最後の夏をもう一度 ~キミと居た9日間・忘れられざる日々~
河邑 遊市
第一部 ~70年前のあの頃と70年後のこの時代~
昭和20年 6月6日
1945年 6月6日 夕方
沖縄近海 上空
薄闇色に染まり始めた大海原に、所々鮮やかなオレンジ色に照らされた光の階段が見える。
広大に広がる海は、どこまでも続いてしまうのではないかと思うほどに大きく、遠く地平の果てまで繋がっている。
そんな大海原の上を数機の飛行機が行儀良く列を成して飛んでいく。
沖縄の夕方は遅い。
雲が無い快晴なら、まだまだ真昼のような青空を拝むことが出来ただろう。
あの真っ青な吸い込まれそうになる大空を見上げることも、もうすぐ出来なくなる。いや、厳密に言えば、既にそんなことは出来ないのかもしれない。
ここは狭い戦闘機のコクピットだ。
大いなる大地に自由に横たわり、眠くなる心地よさを感じながら大空を見上げることなど、物理的に不可能だ。
空にはネズミ色をした雲が広がっており、まるでこの先は鬼が棲んでいる鬼ヶ島があるような雰囲気だ。
ま、鬼退治するっていうとこだけは、同じかもしれないけどね。
そんな皮肉を感じながら、操縦桿を掴む両手に力を込めた。
小豆色をしたつなぎのような服に、オリーブ色の救命胴衣を上から結び、フードのような帽子を被り、ゴーグルをつけている。額には、日の丸に“必沈”の文字が荒々しくペンで書かれた鉢巻きを締めて、まだまだ少年のようなあどけなさが残るその顔には、既に二度と大地を踏むことは無いということを承知の上で空に飛びだした、精悍な勇者の一面を思わせるほどの覇気が込められている。
だが、色んな思いが
幼い頃の自分が両親に連れられて近所の神社へ七五三の詣でに出掛けたこと、幼なじみの友達と田んぼの畦でカエルを取って遊んだこと、中学で知り合った友達と毎日地元の町を走ったこと、大学生になって和歌の魅力に嵌まって夜な夜な気の合う仲間と安い酒を片手に吟じ合ったこと、学徒出陣の出陣式に参加したこと、
(※
自分の中にある、22年分の記憶が一同に会して宴会でもしているかのように、目まぐるしく頭の中を騒ぎ立てる。
全ての思い出たちが、まるで忘れないでと言っているかのように。
「さぁ、行くぞ!」
自らを鼓舞するかのように、呟いてみた。
それは同時に、頭の中の思い出たちのざわめきを振り払う意図もあった。
これ以上、思い出してしまったら、逃げ出してしまいたくなるよ。
もう、覚悟を決めたんだ。
一度覚悟を決めた以上、男たるもの絶対に曲げたりはしない!
日本男児の意地を見せつけてやるんだ!
そう強く念じて、正面のフロントガラス越しに前方を睨みつけてやる。
遠方からこちらへ向かってくる戦闘機の影が見え始めた。
「グラマンだ!」
思わず叫んでいた。
アメリカの戦闘機が迎撃してきたぞ!
両肩に力が入るのを感じる。
すぐにアメリカ軍の戦闘機から機銃掃射が行われている様子が見えてきた。
一列に並ぶようにして飛行していた味方の飛行機は散り散りになって、それぞれが敵からの攻撃を避けるようにして飛び始めた。
「恐れるな! 目標は近い! この弾丸の嵐を越えたら奴らの艦隊は目の前だ!」
自分に言い聞かせるように、虚空の雲に向かって言っていた。
その言葉は、最後の離陸前のミーティングでの、隊長からの言葉だった。
「きっと目標に近づけば敵の戦闘機部隊が迎撃してくるだろう。けど、絶対に恐れるなよ! 目標は近い! 奴らの弾丸の嵐を越えれば、もう敵の艦隊は目の前だ! みんな、気合入れて掛かれ!」
その言葉を胸に刻み、機上の人になったのだ。同時にその隊長の言葉は、敵の戦闘機部隊などに屈せぬという強い勇気を与えてくれていた。
この弾丸の嵐を越えれば、すぐに目標がある!
すぐそこまで来ておきながら、撃墜させられるわけにはいかない。何としても、奴らの防衛網を切り抜けなければ!
その思いでいっぱいになる。
先頭を飛んでいた味方の戦闘機から火が上がるのを見た。
「クッ!」
仲間の一人が目標にたどり着く前に脱落していった。
お前の仇も取ってやるからな!
そう思ったのも束の間、自分の操縦する戦闘機にターゲットを絞ったアメリカの戦闘機が居ることがわかった。舵を切りながら、敵の機銃掃射から逃れる。
対抗して攻めに行きたいのに、それができなかった。
この飛行機には、空中戦用の機銃が装填されていなかったのだ。厳密にいえば、取り外されていた。そのため、攻撃手段が皆無であり、ただの丸腰で、敵の勢力圏へのこのこと赴いていたのだった。
なぜそのような無謀なことをしなければいけなかったのか。
その答えはただ一つ。
今も自分の身体の足元に設置されている、大量の爆弾を可能な限り搭載するためだ。
この爆弾を敵の艦隊の上空へと運び、その頭上から放り落とす訳ではない。
この飛行機と、自分の身体こそが、一つの爆弾なのだ。
その爆弾を爆発させるべき場所へと運び、敵の艦隊諸共撃沈させる。
それが、自分に与えられた任務だった。
特別攻撃隊。
名誉ある役目を拝命した。
そう思い、ついに出撃した。二度と帰ることの無い大地に別れを告げて、離陸して大空に飛び立つ。懐かしの祖国の大地が見えなくなり、大海の上に出てしまうと、いよいよ大きな敵艦隊を撃沈させると勇む気持ちが心を満たし、まるで遠足へ出かける前日の、そわそわとしたような、わくわくする落ち着かなさを感じ始めた。
そして、ついに目標地点のすぐそばまでやってきた。
あとは、このハエのごとく小賢しい敵の飛行機から逃げきれれば、任務を全うすることができる。
とはいえ、そう簡単に防衛網を突破させてはくれないだろう。
グラマンと呼ばれた敵の戦闘機の性能は、自分たちが搭乗している三式戦闘機よりも運動性・エンジン出力・最高高度・航行速度・攻撃手段と、どこを取っても遥かに性能が優れているのだ。あの戦闘機を前にして、泣く泣く撃墜されて命を落とした仲間がどれだけいるのだろうか。一度取り付かれてしまえば生かして帰してはくれない。
必死になって、操縦桿を握り締めていた。
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無我夢中で操縦桿を操りながら、夕焼け色に染まり始めた大海原の上を飛んでいた。
気が付けば、敵からの追手は居なくなっており、敵の防衛網を突破できたことに気が付く。
しかし、辺りを見渡しても味方の飛行機が見当たらない。
いや、一機、二機くらいが遠方を飛んでいるのを確認することができた。その内の一機は、機銃掃射を受けて機体がだいぶ傷んでいるようで、黒煙を巻き上げていた。
枝島隊長と、あの傷だらけの機体は杉谷か。
3機だけしか残れなかったのか・・・。
そう感じる。
所属していた第165
いや、むしろ3機も残れたことの方が奇跡だ。
大抵グラマンに狙われたら逃げることなどほぼ不可能だ。たった6機での小隊など、あっけなく蹴散らされてしまっていたことだろう。
それでも自分を含め、3機も残ることができたのは奇跡というほかに言葉が見つからないほどだ。
運よくこの日は他にも振武隊が出撃していたこともあり、各隊の経路がそれぞれ散っていたために敵の防衛網が広く薄く展開していたということも幸いしたのだろうか。
とにかく、自分たちは生き残った。
隊長が操縦する機体が旋回の動きを見せ始めた。それに追従するように、杉谷の機体も旋回を始める。
自分のことを見つけてくれた隊長や杉谷が、自分も含めて3機で改めて隊列を組もうとして、自分のことを待っていてくれているのだ。
「ここまで残った俺たちには、毘沙門天のご加護が付いてるってことだ! 一気に敵艦隊を沈めに行くぞ!」
そう枝島隊長が声を掛けてくれているような気がした。
「おっし! 行くぞ!」
腹の底から声が出ていた。
いよいよだ!
このために、ここまでやってきたんだ!
絶対、でかいやつを沈めてやる!
そう強く念じて、操縦桿を強く握りしめ、隊長と杉谷の待つ輪の中へと舵をとる。
残った3機だけで隊列を組み直し、目標地点へ向けて航路を安定させる。
高度を下げていき、じりじりと海面に近づいていく。
フロントガラスを凝視する。
「居た!!」
どす黒い大海原の上に聳える鉄の要塞が見え始める。
それが、幾隻もの軍艦から構成されているのだということに気が付くまで、少し間が要った。
周りに居る護衛艦や駆逐艦から砲撃が始められる。
自分の操縦する飛行機の真横やすぐ上を砲弾が通り過ぎていく。
右翼の方で閃光が走った。
杉谷の搭乗していた戦闘機が砲弾を受けて左翼から炎が上がっている。仲間がやられた姿を目撃した直後だった。搭載していた爆弾に引火したのか、杉谷機は駆逐艦上で爆裂した。
「杉谷・・・。」
旋回しながら敵の艦隊に近づこうとするも、駆逐艦からの砲撃が激しさを増すばかりだ。このままでは、いつ自分の機体も杉谷の飛行機と同じ運命を辿ることになるか知れたものでない。
周りの護衛艦ではなく、本陣たる艦隊を狙いたい。しかし、まだまだ道は遠かった。
直下でまた閃光が上がった。
「枝島隊長・・・。」
思わず口走っていた。
駆逐艦から火が上がっているのが見えた。
そんなときだった。
「わぁっ!!!」
急に激しい衝撃を受けた。
やられた!!
そう感じるや否や、操縦桿の舵取りが利かなくなった。
左に曲がり続ける。
左翼をやられた!
このまま海に墜とされてたまるものか!
この命と機体と引き換えに、軍艦一つ沈めてやる!!
熱い思いが突沸するかのように湧き上がってきた。
瞬間、右手を操縦桿から離し、左肩辺りを服の上からつかんだ。そして、そこにある感触を確かめると、すぐに操縦桿を握り返した。
家族から出征するときに受け取ったお守りや手紙、写真を左肩の裏地に縫い付けていた。だから、自分は常に家族と共にある。この任務を遂行した後も、すぐに家族の下へ帰れるようにする、道しるべとなってくれると信じて。
目の前には、アメリカ国旗が風にたなびく軍艦が迫っていた。
「我、突入す。」
静かな口調でそう呟く。
そして、生涯のうちに出したことの無いほどの大声で叫ぶ。
「行くぞぉぉぉおおおーーーーー!!!!!」
轟音とともに、沖縄近海の大海原に激しい火花が舞い上がった。
それはまるで、ひと夏の思い出として人々の記憶から忘れさせまいと、煌びやかに輝く大きな花火のようであった。
昭和20年。
日本は大東亜戦争、即ち太平洋戦争の末期にあった。
4月にはアメリカ軍が沖縄へ上陸し、本土防衛の城壁とも言える場所を崩されていき、大日本帝国の戦力は既に風前の灯火となっていた。それでも本土上陸だけは何としても阻止せんと、日本軍の猛攻は続けられ、特攻隊に代表される驚異的な攻勢を見せ続けた。
しかし、8月6日には広島に、その三日後の9日には長崎に原子爆弾が投下され、一瞬にして焦土と化して多くの市民が犠牲になると、もはやこれまでと、8月15日に、天皇陛下自らの肉声で終戦を告げる玉音放送が流された。
それからの日本は、GHQによる占領下に置かれつつも国家としての独立だけは認められ、紆余曲折を経て、元々の敵であったアメリカやヨーロッパ各国と肩を並べるほどの経済大国へと発展し、更には世界一の治安の良さ、永世的に戦争を放棄することが憲法上に規定された、平和な国として世界に名を轟かせるように至った。
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