夜の出来事
高村千里
第一作目
それは私が夜中、闇の深いベッドで気持ち良く眠っていた間の出来事だったのだろう。眠りから覚めると、私は知らない場所にいた。実際には、辺りは真っ暗で遠くにぼんやりした灯りが見えるだけだから、私の知らない場所なのかどうかは分からなかった。けれど私の身体が全く、柔らかいベッドの上にないことだけは感触で理解したのだ。これは大変なことだった。私は齢十六の乙女なのだ。眠りから覚めたら違う場所にいたなどということは、絶対にあってはならない。私は微かに土の香りのする地面に手をついて起き上がった。私の胸中には、凛とした決意が生まれていた。私が眠っていた間の出来事を探らなければならない。
遠くにある灯りを目指して、私は歩き出した。暗くて良く見えない地面に初めは恐る恐る足を踏み出していたが、やがて暗闇に目が慣れてきた。暗闇の中で私の白い素足がぼうっと光って見え、私の歩幅を大きくした。
その灯りまでは長い時間かかった。ようやく私は灯りの目の前に立ち、それが私の胸くらいの高さの街灯であることを知った。飾り気のない裸のガラス玉から、下へ細い管が伸びた奇妙な形の街灯で、ガラス玉の中の光は近くで見ると赤っぽい色をしていた。私はその様を、チューリップのようだと思った。
私は改めて周りを見回してみた。灯りのおかげもあって、少し遠くまで見渡せた。一面の闇。けれど等間隔に、私の隣に建つ街灯と同じ光が見えて、やっぱりこの場所は私の知らない場所なのだと確信した。私の家や、家の周りにチューリップの街灯は存在しない。反対にこの場所には、チューリップの他何もなかった。私は仕方なく、次の街灯を目指して歩き出した。
初めのころ、寝起きの精神だったからかいやに冷静でいられたが、こう段々歩いていくうちに私は焦ってきた。状況を楽観視していたが、これは紛れもない誘拐事件じゃないか。叫びだしそうになった時、私は次の街灯にたどり着き、初めて人間を見つけた。
大層年を召した老人だった。最初私は誘拐犯かと疑った。老人は街灯のすぐ近くに腰を曲げて立っていて、私を見つけると(私は老人に向かって構えた)彼はしわに覆われた顔で驚いてみせた。その驚きは、誘拐した娘が脱走したという驚きではなく、ひどく純粋な驚きだったので、私は思いきって尋ねた。
「ここはどこなの?」
しかし、老人は答えない。耳が遠くなってしまったのだろう、きっと。私はさっきよりも大きな声で尋ねた。
「ここはどこなの?」
老人はまた答えなかった。私の問いを無視して、または通じていないのか、ゆっくりと私に背を向ける。緩慢な動きで街灯にもたれ、その赤い光を享受すると、彼の身体は赤く透き通った。
私はその場から離れ、歩き出した。しばらく歩くと、また赤い街灯の前に着いた。今度は六十代くらいの女の人がいた。
彼女は健康そうな焼けた肌が印象的だった。生き生きとした表情で、私の方には目もくれず、一人楽しそうに笑っている。私はとてもじゃないが同じ気分にはなれない。どうして一人で楽しそうなんだ。貴女はこんな闇の中よりも、太陽の下で微笑む人間ではないのか。「ねぇ、」私は先ほど老人に話しかけた時よりもしっかりと、彼女に声をかけた。
彼女がその瞳に私の姿を映した瞬間、突然彼女の真っ黒の瞳の奥がぐらりと揺れた。私は思わず後ろに身を引く。彼女もまた、あの老人と同じように驚いた表情をしたのだ。
彼らの反応は、居心地が悪い。まるで私が、異国から来た人形であるかのような反応をする。珍しい見世物。もう母国には帰れないだろうという同情の眼差し。
「一体あなた達は誰なの。ここはどこ?」
彼女の黒い瞳と表情は、私の言葉にぴくりとも変わらない。私が前に、日本人と間違ってアジア系の外国人に道を尋ねてしまった時と反応がよく似ていた。言葉が通じないんだ。
だからか彼女は、代わりに口を開いた。懸命に口を開閉した。ひたむきに、喋る行為に全霊を注いでいた──彼女は喋れなかったのだ。必死に話そうとするが、音として出るのは「あー」とか「うー」とかの、赤ん坊が出すような声だけだ。彼女は言葉が通じないだけではなくて、喋ることが出来ない。私は愕然としてしまって、しばらく動けなかった。
また歩き出した時、後ろを振り返ると彼女は初めのころのように戻っていて、にこにこと一人楽しそうに笑っていた。
私は段々、私が夜中、闇の深いベッドで気持ち良く眠っていた間の出来事が誘拐ではないという事実に気づき始めていた。まず、ここには誘拐犯がどこにもいない。それに目の覚めた私の手足は自由で枷がされていなかった。閉じ込められていた気配もない。じゃあ、誘拐ではないとしたら……。跳ね上がりかけた心臓をなだめ、歩くことに集中していたらすぐに次の街灯が見えてきた。赤く光るガラス玉の下の管に、男が背を預け座っていた。
男は三十代に入ったか入っていないかくらいの年齢で、短い髪の生えた頭を垂らしていた。眠っているようだった。こっちは不安が膨張して押しつぶされそうになっているというのに、呑気なものだ。それを見ていると、しだいに私はいらいらしてきて、しまいにはどうせ言葉が通じないんだからと仁王立ちになると、息を吸い込んで叫んだ。
「ばか! ばか! ものぐさ、のろまのちんちくりん!」
男の肩が震えた。目を覚ましたのだ。私は勝ち気になって男の許に詰め寄り、勇んだ。
「何か話せないの? 私の言っていることが分からない?」
やはり男は何も話さない。
私は堪らなくなって、孤独でいっぱいになって、ああもう駄目だと思った。私は男の頭上に手を伸ばすと、赤い、チューリップの花弁に触れた。ガラスを通り抜けた赤い光は、じわじわ十重二十重に輪を作って外へと輝いて、その輝きは私の手にも届いた。最初ためらうように私の手を包んでいた光は、やがて確かに私の手の中も通り抜けてしまう。
「ああ、やっぱり」
私は、私の手が赤く透き通ったのを見て、絶望でへたり込んでしまった。
つまり、私が夜中、闇の深いベッドで気持ち良く眠っていた間の出来事は、紛れもなく、死であった。私は全然誰の手も借りることなく、誰に連れ去られるでもなく、”ここ”に来たのだ。
「私は死んでしまったんだ!」
たったの十六歳で。まだ何も出来ない、夜眠り朝起きることだけが義務であった私が、何もすることなく、気がついたらこんな所にいるだなんて。行き着いた真実を誰かに否定してほしくて記憶を遡っても、ここには言葉の通じないおじいちゃんとおばさんと、ものぐさなお兄さんしかいない。言葉が通じないのなら、もうどうしようもない。話せないんだ、彼らは。一体、どうして?
ガラス玉に触れていた手を自分の許に引き戻す。ものぐさなお兄さんと目が合った。お兄さんはすっかり目を覚ましていた。その濡れ羽色の瞳が、にやっと笑う。言葉が喋れない、通じない、分からない、ここはどこ? これは────。私の中にひらめきが走った。
”リンネ”だ。
次の瞬間、私は喋れなくなっていた。
夜の出来事 高村千里 @senri421
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