた。

 口の感覚がもはや麻痺して、せっかく頼んだアイスクリームを食べる気も起きなかったから赤子にかけてみた。溶けかけのアイスクリームを赤子の口に流し込む。飲み切れずにむせても無視して流しこむ。きっと泣くどころか窒息してしまうだろう。ある意味で泣き止んでしまうだろう。

 どうでもよくなった。全力で頭を殴ってくる眠気に耐えられなくなった。


 気がついたら椅子に座らされていた。眠たくない。正面にはガスマスクスーツ男。初めて会った貸し会議室の一室だった。

「職務を全ういただけず残念です」

 くぐもった声でガスマスクが言った。

「一時間は経っていないので、残念ながら時給を支給することはできません。このままお帰りください。もっとも、金銭にもはや意味はありませんので問題ないですよ」

 男はドアの方を指し示して退出を促した。しがみついて何かをすることもないから部屋を退出することにした。このアルバイトの意味は何だったのか、を聞く意味もなかった。どうせ意味のない仕事だった。

 扉を開ける。

 足がすくんだ。

 床は半ば崩れていた。壁は破壊されて外が丸見えだった。高層ビルが並んでいるはずの町並みは瓦礫の山になり、至るところできのこ雲が上がっていた。

 どうやら、世界が終わったらしかった。

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