第12話 朱に交われば赤くなる

今日も一日、太郎さんと一緒に営業に行っていた。会社に戻ってくると、

先輩が数人、何か愚痴っているようだった。

「おい田中、お前もそう思わないか?」

先輩のひとりが僕に聞いてきた。

「そう思わないかって、何をですか?」

「うちの会社の福利厚生って充実してないと思わないか?」

「福利厚生のどの部分ですか?」

「住宅手当と配偶者手当だよ。他の会社もっといいぞ」

「そうなんですか。僕は独身ですから、あまり考えたことないですね」

僕はそう言うと少し離れた席について日報を書き始めた。

先輩たちはその後もその話題で盛り上がっていた。

「徹、あんなやつらの会話に加わるなよ。あんな愚痴言っても何も変われへんからな。時間の無駄や。もしその問題に対処したかったら、今自分にできる最善のことを一所懸命することやな」

「例えば?」

「あいつらが言っている住宅手当とかは営業では決められへんやろ。そういうことを議論している部署、例えば人事部に異動できるように頑張る。すなわち、今頑張るってのは、営業成績を上げるってことやな」

「僕、別に人事部なんかに行きたいと思ってませんが」

「昇格すると、そのことを検討している部署の人と直接話す機会も増えるし、少なくとも、あそこで愚痴っているより改善できる可能性は高くなると思えへんか?」

「確かにそうですね」

「朱に交われば赤くなる。あそこに加わると、愚痴ばっかり言って何も自分で改善しようとしなくなるで。行動を起こさないと何も変わらへんからな」

「はい」

「それと、できるだけ優秀な先輩と一緒にいるようにしろよ。学校なんかでも、そうだろう、成績のいいやつってかたまっているやろ、逆に成績の悪いやつは悪いやつでかたまってるやろ。類は友を呼ぶのか、朱に交われば赤くなるのかは分からへんけど、友達、先輩は選ばんとあかんで」

もうひとり先輩が帰って来た。この先輩の口癖は〝忙しい〟だ。

「あ〜忙しい、忙しい」

「お疲れ様です」

「ああ田中、お前暇そうでいいなあ」

「いえ、別に暇ってことはありませんが」

「俺に比べたら暇だよ。俺なんか忙しくて、忙しくて」

仕事量に大した差はないと思うが、この先輩はいつも〝忙しい〟と言っている。

「忙しいが口癖の人ほど、ほんとうは仕事が遅いだけなんやで。仕事の段取 りや要領が悪く、ムダな時間が多いから〝忙しい〟を連発するようになるん や。〝忙〟という漢字は〝心を亡くす〟と書くやろ。忙しいって言って仕事 をしているのは、心がこもった仕事ができてへんということや。心がこもっ てへんから、ええ仕事ができへん。〝忙しい〟って言っている人の成績って 良くないことが多いで」 「でも、よく本なんかに仕事は忙しい人に頼めって書いてませんか?」

「あの忙しいは本当に忙しい人のことや。〝忙しい〟って連発している人と ちゃう」

「本当に忙しい人って、どんな人?」 「見た目には忙しそうに仕事してるけど、忙しいなんて口にしない人。そう いう人は時間の使い方がうまいんや。だから、仕事も速い」

なるほど。

「僕もそういう人を目指しますよ」

家に帰ると、

「あ〜、忙しい、忙しい」 太郎さんが体をくねくねさせている。 「〝忙しい〟って言っちゃだめなんでしょう」

「しゃ〜ないやんけ。忙しいんやから」

目の錯覚か? 太郎さんが二重に見える。

脱皮だ。太郎さんが脱皮している。

「太郎さん、脱皮しているんですか?」

「見りゃ分かるだろう。大変なんやぞ脱皮は」

その後も太郎さんは〝忙しい〟を連発しながら脱皮を続けていた。

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