Element grail ~白銀王国の裁定者~

七四六明

白銀王国・キャメロニア

伝説の序章

 青年に願いはない。


 青年に懇願はなく、願望もない。


 青年の辿って来た人生を他人が振り返れば、何かを願ってもおかしくはないのだろう。


 しかし青年は、何も祈らない。何も願わない。


 欲望がないわけではない。食欲に睡眠欲に性欲。人間の三大欲求は、ちゃんと持ち合わせている。


 彼が何も願わないのは、彼が何も祈らないのは、一つの願いがあるからだ。

 その願いを叶えるためには、何も願ってはいけない。何も祈ってはいけない。


 それが矛盾であることはわかっている。


 しかしそれでも、青年は少年だった頃からその願いを叶えるために、願うことをやめた。


 だが青年の願いは叶わない。どれだけの苦痛と不幸に身を置こうとも、運命は何も願わない彼を嘲り笑い、彼を見放した。


 だが彼は願わなかった。自身の救済を。自身が救われることよりも、自身を罵り侮辱する者達の救済を願った。


 その結果彼の周囲は皆が救われ、青年の元から去っていった。


 そんな生活が六年続き、青年はもはやただ死を待つだけの存在となり果てた。

 誰もいない孤児院の片隅で体育座りのまま、餓死するだけの存在となり果てた。


 だがそれでも、青年は何も願わない。もはや自己陶酔に落ちていると他人に言われてもおかしくないだろう執着は、もはや彼そのものとなっていた。


 故にだろうか。何も願わなかった彼に、願いのために何も願わなかった彼に、救いの神は現れた。

 輝く後光が直視することを許さない。神は青年に、比較的優しい言葉で問いかけた。


「青年、其方は何を望む。其方は何故、何も願わない」


 神の言葉に、青年は何も言わない。

 無視を貫いているのかと一瞬思った神であったが、しかし彼の喉を見て吐息した。青年には見えないが、哀れみを込めた眼差しで青年を見る。


「そうか……自ら喉を切ったのか。自らの口で、他の願いを言わないように……其方の願いは知っている。其方の願いを叶えることも、我には造作もないことだろう。だが、いいのか? 其方がこれまでに失った物、それを取り戻すのは難しくなるが……」


 それでもいいのかと、神が問うよりもまえに青年は頷く。神もまた静かに頷き、青年の頭にそっと手を置いた。


「其方の願いを叶えよう。其方はこれから多くのことを願い、祈るのだ。大丈夫、例え世界が許さなくても、この我が許す。其方の願いは、世界の願いだ。故に願うのだ、祈るのだ。其方の願いのために、力強く」


 青年の願いを、神は叶えた。しかし青年がそれをその場で自覚することはできなかった。

 青年の願いは、決して自身やその周囲に、変化をもたらすものではなかったからである。故に青年は、このとき神によって施された変化を、朧気に感じ取ることしかできなかった。


 だが神は、其方の願いは叶えたと口にすることはなく、そっとその手を下ろして静かに吐息した。


「我にできるのはここまで。あとはすべて其方次第……だが其方は、何もかもを失い過ぎた。それでは其方の願いは叶わない。故に、我から一つ其方に与えよう。其方が失った物を。何を望む?」


 青年は首を横に振る。


 ここで何かを望み、懇願することは、自身の願いとはまた違ってしまうと思っているのだろうことを神は悟る。それはもはや、青年が自身で起こしてしまった、弊害であることも理解した。


 故に心優しい神は、再び青年の頭に手を添える。


「これは我からの――いや、私からの贈り物だ。其方に名前を与えよう。これからを生きる、其方の名前だ。生きろ、そして叶えるのだ。聖杯を求めて、裁定者たる其方の願いを叶えよ」


「其方の名は――」


 その後、青年は目を覚ました。今までのことはすべて夢で、自分の願いはまだ叶っていないのだと思った。


 だがポケットに今までなかった異様な膨らみを感じ、中の物を取り出してみる。それは小さなオルゴールが内蔵された、とても小さなコンパスだった。

 そのコンパスの針はグルグルと回り、やがて一つの指針を差して止まる。


 青年はおもむろに立ち上がると、ゆっくりと小さな歩幅で歩きだす。その一歩こそ、これから再び始まる伝説の、始まりであったことを、世界は神を除いて、知ることなど叶わなかった。

 

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